永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=
~聖地メッカへの巡礼者ハッジ~
《YouTubu動画;Zheng He 郑和下西洋 Episode 03》
http://www.youtube.com/watch?v=Q24ML8O-R0s&list=PL88B72D435D5E0C36
◆◇鄭和の第4次遠征・「西洋下り」◇◆
▼インド洋航海の要石、セイロン、モルディブ▼
第4次遠征はベンガル湾の奥に入っていない。 そこに行ったのは第7次遠征の分遣隊である。 榜葛刺国(ベンガル、Bengal)は「蘇門答刺国(スマトラ)より出帆し、帽山(ウエー島)や翠藍島(ニコバル諸島)を通り、西北方に向かって風向がよければ20日[あるいは12日]ばかりで、まず淅地港(チッタゴン)に着き、船を泊め、小船を用いて入港し、500里あまり行くと鎖納児港(ソナルガオン)という所に到着する」。 その岸に上がって行くとこの国があり、「国を挙げてみなイスラム教徒であり……物持ち連中で船を造り、諸外国に赴いて経営するものはすこぶる多いが、外に出て傭われているものもまた多い」と馬歓が書き留めている。
『瀛涯勝覧』による鄭和の航海は 蘇門答刺国(スマトラ)の西端から、セイロン島の南を回り、インド洋に入っている。 その模様はいままでになく具体的に記載されている。
まず、スマトラ島の北端のウエー島である(小)「帽山より南に向かって航海し、よい風向きに乗り、東北[西北の間違いとされる]に3日ばかり行くと、翠藍山(ニコバル諸島)が海中にあらわれる。 この山島は3つ4つあり」。 そして、「ここを過ぎ、西に向かって船で行くこと7日で、鴬歌囁山(セイロン島の山)が見え、また2、3日して仏堂山[セイロン島南端のドンドラ岬]に着き、そこでやっと錫蘭国(セイロン、Ceylon)の波止場、別羅里(ペルワラ)に着く」。
※; 尚、ニコバル・アンダマン(Nicobar Andaman)は裸形国と呼ばれていた。 インド洋のベンガル湾南部に位置する、インドの連邦直轄領。 北緯10度線の北側がアンダマン諸島、南側がニコバル諸島。 主都はポートブレア。 インド政府が国防上の理由により、外国人の立ち入りを制限している。 理由としては、マラッカ海峡への航路を扼する位置にあり、防衛戦略上の要地となっているためである。 また、原住民の保護政策の一環の意味合いもある。
錫蘭国(セイロン)の「物産は細布、撤哈刺[羅紗の一種]、絨毯、兜羅綿[とろめん]、水晶、瑪瑙、珊瑚、真珠、宝石、糖蜜、酥油(乳脂肪)、翠毛、色どりのある顔にかぶる布があり、交易品には金銀、布緞、色絹、青白花磁器、銅銭、麝香、銀珠、水銀、草蓆、胡椒のたぐいを用いる」とある。
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セイロン島概史
- 紀元前5世紀:シンハラ人の先祖にあたる人々が北インドから移住して王国をつくったとされる。王都はアヌラーダプラにおかれた。
- 紀元前3世紀:アショーカ王の王子マヒンダ(英語版)が仏教を伝えたとされ、これ以後上座部仏教(テーラワーダ仏教)を主体として仏教が興隆し、その中心地となって、シンハラ人の多くは現在までその信仰を守ってきた。
- 紀元前2世紀以来:南インドからタミル人を主体とする断続的な移住者があり、現在のスリランカ・タミル人の原型を形成したと考えられる。
- 5世紀:アヌラーダプラで父を殺した王子はシーギリアロックの岩山の頂に宮殿を築いて遷都してカッサパ1世(英語版)となったが、短期間で元に戻る。
- 11世紀:1017年、南インドのチョーラ朝の侵入により王都を放棄した。
- 11世紀:王国はアヌラーダプラの南東90キロのポロンナルワに移動し、1070年にチョーラ朝の勢力は撃退され、繁栄の時代を迎えた。ポロンナルワが王都となる(1070-1255、1287-1293)。
- 13世紀:南インドでの動乱に伴い、チョーラ朝のタミル人の侵入が激しくなった。王都は北部から中部・南部に移動し、ダンバデニヤやヤーパフワを経て、コーッテでやや安定する。マルコ・ポーロが来島し、『東方見聞録』に記録を残す。
- 14世紀:イブン・バットゥータが来島し、『三大陸周遊記』に記録を残す。
