宦官・鄭和 / 聖地巡航 =8=

永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=

 ~聖地メッカへの巡礼者ハッジ~

《YouTubu動画;Zheng He 郑和下西洋 Episode 03》

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鄭和ー47-

◆◇鄭和の第4次遠征・「西洋下り」◇◆

▼インド洋航海の要石、セイロン、モルディブ▼

第4次遠征はベンガル湾の奥に入っていない。 そこに行ったのは第7次遠征の分遣隊である。 榜葛刺国(ベンガル、Bengal)は「蘇門答刺国(スマトラ)より出帆し、帽山(ウエー島)や翠藍島(ニコバル諸島)を通り、西北方に向かって風向がよければ20日[あるいは12日]ばかりで、まず淅地港(チッタゴン)に着き、船を泊め、小船を用いて入港し、500里あまり行くと鎖納児港(ソナルガオン)という所に到着する」。 その岸に上がって行くとこの国があり、「国を挙げてみなイスラム教徒であり……物持ち連中で船を造り、諸外国に赴いて経営するものはすこぶる多いが、外に出て傭われているものもまた多い」と馬歓が書き留めている。

『瀛涯勝覧』による鄭和の航海は 蘇門答刺国(スマトラ)の西端から、セイロン島の南を回り、インド洋に入っている。 その模様はいままでになく具体的に記載されている。

まず、スマトラ島の北端のウエー島である(小)「帽山より南に向かって航海し、よい風向きに乗り、東北[西北の間違いとされる]に3日ばかり行くと、翠藍山(ニコバル諸島)が海中にあらわれる。 この山島は3つ4つあり」。 そして、「ここを過ぎ、西に向かって船で行くこと7日で、鴬歌囁山(セイロン島の山)が見え、また2、3日して仏堂山[セイロン島南端のドンドラ岬]に着き、そこでやっと錫蘭国(セイロン、Ceylon)の波止場、別羅里(ペルワラ)に着く」。

※; 尚、ニコバル・アンダマン(Nicobar Andaman)は裸形国と呼ばれていた。 インド洋のベンガル湾南部に位置する、インドの連邦直轄領。 北緯10度線の北側がアンダマン諸島、南側がニコバル諸島。 主都はポートブレア。 インド政府が国防上の理由により、外国人の立ち入りを制限している。 理由としては、マラッカ海峡への航路を扼する位置にあり、防衛戦略上の要地となっているためである。 また、原住民の保護政策の一環の意味合いもある。

錫蘭国(セイロン)の「物産は細布、撤哈刺[羅紗の一種]、絨毯、兜羅綿[とろめん]、水晶、瑪瑙、珊瑚、真珠、宝石、糖蜜、酥油(乳脂肪)、翠毛、色どりのある顔にかぶる布があり、交易品には金銀、布緞、色絹、青白花磁器、銅銭、麝香、銀珠、水銀、草蓆、胡椒のたぐいを用いる」とある。

鄭和ー26-

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セイロン島概史

鄭和ー41-

錫蘭国(セイロン)は仏教国であって、ペルワラの「海ぎわの山の麓にきれいな石があり、その上に一足跡がある。長さは2尺ばかりで、お釈迦様が翠藍山からやって来てここから上陸した折にこの石を踏んだので、その跡が残ったのだといわれる」。 「国王は金で銭貨を造り通用させている」。 「中国の麝香、生糸、綿、青磁の皿や碗、銅貨、樟脳などが歓迎され、宝石や真珠と取り換えられるのである。 国王は、いつも宝石などを携えた使者を、西洋派遣船隊(宝船)に随行させて、中国に進貢してきた」と馬歓が書き留めている。

なお、このセイロンでは、第3次遠征において、鄭和の一行はセイロンの王の攻撃に遭って、反撃している。 その件について、『星槎勝覧』は「永楽7年、皇帝の命令で正使太監鄭和などは、詔勅を捧げ持ち、さらに金銀の供え物、美しく色どり金を織りこんだ幡(はた)を寺に布施し、石碑を建て、皇帝のおぼしめしを崇め、国王や頭目にお言葉と賜わり物を与えた。

