Ӂ “獅子”と名付けられたバーブル Ӂ
= ティムール帝国皇統継承の戦いに敗れ 新天地のインド転出 =
食卓にメロンが出ると故郷が恋しくて涙し 愛する正嗣が病に倒れれば
神の前に己の命をささげた文人・バープル
◎ 〝パーニーパットの戦い“にて火器使用し像軍団を撃破 ムガール帝国を開闢する ◎
バーブルはティムール朝の創始者が三男のミーラーン・シャーの玄孫であり、
母方の祖父ユーㇴスモグーリスタン・ハン国の君主)はジンギスカンが次男の後裔
= プロローグ(洪統の血筋) 2/8 =
バープルが世に知られる前のティムール帝国の帝都、殷賑を極めた“青の都”は活気を無くしていた。 抑圧者にして破壊者であった跛のティムールがこの“青の都”の建設者であった。 彼は征圧した各地から工芸人・職人や文化人をアムダリヤ川の支流であるサラフシャン川河岸のこの地に呼び集めて帝都・サマルカンドを建設した。
サマルカンド城都の中央部には彼が建立したビービー・ハーヌム・モスクが聳え立つ。 モスクの外壁は高さ167m、幅109mである。 壮大な構えである。 モスクのキューポラ(円形屋根)の高さは40mであり、入口部分の高さは35mである。 中庭には大理石を嵌込する大規模なイスラム教の聖典・クルアーンのスタンドがある。 インド征服の際に、彼が持ち帰った貴石が惜しみなく使用されたモスクである。 礼拝(サラート)を呼びかける尖塔(ミナレット)は50mの高さを誇っている。
この城塞都市であるティムール帝国の帝都サマルカンドは、ステップ気候から中央アジアの砂漠性気候への移行部特有の抜けるような青空とモスクの色から“青の都”と呼ばれている。 しかし、帝都は混乱していた。
アブー・サードはバープルの祖父に当たり、バープルはミーラーン・シャーの玄孫である。 1396年までの間ミーラーン・シャーはティムールが実施する遠征に毎年従軍し、1393年から彼はアゼルバイジャン総督に任命され、この地で善政を敷いていた。
ティムールの子孫の中で最年長者であり、チンギス家の王女ソユン・ベグを娶っていることからティムールの後継者を自任していた。 しかし、ティムールがインド遠征から帰還して間もなく、ミーラーン・シャーはティムールに対して反乱を起こした。 落馬によって精神に異変をきたしたことが遠因なのだが、インド遠征(1398-1399年)から凱旋したティムールは孫のムハンマド・スルターンを後継者に指名した。
ミーラーン・シャーは帝王ティムールの決定に反発した。 ティムール帝国西部の諸侯も彼に同調し、反乱の炎が燃え立つ。 七年戦役と呼ばれる西方での軍事行動が開始される。
しかし、反乱は鎮圧され、ミーラーン・シャーは統治権を取り上げられる。 血族を重んじるティムールは帝国の西部をミーラーン・シャーの息子に分配した。 ハリール・スルタンにアルメニアとグルジア、ウマルにアゼルバイジャン、アバー・バクルにイラン西部とクルディスターンの統治を命じ、ミーラーン・シャーはアバー・バクルに同行して、帝都に帰還を命じられた。
西部域を鎮圧したティムールはアナトリア半島のオスマン帝国をも制圧・蹂躙した後、明朝が治める中国への遠征計画を再開する。 中国遠征の準備は西アジアでの征服事業が一段落した1397年末より進められており、この遠征は異教徒に対する「聖戦」と位置付けられた。 当時ティムールの元に亡命していた北元の皇子オルジェイ・テムルを北元のハーン位に就けて全モンゴルへの影響力を有する意図があった。
遠征を前にしてティムールは国内の有力者とサマルカンドの全住民を招待しての大規模な孫の結婚式を開き、同時に罪人たちに刑を下した。 式が終了する前になり、全ての貴族の前で亡くなったムハンマド・スルタンの弟であるピール・ムハンマドを後継者とすることを宣言した。 1404年11月27日にティムールはサマルカンドを出発して東方遠征に向かう。
この年は気候が悪く、1月にサマルカンドから400km離れたオトラル=ジンギスカーンの因縁の城郭都市=にようやく到達することができたものの、ティムールは病に罹っていた。 配下から寒さで士気の下がった兵士のために宴会を開くことが提案され、3日におよぶ宴会が催された。 ティムールは病身にもかかわらず酒を飲み続けたがついに倒れ、死期が近づいていることを悟った。
病床の周りに集まった王子と貴族に、孫のピール・ムハンマドを後継者とすることを告げ、彼らに遺言を守ることを誓わせ、1405年2月18日にティムールはオトラルで病没した。 亡くなる直前、「神のほかに神は無し」と言い残して・・・。 香水と香料がかけられたティムールの遺体は装飾された担架に乗せられ、密かにサマルカンドに搬送された。
しかし、ティムールの死を知った王族たちは、ピール・ムハンマドを後継者とする遺言に背いて王位を主張する。 この反発の中、病没してから5日後、ティムールの遺体はサマルカンドのグーリ・アミール廟に安置された。
因みに、1941年にソビエト連邦のミハイル・ゲラシモフらの調査隊によってグーリ・アミール廟のティムールの遺体の調査が行われた。 ティムールの棺には「私が死の眠りから起きた時、世界は恐怖に見舞われるだろう」という言葉が刻まれていたが、棺の蓋は開けられて調査が実施される。 さらにゲラシモフは棺の内側に文章を発見し、解読した結果「墓を暴いた者は、私よりも恐ろしい侵略者を解き放つ」という言葉が現れた。
調査から2日後、ナチス・ドイツがバルバロッサ作戦を開始し、ソ連に侵入した。 1942年11月のスターリングラード攻防戦でのソ連軍の反撃の直前に、ティムールの遺体はイスラム教式の丁重な葬礼で再埋葬されたと史実にある。
//////参考資料///////
ティムール朝(Temuriylar)は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル(現在のウズベキスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年-1507年)。その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はインダス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつてのモンゴル帝国の西南部地域を制覇した。創始者のティムール在位中の国家はティムール帝国と呼ばれることが多い。
王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人(チャガタイ人)の一員であった。ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀」後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。これらは最終的に16世紀初頭にウズベクのシャイバーニー朝によって中央アジアの領土を奪われるが、ティムール朝の王族の一人バーブルはアフガニスタンのカーブルを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。
・・・・・世界史(ティムールとムガール) ・・・・・
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