- 15世紀:鄭和が1410年に来島し、形式上では明の朝貢国となった。中央部にキャンディ王国(1469-1815)が成立し、キャンディを王都とした。低地にはコーッテ王国(1371-1597)、北部にはジャフナ王国(14世紀-1620)があった。
- 16世紀:1505年にポルトガル人がコロンボに商館を建設し植民地化(ポルトガル領セイロン、1505-1658)。植民地都市ゴールも建設される。
- 17世紀:ポルトガルに代わりオランダが植民地化(オランダ領セイロン、1658-1796)。
- 18世紀:イギリスの東インド会社がコロンボを占拠し植民地化を始める(イギリス領セイロン、1796-1948)。
- 1802年:イギリス本国の直轄植民地 (crown land) になり、アミアン講和条約でイギリスの領有が確定する。
- 1815年:イギリス軍はキャンディに入り、王権は消滅した。ウィーン会議でオランダからイギリスへの譲渡が正式決定。
- 1832年:コールブルックの改革(~1833)で、全土が均一に支配されるようになった。
- 1891年:ダルマパーラが大菩提協会 (Maha Bodhi Society) を創立した。
- 1931年:ドナモア憲法 (Donoughmore Constitution) が制定され、アジア初の普通選挙法が施行された。
錫蘭国(セイロン)は仏教国であって、ペルワラの「海ぎわの山の麓にきれいな石があり、その上に一足跡がある。長さは2尺ばかりで、お釈迦様が翠藍山からやって来てここから上陸した折にこの石を踏んだので、その跡が残ったのだといわれる」。 「国王は金で銭貨を造り通用させている」。 「中国の麝香、生糸、綿、青磁の皿や碗、銅貨、樟脳などが歓迎され、宝石や真珠と取り換えられるのである。 国王は、いつも宝石などを携えた使者を、西洋派遣船隊(宝船)に随行させて、中国に進貢してきた」と馬歓が書き留めている。
なお、このセイロンでは、第3次遠征において、鄭和の一行はセイロンの王の攻撃に遭って、反撃している。 その件について、『星槎勝覧』は「永楽7年、皇帝の命令で正使太監鄭和などは、詔勅を捧げ持ち、さらに金銀の供え物、美しく色どり金を織りこんだ幡(はた)を寺に布施し、石碑を建て、皇帝のおぼしめしを崇め、国王や頭目にお言葉と賜わり物を与えた。
しかし、その王、亜烈苦奈児はもとから恭順でなく、船隊を害せんと謀った。 そこで、我が正使太監鄭和等は深く機密のうちに策をめぐらし、ひそかに兵器を用意して、何回も命令をくり返し、兵士たちに枚[ばい]を含ましめて[音を立てずに]進軍し、夜半に至り、号砲一声、勇敢に突入し、その王を生け捕りにし、永楽9年に明の朝廷に連れ戻ったのである。 しかし、皇帝のお許しによって国に帰らしめたので、四方の夷どもはことごとくしたがった」と記録している。
溜山国(モルディブ、Maldive Islands)は、「蘇門答刺(スマトラ)から出帆し、小帽山を過ぎ、西南に向かって、よい風向きならば10日ばかりで着くことができる」と記し、この環礁群を、「海中に天にそびえ立つ石門」とか、「8つばかりの大きな溜[礁湖をいう]」とかで表現している。 また、この海域は、「海や風の難にあって船頭が磁針や舵をこわし、船がここの溜にぶつかったり、溜に入りこむとだんだんと力をなくし、沈没してしまうので、たいがいの航海する船はみなここを避ける」。
そして、この国は椰子がはなはだ多い。「椰子の実の外皮の繊維を編んで細縄を作り、家々に積ねておくと各地の商船に乗って来た人が買って行き、別の国に売るが、造船などに用いられる。 つまり、このあたりの地方で船を造るには、みな釘などを用いないで孔をあけてから、みなこの縄で縛りつけ、木くさびを加えて、そのあとで土産の瀝青を塗りつけると水が漏れなくなるのである」と記録し、縫合船ダウにおける椰子の使用例をが示す。
その他、竜涎香や子安貝(貝貨として利用される)が特産品となっている。 特に、竜涎香の「値はとても高いので、買いたいものは銀で交易する」。 「国王は銀で小銭を鋳して使用する。 中国の西洋派遣船隊(宝船)が1・2隻ここに行き、竜涎香や椰子などの物を買い集めた」と。
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・・・・・・続く・・・・・・
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