しかし、その王、亜烈苦奈児はもとから恭順でなく、船隊を害せんと謀った。 そこで、我が正使太監鄭和等は深く機密のうちに策をめぐらし、ひそかに兵器を用意して、何回も命令をくり返し、兵士たちに枚[ばい]を含ましめて[音を立てずに]進軍し、夜半に至り、号砲一声、勇敢に突入し、その王を生け捕りにし、永楽9年に明の朝廷に連れ戻ったのである。 しかし、皇帝のお許しによって国に帰らしめたので、四方の夷どもはことごとくしたがった」と記録している。

鄭和ー39-

溜山国(モルディブ、Maldive Islands)は、「蘇門答刺(スマトラ)から出帆し、小帽山を過ぎ、西南に向かって、よい風向きならば10日ばかりで着くことができる」と記し、この環礁群を、「海中に天にそびえ立つ石門」とか、「8つばかりの大きな溜[礁湖をいう]」とかで表現している。 また、この海域は、「海や風の難にあって船頭が磁針や舵をこわし、船がここの溜にぶつかったり、溜に入りこむとだんだんと力をなくし、沈没してしまうので、たいがいの航海する船はみなここを避ける」。

そして、この国は椰子がはなはだ多い。「椰子の実の外皮の繊維を編んで細縄を作り、家々に積ねておくと各地の商船に乗って来た人が買って行き、別の国に売るが、造船などに用いられる。 つまり、このあたりの地方で船を造るには、みな釘などを用いないで孔をあけてから、みなこの縄で縛りつけ、木くさびを加えて、そのあとで土産の瀝青を塗りつけると水が漏れなくなるのである」と記録し、縫合船ダウにおける椰子の使用例をが示す。

その他、竜涎香や子安貝(貝貨として利用される)が特産品となっている。 特に、竜涎香の「値はとても高いので、買いたいものは銀で交易する」。 「国王は銀で小銭を鋳して使用する。 中国の西洋派遣船隊(宝船)が1・2隻ここに行き、竜涎香や椰子などの物を買い集めた」と。

鄭和ー43-

鄭和ー15-

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・・・・・・続く・・・・・・

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宦官・鄭和 / 聖地巡航 =7=

永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=

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鄭和ー37-

◆◇鄭和の第4次遠征・「西洋下り」◇◆

マラッカ王国(Malacca Sultanate

マラッカ王家の末裔が治めるジョホール王国で編纂された年代記スジャラ・ムラユ(Sejarah Melayu)』によると、マラッカ王室はアレクサンドロス大王の血を引き、インドチョーラ王国の王ラジャ・チュランと海の王の娘の間の子を祖とする。

ラジャ・チュランの三男スリ・トリ・ブワナはパレンバンの王に迎え入れられ、後にシンガプラ(現在のシンガポール)に移住した。

彼の曾孫がマラッカに移住して王国を建設したと『スジャラ・ムラユ』は伝えるが、ピレスの『東方諸国記』や中国の史料より、実際の王国の建国者は後述するパラメスワラ(Parameswara、パラミソラとも)と判明している。 『スジャラ・ムラユ』に書かれるスリ・トリ・ブワナから彼の玄孫の五代にわたっての事績は、パラメスワラ一代に起きた事件を5人の人物に託したものである。

14世紀末から15世紀初頭にかけてマジャパヒト王国で起きた内戦(パルグルグ戦争)に巻き込まれたスマトラ島南部パレンバンのシュリーヴィジャヤ王国の王子パラメスワラが、従者を伴ってマレー半島に逃れたのが王国の起源である。

当初一行はトゥマシク(シンガプラ、現在のシンガポール)に逃れたがトゥマシクは海賊たちが跋扈する危険な地であり、またタイのアユタヤ朝からの攻撃に晒されたためにマレー半島を移動し、15世紀初頭にパレンバン、シンガプラなどに居住する「オラン・スラット」と呼ばれるマラッカ海峡の海上民の協力を得て村落を造り、集落を「マラッカ」と名付けてパラメスワラが王となった。

1405年に明への朝貢を開始、明の鄭和艦隊の保護下でマラッカは東西貿易の中継港としての道を歩み始める。 パラメスワラの子イスカンダル・シャーはマレー半島におけるマラッカ王国の支配領域を拡大し、マラッカ海峡の交易路を確保するために北スマトラの東海岸に存在するサムドラ・パサイ王国に目を付けるが、当時のマラッカの軍事力はパサイに比べて劣っていた。

