古代エジプト/ブラックファラオ =2/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  紀元前8世紀頃、スーダンにあったヌビア地方に、エジプトを守り続けた王たちがいた ●〇  

彼らはいかにして古代エジプトを支配し、第25王朝を築いたのか

3人の“黒いファラオ”の物語

◎ 古代エジプトを支配した ブラックファラオ =2/6=

ブラックファラオ-3

軽視されたヌビアの歴史

 古代世界に人種差別はなかったようだ。ピイがエジプトを征服した時代には、肌の色は問題にされなかった。古代のエジプト、ギリシャ、ローマの彫刻や壁画には、人種的な特徴や肌の色がはっきりと表現されているが、黒い肌が蔑視されていた様子はほとんどない。肌の色を気にするようになったのは、19世紀に欧州列強がアフリカを植民地化してからだった。

 かつてヌビアのあったナイル川中流域に足を踏み入れた欧州の探検家たちは、優美な神殿やピラミッドを見つけたことを興奮ぎみに書き残している。これは、クシュと呼ばれている古代文明の遺跡だ。

 米ハーバード大学の著名なエジプト学者ジョージ・レイズナーは、1916~19年の発掘調査で、ヌビア人の王によるエジプト支配を裏づける考古学的な証拠を初めて発見した。だが、遺跡の建設者は肌の黒いアフリカ人であるはずがないと主張し、自身の業績に汚点をつけた。

 クシュの王たちは白人だったのか、それとも黒人だったのか。歴史家たちの見解が二転三転する時期が何十年も続いた。権威あるエジプト学者、キース・シーレとジョージ・ステインドーフは1942年の共著書の中で、ヌビア人の王朝とピイ王の征服についてわずか3行ほどしか触れておらず、「だが、彼の支配は長く続かなかった」とあっさり片づけている。

ファラオ-5

 ヌビアの歴史が軽視された背景には、19世紀から20世紀にかけての欧米人の偏見にとらわれた世界観だけでなく、過熱気味のエジプト文明礼賛と、アフリカの歴史に対する理解不足があった。「初めてスーダンに調査に行ったときには、『なんでそんなところに。歴史はエジプトにしかない』と言われたものです」と、スイスの考古学者シャルル・ボネは振り返る。

 それは、ほんの44年前のことだ。そうした見方が変わり出したのは、1960年代にアスワンハイダム建設で水没する遺跡群を救う運動が始まり、多くの遺物が発掘されてからである。

 2003年には、ボネがヌビア人ファラオの大きな石像7体を発見。ナイル川の第3急湍周辺の古代都市ケルマで何十年も続けてきた発掘調査が、ようやく国際的に認められるようになった。だが、ボネはそれよりもずっと前に、ケルマよりも古く、人口密度が高かった都市遺跡も見つけていた。「それはエジプトの影響がない、独自の建築様式と埋葬の習慣をもつ王国でした」。この強大な王朝は、エジプトの中王国が衰退した紀元前1785年頃に興隆した。

 ヌビアの歴代の王たちの物語からわかるのは、アフリカ内陸部に独自の古代文明が栄えていただけでなく、一時はそれがナイル川流域の支配的な勢力となり、北のエジプトと交流し、ときには縁戚関係も結んだという事実だ(ツタンカーメンの祖母にあたる、エジプト第18王朝の王妃ティイには、ヌビア人の血が混じっていたという説もある)。

 西アジアに覇権を広げるための軍資金をヌビアの金鉱に頼っていたエジプトは、南のヌビアが強大な力をもつのを嫌った。そのためエジプト第18王朝(前1539~前1292年)の王たちは、軍隊を派遣してヌビアを征服し、ナイル川に沿って要塞を建設した。ヌビア人の首長を行政官に据え、従順なヌビア人の家の子どもをテーベの学校に送り込んだ。

ファラオ-6

 エジプトに支配されていたこの時期、ヌビア人の特権階級は、エジプトの文化的・宗教的な慣行を採り入れ、エジプトの神々、とりわけアメン神を崇め、エジプトの言葉を話し、エジプトの埋葬方式を採用して、後にはピラミッドを建設するようになった。まるで、19世紀に欧州で巻き起こったエジプト文明礼賛ブームを、数千年前に先取りしていたかのようだ。

 19世紀末から20世紀初めのエジプト学者は、ヌビアが弱小勢力だったために、エジプト文明を採り入れたと解釈した。しかし、この見方はまちがっている。ヌビア人は時代の趨勢を読むのに長けた人々だった。紀元前8世紀頃になると、エジプトは小国に分裂し、北部はリビア人の首長たちが支配した。彼らは、正統な王位継承者であることを示そうと、ファラオの伝統を形式的にまねたが、権力基盤が固まってしまえば、その必要はなくなり、アメン神崇拝の神権政治の色合いは薄れた。

 カルナク神殿の神官たちは、神を畏れぬ統治を嘆き、天罰が下るのを恐れた。そして、強大で神聖なかつてのエジプト王国の再興を願い、新たな指導者を求めて、南に目を向けた。そこにはエジプトに足を踏み入れずに、エジプトの宗教的な伝統を守ってきた人々がいた。考古学者ティモシー・ケンドールの言葉を借りれば、この時点でヌビア人は「エジプト人よりもエジプト人らしかった」のである。

ファラオ-7

・・・・・つづく

・・・・・ブラックファラオ・古代エジプト紀行・・・・・

  ・・・・・メンフィス テーベ ヌビア・・・・・

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