追憶のペルシャ =3/5=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● ペルシャ帝国に始まり、約2500年もの長い歴史を誇るイラン ●〇 

アラブによる侵略や政治的弾圧にも耐え

現在に息づく、古代ペルシャの魂に触れた

◇ 追憶のペルシャ =3/5= ◇

アラッタへようこそ

 イランに人々が住み始めたのは、少なくとも1万年前からだと考えられている。イランという国名は、紀元前1500年頃にこの地域へ移り住んできたアーリア人に由来し、以来、さまざまな文明がこの地に花開いてきた。アンカーの編集まだ発掘されず地中に眠る遺跡は数万にものぼるとみられる。

 2000年、イラン南東部のジーロフト近郊で新たな発見があった。ハリル川が氾濫して、数千もの古い墓が偶然、地上に姿を現したのだ。現在、6度目の発掘調査が行われており、興味深い発掘物も見つかっている。ジーロフトには、メソポタミアと同時代に文明が栄えていたという説もあるため、注目が集まっている。

 この発掘調査を指揮しているのが、考古学者のマジシザデー。専門は紀元前3000年頃で、ジーロフトは紀元前2700年頃の青銅器時代に存在した幻の国“アラッタ”ではないかと、考えている。アラッタの優れた工芸品はメソポタミアにまで運ばれたと伝えられるが、現時点で確証はなく、その存在自体に懐疑的な研究者もいる。では、どのような発掘物が見つかれば、この仮説を立証できるのか? 私の問いに、マジシザデーは笑いながらこう答えた。「『アラッタへようこそ』とでも書かれた門ですかね」

 ジーロフトには発掘を待っている遺跡がまだ数千カ所あるが、それらすべてを調べるのは不可能なように思える。 現在イランでは失業者が増え、官僚組織は肥大化して効率が低下し、汚職もまん延している。私が話を聞いた3人のイラン人は、国家の腐敗について、それぞれ「公然の秘密だ」、「以前より悪化している」、「もはや制度として定着してしまった」と言った。

 マジシザデーは「イランはまだ豊かな国とは言えない状態で、考古学は後回しになりがちです。それでも、ジーロフトでの発見以降、国中が発掘調査に関心を示すようになりました。ジーロフトのように有名になりたいと夢見ている小さな町がたくさんあるのです」と語る。

 イランが幾度となく侵略を受けてきた原因は一つではないが、結局、地理的な条件の影響が一番大きいと、マジシザデーも考えている。砂漠に囲まれているため、逃げる場所も、隠れる場所もない。国にとどまって侵略者とうまく共存していくしかなかったからこそ、イランの人々は本心を隠し、他人との付き合い方を規定するタアロフを作り上げたのだろう。

ペルシャ-10

超大国のノスタルジア

 古代から連綿と続く歴史を誇りにするイラン人は、ある種の自負をもっているという。自由と人権を重んじる概念を生んだのは、古代ギリシャではなく、紀元前6世紀頃にキュロス2世が築いた最初のペルシャ帝国、アケメネス朝だったと、彼らは信じているのだ。

 紀元前539年、キュロス2世はバビロンに捕らわれていたユダヤ人を解放し、エルサレムに帰還させると、資金を出して神殿を再建させた。また、宗教的にも文化的にも寛容な、比類ない帝国を設立したのもキュロスだ。ペルシャ帝国は彼の後継者ダレイオス1世のもとで最盛期を迎え、地中海からインダス川まで版図を拡大、やがて、世界史上で最初の“超大国”となった。

 首都テヘランで活動する経済・政治アナリストのサイード・ライラズはこのように話す。「私たちは、いつか再び超大国になれる日を夢見ているのです。この国が抱く、核兵器を保有したいという野望にも、古代ペルシャを懐古する気持ちが関係していると思います」

 イランは原子力発電所の燃料にすると称してウランの濃縮を続けているが、濃縮ウランは核兵器にも転用できる。これに対し、国連は経済制裁を強めてきたが、保守派のマフムード・アフマディーネジャード大統領は強気の姿勢を崩さず、強硬路線を維持している。

 「かつて、この国の領土は現在の3倍もあり、1000年以上の長きにわたって大国として君臨していました」と、ライラズは言う。確かに、ペルシャ帝国は広大な地域を支配していた。今日のイラクはもちろん、パキスタン、アフガニスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタン、タジキスタン、トルコ、ヨルダン、キプロス、シリア、レバノン、イスラエル、エジプト、さらにはコーカサス地方までその版図に含まれていた。

 「その後、時代とともに領土は狭くなっていきました。しかし、こうした歴史を背負い、ノスタルジアを感じるからこそ、イランは現実とかけ離れた幻想を抱き続けているのです」

ペルシャ-11
//////参考資料///////

◇ 参考資料・アケメネス朝(2/2) ◇

ヘロドトスの伝えるところによると、最初に選ばれた君主となった総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニアトラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。なお、このスメルディス(カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の暗殺に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある。

ダレイオス1世とその子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)はギリシャ征服を計画してペルシア戦争(前492年-前449年)を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍はマラトンの戦いアテナイプラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦プラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。その後紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王アルタクセルクセス1世は紀元前449年のカリアスの和約で講和した。

ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争(前431年-前404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(前395年から前387年のコリントス戦争がその典型である)。 その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップの反乱(前372年-前362年)に悩まされていた。

前404年、ダレイオス2世の死後、アルタクセルクセス2世小キュロスの間で、皇位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の退役ギリシャ軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。

宦官で大臣のバゴアスによりアルタクセルクセス3世アルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。ダレイオス3世の代にアレクサンドロス大王とのガウガメラの戦いに敗れて紀元前330年に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女(スタテイラパリュサティス)と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。

ペルシャ-12

・・・・・つづく

・・・・・恐怖から寛大な帝国へ…アケメネス朝ペルシア!・・・・・

 

・・・・・古代ペルシャ製 モザイク玉の謎・・・・・

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