ピレスによると、イスカンダル・シャーは戦争という手段に訴えず婚姻関係を作る道を選択し、72歳という高齢にもかかわらずパサイの王女を娶った。

パサイの仲介によって敵対していたマジャパヒトとの関係が良化し、またパサイに住むイスラム教徒のマラッカへの移住も始まった。 イスカンダル・シャーは周辺地域の海賊、漁師にマラッカへの移住を積極的に勧め、彼の治世の3年目(1416年 – 1417年ごろ)には人口は2000から6000人に到達した。

マラッカの発展にはパラメスワラが連れてきたシュリーヴィジャヤの貴族と海上民以外に、明が実施した私貿易の禁止によって東南アジア各地に留まらざるを得なくなった中国人のコミュニティも寄与していた。 彼らは明への朝貢貿易を組織し、また中国の造船技術と東南アジア島嶼部本来の造船技術が合わさったジャンク船を建造して海洋交易で活躍したのである。

鄭和ー30-

▼スマトラ島のイスラーム教徒の国々▼

スマトラ島北岸のメダン北方にあるアルー湾に、唖魯国(アルー、Aru)という小さな国があり、「満刺加国よりともづなをとき、風向がよければ4昼夜で着くことができる」。 この国の「物産は鶴頂鳥、片米糖脳で、商船に売り、交易品としては色段、色絹、磁器、ビーズなど」と馬歓が書き留めた『瀛涯勝覧』にある。

また、同じくスマトラ島北岸に、蘇門答刺国(スマトラ、Samatra)がある。 元史は蘇木都刺と記し、マルコ・ポーロはサマトラ、 イブン・バットゥータ=別章にて記載=はスムトラ(その都をスムトラ・パサイ)と記している。  蘇門答刺はスマトラ島の北端の一地方であったが、やがて島の大部分を指すようになる。

そこは西洋と意識されており、「西洋の要会」と呼ばれ、当時イスラーム教徒の商人の拠点となっていた。 「ここは西洋の幹線水路で、西洋派遣船隊は満刺加国から西南(※; 地図上よりみれば西北にあたる)に向かい、風向きがよければ5昼夜で、ひとまず海沿いのある村に着く」。

このスマトラで、鄭和は王の後継争いに介入している。 王が、那児孤(後出)の王との戦闘で、毒矢にあたって死ぬ。王の妻は、王子が幼いので夫の敵は討てないとし、それを討った者の妻になるとした。老漁師が奮い立って、敵の王を討ち滅ぼし、老王となる。 彼は、「永楽7年(1409)にはひとたび朝貢して天恩に浴し、永楽10年(1412)にはまた朝貢した」。

先王の子が成長し、老漁師を殺して王位を奪う。 しかし、老漁師には蘇幹刺という嫡子がおり、手下を率いて、父の敵を討たんとする。 そのとき、「永楽13年(1415)に、正使の太監鄭和などが西洋派遣船隊を率いてここに到着し、兵を出して蘇幹刺をとりこにし、明の都に送ってその罪を明らかにしたので、王子は聖恩に感じ、明の朝廷に朝貢を続けるようになった」。

なお、『星槎勝覧』では、「永楽11年、偽王蘇幹刺がこの国を纂奪した。 国王は使を遣わして明の朝廷に至り救援を願ったのである。そこで、皇帝は正使太監鄭和などに兵を率いて討たしめ、偽王を生け捕りにして永楽13年に帰国し、朝廷に献じたので諸番はみな服した」となっている。

いずれにしても、明あるいは鄭和は蘇幹刺を偽王と退け、血統を支持したのである。

この国の胡椒について、「山あいに住む人々が農園で作っている……黄白色の花が咲き、胡椒の実が結ぶ。若いうちは青く、熟すれば紅くなる。その半ば熟しかかったころに摘みとり、晒し干して売りに出す。この胡椒の粒の大きいのがここの胡椒である。中国秤100斤ごとに金銭80、銀になおして1両で売られる」と、珍しくも、その価格を示すし、

