補講:ニューヨーク歴史探訪(4/5)

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● ニューヨークの中心部マンハッタン ●〇

いまは無機質なコンクリートジャングルだが

かつては豊かな生物相を誇る原生林が広がっていた

◇ 補講:ニューヨーク歴史探訪 (4/5) ◇

ニューヨーク市-7

18世紀のニューヨークの歴史(Rebuilding the social structure) / 後節

独立戦争へ: 世界一の海軍を誇るイギリス軍は圧倒的に強く、軍人のために娼婦まで従軍させる財力までありました。一方、アメリカ愛国軍は、いうなれば竹やりで大砲に挑むような有様でした。戦火はカナダから南下し、途中ニューヨークでも火花が散ります。その後ワシントン将軍はずーと南まで逃げては戦いを5年間繰り返します。しかし、長期に渡る戦はイギリス兵の戦意を消失させます。

同時にイギリス本国の世論も反戦へと傾き始めます。終戦気運に拍車をかけるように、フランス(イギリスの敵国)艦隊がアメリカ軍を支援に到着。フランス軍との共闘で、南部イギリス軍の要所ヨークタウンは陥落しました。

ニューヨークと独立戦争: 1776年、五大湖周辺を制圧したイギリス海軍は、1万6千の兵力を以って、海路からニューヨークに攻め込みます。難なくスタッテン島に上陸し、ブルックリンも制圧、北部アメリカの軍事司令塔を現在のブルックリンハイツに配置しました。イギリス軍はマンハッタンを攻略にでます。霧に紛れてイースト川を渡り、マンハッタン上陸に成功。

西へ北へ進軍しました。迎え撃つワシントン率いる愛国軍は北から攻め込みます。両軍は現在の西128ストリートの付近で衝突しました(ハーレムハイツの戦い)。愛国軍は北と東からイギリス軍を挟み撃ちにし(西はハドソン川の断崖絶壁)、戦線は現在のコロンビア大学のキャンパスのある西120ストリート付近まで後退しました。イギリス軍の死者および負傷者171名、アメリカの愛国軍がアメリカ独立戦争で始めて勝利した戦でした。

ニューヨーク-14

独立後の進路: 1783年、フランスの仲介のもとパリ条約が結ばれ、アメリカはイギリスから独立しました。ニューヨークは独立後始めてのアメリカの首都となります(3年間のみ、その後フィラデルフィア、ワシントンDCに移転)。ウォール街にあった市役所(City Hall)が議事堂(Federal Hall)として機能します(現在のニューヨーク証券取引所の斜め)。1789年、その市役所のバルコニーで初代大統領の任命式が行なわれました。$1札の顔写真、独立戦争時のワシントン将軍です。

ワシントンは、指揮官としての技量ではそれほど優れた人物とは評価されていません。しかしこの人には人徳がありました。田舎のバージニアで余生を送るつもりだった彼は、アメリカの強い要望で2期大統領を無難につとめあげます。一方、ニューヨークに駐留していたイギリス軍や王党派の住民は、ニューヨークを離れます。王党派がもっていた広大な農地や生活品などが破格の値段でオークションにかけられたそうです。

19世紀のニューヨークの歴史(Go ahead to be alive)

市街地の拡大: 18世紀まではマンハッタンの南端部分だけが街として働いていましたが、イギリス王党派の土地が開放されたこと、1830年の大火による裕福層の転居、急速な人口増加などが相まって、市街地が北へ北へ広がっていきます。急速な発展により、19世紀末には未踏の地はなくなり、現在のマンハッタンの市街地ができあがりました。ボストン、フィラデルフィアを抜き、アメリカ最大の都市となります(19世紀後半に一旦シカゴにその座を奪われますが、ブルックリンがニューヨーク市に統合されることにより、1898年アメリカ最大都市を奪回)。

マンハッタン中央の5番街(5th Avenue)と西側のブロードウェイ沿いに北へ街は広がり、丁度マス目のように区画整理された街並みになりました。5番街にはギリシャ・ローマ風建築の邸宅が立ち並び(1850年代より邸宅建設が本格化)、ブロードウェイには観劇場やデパート、市場、工場が立ち並びました。ブロードウェイは、南北に24キロと長いマンハッタン島を縦断する、もともとインディアンの馬車道街道をそのまま利用しており、直線的な計画道路ではなく途中で折れ曲がっております。

ニューヨーク-15

移民者のさらなる増加: ニューヨークは、イギリスの支配下から独立し、イギリスからの移民よりも多くの移民がヨーロッパから渡ってくるようになります。1800年代の前半は、アイルランド人とドイツ人が、また1800年代の後半には、イタリア人と東欧ユダヤ人が大西洋を渡ってきました。19世紀の移民者のほとんどは、ロウアー・イーストサイド(現在のチャイナタウンやリトルイタリー)の狭いテナメント(安アパート)に住んでいました。生活や職が安定したファミリーは、このロウアー・イーストから北の地域や、イースト川の向こうのブルックリンに移り住みました。

この4つの民族はともにアメリカ人として民族をアメリカに同化させていく者もいましたが、ユダヤ人、イタリア人などは自身の文化や習慣を現在でも受け継ぎ、自分たちのコミュニティーを引き継いでいる者もいます。この一世紀で、1800年わずか7万6千人だったニューヨークの人口は、337万人にまで膨れ上がりました。アメリカへの移民は、史上最大の民族大移動であり、その入り口はニューヨークでした。

産業の発展(19C前半/19C後半): 金融業が新しい産業として産声を上げ、ウォール街の原型ができます。水路や橋、セントラルパークなどの大規模な公共事業が進められます。また、運河、鉄道、などが整備されマンハッタン内外の交通・搬送での時間短縮が図られるようになりました。19世紀後半には、製鉄、石油採掘・精製、発電などのエネルギー産業が興ります。

また、デパートが建ち、流通業や服飾産業などさまざまな産業形態が生まれ、大衆消費時代が到来します。それをとりまくように保険業、弁護士業などの新しいサービス業が生まれたのもこの時期です。富豪の邸宅は贅を極め、街は夜もガスライトで灯され、世紀末には電灯が昼夜明るいニューヨークを作り出しました。ニューヨークは、全米の富の約半分が集まり、富豪の半数が居を構えるアメリカ最大の商業都市となり、世紀末には、アメリカは、当時世界最大の産業国であったイギリスに肩を並べるまでに成長したのでした。

ニューヨーク-16

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・・・・・つづく

・・・・・ New York: A Journey Through Time ・・・・・

・・・・・ Oct 1934 – Lower East Side Slums, NYC (real sound) ・・・・・

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