創作; “光の庭”のうたた寝 =098=

❢❢❢ 遼王朝皇族が耶律大石、王朝再興賦 ❢❢❢

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 ❝ =第一章第5節_31 ; 陰山山脈の南域にて・・・・ ❞
馬の轡を並べて、陰山山脈に開設する秘密の間道を下見した耶律時と苞力強は夕暮れ迫るダルハン砦に向かって陰山山脈中央部を下山していた。 耶律巖と間道開設に汗を流す耶律巖と40名の将兵が誇らしげに隊列を組んで従っている。

「以前、タタルに父が殺される前の幼き頃に、父と共に可敦城へ赴いたことが一度ありました。 確か張家口に通じる二連浩特の北にあるザミン・ウンド村から三日の旅で可敦城に着いたと記憶しています。 この記憶から計れば、陰山山脈北麓を抜け出て辿り着く草原はザミン・ウンド村と可敦城中間あたりと思われますゆえ北西に走ればカタンヅラグの野営地に至るはずです。 この野営地から一日の行程で可敦城ですから、水場から二日の旅程と思われますが」

「なれば、このダルハン砦から可敦城まで、四日の道程。 急げば二日で早や駆け出来る秘密の間道が出現したというわけか。 すごいではないか、これは良い・・・・・」

「力強よ、そなた 三年前にタタルに騙まし討ちにされた父御の仇を大石統帥の策で果たす前に、飲まず食わずで 蒙古草原から北ゴビを超え、陰山東端の二連浩特から南ゴビを渡って錫林郭靭、張家口に抜け出て、燕京の大石統帥を頼ったそうだのぅ・・・・・ 」

「死線を彷徨うとはあのことかと思いますが、ひとかどの武将ならあまた軽軽している事、ただ 一人でいる事の寂しさと、悔しさと、情けなさに・・・・」

「そのような 経緯がござったか。 おぬしが陰山越えの間道に執着したのは肯ける。」

「時殿、力強の発案で、間道には岩落としの障害が設けてあります。 更に 北と南の峠には兵糧と飼葉、飲料水を隠し置き 50名の兵馬が10日間の仮留と戦が出来る構えを備えています。 これらの場所に備え置く兵站は鳥海の忠弁亮殿に手配を依頼しておりますが、ダルハン砦以降の間道へは誰一人として踏み込めぬように注意を払っております」と耶律巖が後方から声を掛けている。 そして、

「最後の詰めに、力強を大石統帥の元まで行かせて、最短を走りえる道を探らせなければ成りますまい・・・・・」とも 耶律時に苞力強の評価を高める行動を促していた。

「それは、言うまでもなきこと。 このダルハン砦の50数騎は化哥殿と巖に任しておる。 相談して、力強を行かせるがよいだろう。 しかし、南の金軍が万里の長城が北域の警備を補強し、厳重な偵察を実施しだした。 金の呉乞買が五原に兵団を送り込むやも知れぬ。 その前に、五原の天祚帝が北宋への逃亡などの動きを見せるかも知れぬ。 巖よ、五原の動向が、大石統帥の大興安嶺に向かわせ 化哥殿の父君が成された東遼を再興なされるか、蒙古高原はウイグル帝国の旧都カラコルム(中興府)に北遼の旗を打ち立てられるかの分かれ目になろう・・・・・。」

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=== 続く ===

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