「ここは沢山の船舶が往来するところで、国中のいろいろな交易品が沢山売られる。 この国で使われるのは金銭や錫銭である。金銭は底那児(ディナール)といわれ、7分金で鋳造される。 それは円くて、1個ごとの直径は中国寸で5分あり、裏面には模様がある。中国秤では2分3厘あり、48個ごとに重さは金で1両4分ある。錫銭はここでは加失といわれ、およその売買は普通は錫銭を使用し、国内の一応の売買交易はみな16両をもって1斤とし、その時の相場で通用している」とも馬歓は追記している。

このスマトラへの交易品としては「青白磁器、銅銭、金銀、爪哇布[ジャワ・サラサ?]、色模様の絹などがある」となっている。 スマトラ島の北部には、スマトラに攻め入った那孤児国(ナクール、Nakur)があり、「物産は香味、青蓮花近布……硫黄を産する。

我が明朝の船隊が蘇門答刺に駐まっているとき、その山でとれた硫黄を船にまで送ってきた。 交易品には、段帛、磁器の類」であった。さらに、黎代国(リディ、Lide)という小国があり、蘇門答刺国に随って中国に進貢してきているという=『星槎勝覧』より=。

さらに、スマトラ島の西北端には、「蘇門答刺から真西に向かって、風向きがよければ、3昼夜で到着することができる」ところに、南孛里国(ランブリ、Lambri)があり、国王をはじめ人々は誰もがイスラーム教徒である。 この国の王は「西洋派遣船隊(宝船)にしたがって、降真香などの貢物を持って中国にやって来た」。

鄭和ー10-

アユタヤ王朝

アユタヤ王朝(1351年 – 1767年)は現タイの中部アユタヤを中心に展開したタイ族による王朝。 創設者はラーマーティボーディー1世(ウートーン王)。 王統は一つではなく、隣国の征服や重臣の簒奪で、5つの王家にわかれる。

ウートーン王の出身については、歴史資料上はっきりしていない。 そのためいくつかの説が提出されてきた。 なかには、疫病(おそらくはコレラ)で見捨てたチエンセーンから移住してきたといった説や、スパンブリー出身、ロッブリー出身説などがある。

いずれにしろ、アユタヤ朝創設当時の、近隣の状況は、北にスコータイ王朝が隣接していたにもかかわらず、アユタヤを創設したタイ中部は、スコータイ朝の領土でなかったこと、さらに、アユタヤ時代が始まる直前までの古い遺跡がタイ中部で見つかっていることから、歴史資料としてまだ見つかっていない王朝がすでに存在していたことが窺える。

あるいは、小国が並立していたというようなことも考えられる。 例えば、この空白期(アユタヤ朝創設以前のタイ中部)にロッブリーやペッチャブリーはスコータイ朝とは別に中国に朝貢している。 したがって、ウートーン王の出身もおそらくタイ中部のある国の王家からだと考えるのが妥当であろうと考えられている。

ちなみに、ウートーンというのは金のゆりかごを意味し、伝承の中でタイ中部でこの名を持つ王は多い。つまり、タイ中部の名づけの習慣でもある。

ウートーン王は、王朝年代記ではラーマーティボーディーという名で記述されている。王が即位するにあたり、姻戚のスパンナプーム王家(スパンブリー王家)の協力が不可欠であったことは、後の対スコータイ政策で顕著となる。 ウートーン王家(ロッブリー王家)とスパンナプーム王家はその後、数代に渡って王位を争ったが、最終的にスパンナプーム王家が勝利した。

ラーマーティボーディー(1世)は国内統一のため、セイロンから仏僧を招いて上座部仏教(小乗仏教)を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥーの法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に三印法典を整備した。 三印法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能することになる。

14世紀末までにはアユタヤ王朝は東南アジア最大の勢力として見なされるようになるが、完全に東南アジア地域を圧倒するほどの人口に欠けていた。 このため、当時衰退しつつあったクメール王朝へ勢力を伸ばしつつあったベトナム勢力に対抗するため、ラーマーティボーディーは晩年アンコールクメール人の都市)を攻撃しアユタヤの版図に加えた(1362年)。

鄭和ー38-

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・・・・・・続く・・・・・・

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