ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =5/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  ヘロデ王(Herod、紀元前73年頃 – 紀元前4年)●〇

共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ王国を統治した王

ヘロデは、真偽は別に様々な逸話が残されている

◇ ヘロデ王 波瀾万丈の生涯 =5/6= ◇

ヘロデ王-9

ヘロデ王の墓を発見

2000年にパレスチナとの間で大規模な武力衝突が起きて発掘は中断したが、2006年はじめ、ヘロディウム発掘を再開した直後に、ネツェルは新たな角度から考えることにした。「何年も下ヘロディウムを掘ってきましたが、墓は見つからない。だから、上を探してみることにしたのです」。ネツェルが狙いを定めたのは、東の塔からそう遠くない地点だった。壁の高さが不規則になっていることから、地下に何かあるのではないかと直観的に思ったのだ。

ふもとの村の尖塔(ミナレット)から、イスラム教の礼拝の時刻を告げる声が流れてくる。発掘地点に上がると、ごつごつした丘の斜面にできた平らな場所に、石灰岩を積んだ高さ9メートルの壁が露出していた。石の切り口がまっすぐで、さっき積み終えたばかりのように表面が輝いている。

2007年春、この新たな場所で発掘を始めてから数カ月後、発掘チームは興味深いものを掘りあてた。それは淡紅色の硬い石灰岩で、美しい彫刻がほどこされている。その一つには、埋葬品によくある円花飾りがあった。発掘チームのベテランの一人、ロイ・ポラスは写真を撮り、「ひょっとして石棺?」と一言添えてネツェルに電子メールで送った。発掘現場を離れていたネツェルは、写真を見て胸を躍らせた。

さらに4月27日、ポラスが地面を掘っているとき、何か大きくて硬いものに当たったような音がした。慎重に掘りだしていくと、メレケ(アラビア語で「王の」という意味)と呼ばれる白い石灰岩の巨大な積み石が三つ出てきた。

 「石材は一級品で、加工技術も高く、装飾も豊富でした。大規模な建築物の一部に違いない、大発見だと確信しました」。ポラスは、すぐさまネツェルに電話で知らせた。

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このときネツェルは、妻ドボラと車で移動中だった。「夫はごく冷静に応対していました」とドボラは語る。「石の様子についてポラスから話を聞き、これまでの出土品とは違うという意見で一致したようです。『よし、まちがいないだろう』。夫はそう言って電話を切りました。その途端に、両手を高く突きあげて『イェッシュ!』と叫んだのです。これは『あったぞ!』という意味の若者言葉です。あんな風に喜ぶ夫を見たのは初めてで、本当にびっくりしました」

掘りあてたその建築物は、かつては高さ24メートルの巨大な記念建造物で、立方体の1階部分の上に円柱形の2階部分が乗り、教会の尖塔のようなとがった屋根があったのではないかと、ネツェルたちは考える。

近くではさらに二つの石棺の断片が見つかった。最初のものにくらべて石の質は劣るが、優美な彫刻がほどこされている。なかには人骨も残っていた。もう、まちがいないだろう。ついにヘロデ王の墓を見つけたのだ。

石棺に意図的な破壊の跡が残っていることから、ヘロデは死後も攻撃の的になっていたことがわかる。特に淡紅色の石棺はハンマーで打ち砕かれて、ばらばらになっていた。おそらくヘロデの死から約70年後、ローマ人の支配に耐えかねたユダヤ人が2度の反乱を起こし、ヘロディウムを占拠した際に破壊されたのだろう。「ユダヤ人からみたヘロデは、ローマへの協力者、つまりユダヤの信仰と政治的独立を踏みにじった裏切り者でした。これはただの略奪ではなく、復讐だったのです」

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//////参考資料///////

Ӂ 大建築家・ヘロデ大王(5/6) Ӂ

王としての全盛期

マリアムネもその後処刑された(紀元前29年頃)が、ヘロデにとってもこれは痛手でこの後サマリアで病気になり、さらに寝込んでいる最中にアレクサンドラがエルサレムの要塞を乗っ取ろうとしたため彼女も処刑したが、こいったこともあり病気が治ってからも不機嫌でさらに粛清を続け、妹のサロメの夫コストバロス(イドメアの元祭司の家系だった人物)、ならびに自分とコストバロス双方の友人であるリュシマコス、ガディアスと呼ばれたアンティパトロス、ドシオテス。

そしてコストバロスにかくまわれてたババスの息子(ハスモン家の遠縁の人物)を謀反容疑で処刑し、こうしてヘロデの無法な行為に異議を唱えられるものはいなくなった。

こうして一通りの粛清が住んだ後ヘロデの王国は一応安定期に入り、ヘロデは壮大な建設計画を実行した。

エルサレムに劇場(市内と市外の平原に1つづつ)を建て、かつての北イスラエル王国の都であったサマリアを復興しセバステと命名し、そこを含め国内の要塞=歴史に名を残す大要塞マサダ、当時の後援者の名をつけたエルサレムの神殿を守るアントニア要塞、自分の名前を冠した要塞都市ヘロディオンや別の要塞都市マカイロス。他にガラリヤやペレア地方、後述のカエサリアにも要塞が建てられ、エルサレムにあったヘロデの宮殿も非常時には要塞に成った。=を強化した。

また、ヘロデに限らず、この頃のローマの属州や同盟国は皇帝アウグストゥスを讃える建築物を建て、「カエサリア」と名付けた都市を築いていたが、ヘロデもまたBC22年に莫大な資材や予算をつぎ込み、フェニキア地方のストラトンの塔と呼ばれた所に防波堤の行き届いた大きな円形の港(それまでこのあたりは遠浅でいい港がなかった)を持ち、カエサルへの神殿が立ち、円形劇場や上下水道が完備した海辺のカイサリア・マリティマを建設した。

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この中でもなんといってもヘロデの名を不朽のものとしたのは、治世の18年目(BC20-19年頃)から始めたエルサレム神殿の大改築であった。 この工事はヘロデの死後も続きアルビヌス総督(AD62-64年)ごろにやっと完成したが、とりあえず1年6か月後に拝殿そのものができた時に完成祝いを行った。

その壮重さは「ヘロデの建物を見たことがないものは誰でも、決して美しいものを見たとは言えない。」ということわざが生まれたほどで、神殿はローマ帝国を含む当時の世界でも評判となり、このヘロデの時代にディアスポラのユダヤ人や非ユダヤ教徒までが神殿に参拝しようとエルサレムをさかんに訪れるようになった。

それだけでなくヘレニズム君主としてもパレスティナや小アジアのユダヤ人が住む多くの都市に多くの公共施設を提供し、この行為はギリシャ系住民の間でヘロデの名声を高めたが、ユダヤ系住民にはかえって反感を買うことになり、数年おきに開いた豪華絢爛な体操や音楽の競技大会はまだしも、剣闘士たちや猛獣の死闘は不敬虔な行為で外国の習俗の模倣で国民の習俗を変えるのは不信仰な行為とされ、劇場建設後まもなく、ヘレニズムかぶれをしてユダヤの慣習から遠ざかるヘロデを嫌った徒党による暗殺未遂事件があった(これはヘロデの部下によって取り押さえられ大事に至らなかった)。  ・・・・・・・つづく

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・・・・・つづく

 

・・・・・マサダ(要塞)ユダヤ人の2000年に渡る流浪の民のきっかけ・・・・・

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