騎馬遊牧民族の移動・匈奴 (2)

= 漢の劉邦が恐怖した匈奴の勃興と衰退 =

匈奴ー2-1-

紀元前177年、匈奴の右賢王が河南の地へ侵入し、上郡で略奪を働いた。

そのため、漢の文帝(諡号、孝文皇帝 在位:前180年-前157年)は丞相の灌嬰に右賢王を撃たせている。

白登山の一件以来、初めて匈奴に手を出した漢であったが、その頃の単于冒頓(ぼくとつ ぜんう:Mòdú Chányú)は西方侵略に忙しく、とくに咎めることなく、むしろ匈奴側の非を認めている。

この時、単于冒頓は条約を破った右賢王に 敦煌付近にいた月氏を駆逐させ、楼蘭,烏孫,及び 西域26国を匈奴の支配下に収めている。

 老上単于(ロウジョウ・ゼンウ)は、冒頓単于の子 父の死により単于に即位した(在位:紀元前174年-紀元前161年)。

漢の文帝は 皇族の娘を公主にしたてて老上単于に嫁がせ、 匈奴の閼氏(エンシ:皇后)とさせるのです。

このとき文帝は燕出身の燕出身の菅官・中行説を公主のおもり役として一緒に匈奴へ送っている。 中行説は匈奴行きを何度か固辞したが否応なく使節の列に加えられ、不満を抱いて匈奴に赴いた。

匈奴の王庭に着くなり 彼は 漢に背き 匈奴の単于に仕えた。 老上単于の相談役となった。

この頃の匈奴では 冒頓単于以来、漢から送られてくる膨大な絹綿や食料などの物資を愛好するようになり、老上単于もまた愛好していた。

以前の匈奴と言えば、服装は毛皮で、食物は肉か乳製品であった。 中行説は「漢の文化に染まるのはよくありません」と 老上単于を諫める一方、

記録方法や課税方法などを匈奴に伝授して匈奴の国家発展に貢献する。 が、彼は仮面教師であった。

中行説は漢からの贈り物をこれ以上受け取ることは匈奴にとって良くない事だと 老上に説き、さらに匈奴の欲しいものは漢から略奪すればよいと 漢への侵攻をけしかけ 漢への侵攻を促しては 漢帝国を苦しめている。

匈奴ー2-2-

紀元前166年、老上単于率いる匈奴軍14万騎は朝那・蕭関に侵入し、北地都尉の孫卬を殺し、人民と畜産を甚だ多く略奪し、遂に彭陽にまで侵略している。

老上単于は 奇兵に命じて回中宮を焼き払わせ、斥候には雍州の甘泉にまで行かせた。

この情報に 文帝は中尉の周舍、郎中令の張武に命じて将軍とし、戦車千乗、騎10万を発して、長安の旁らに 諸兵を置き 匈奴の侵攻に備えさせ、 また 文帝は昌侯の盧卿を上郡将軍とし、寧侯の魏遬を北地将軍、隆慮侯の周灶を隴西将軍、東陽侯の張相如を大将軍、成侯の董赤を前将軍として、戦車と騎兵の大軍を繰り出し、匈奴討伐に向かわせた。

老上単于は塞(長城)内に1ヶ月あまり留まった末、ようやく立ち去り、漢軍は塞を出てこれを追撃したがすぐに帰還し 追撃を止めている。

匈奴は 日に日に傲慢になり、毎年のように侵入するようになり、多くの人民と畜産を殺して奪っては 塞(長城)外にもどって行く。

特に 雲中郡と遼東郡が最も甚大な被害を受け、代郡にいたっては1万人あまりも殺され、 漢はこれを患い、匈奴に使者をやって書簡を送ると、老上単于の方も 使者を出し 形式的な返礼陳謝している。

長城を挟んで 拮抗する両国は ようやく 講和を結んで友好関係を取り戻した。 が、4年後(紀元前161年)、老上稽粥単于が死に、子の軍臣が立って単于となった。

匈奴ー2-3-

匈奴で軍臣単于(ぐんしん ぜんう:Jūnchén Chányú 在位:前161年-前127年)が 紀元前161年、父の死により即位すると、漢の文帝は また 匈奴と友好条約を結びんだ。

4年後(前158年)、匈奴は漢との友好条約を破り、大挙して上郡・雲中郡に侵入。 これに対し、漢が国境警備を強化したため、匈奴は長城から遠く離れ 漢の情勢を探っている。

1年あまりの後(前157年)、文帝が崩御、景帝(諡号、孝景皇帝 在位:前156年-前141年)が即位する。

 景帝は 匈奴とふたたび友好関係を結び、関所での交易を許し、漢の公主を娶らせている。

しかし 互いに友好条約を結んでは破ることを繰り返し、外交関係は不安定な状況であった。 また 景帝は軍事行動を起こすことに抑制的であった。

武帝(諡号、孝武皇帝 在位:前141年-前87年)が即位すると 状況は一転、武帝は攻勢に転じた。 武帝は匈奴への弱腰外交に我慢できなかった。 白頭山の雪辱を忘れなかった。

元光2年(前133年)に将軍の王恢の計略を巡らし、馬邑の富豪である聶翁壹が禁令違反の貢物を携えて、軍臣単于を宴席の場で 騙し討ちにする暗殺計画を実行した。

軍臣単于は 怪しいと察知し 随行の漢将から仔細を聴き 至急引き揚げてしまい、暗殺計画が露呈した。 これ以後、匈奴は漢との友好関係を断交し、再び対立の時代を迎える。

馬邑の事件から5年後(前129年)の秋、漢の武帝は 衛青公孫賀公孫敖李広の4将軍を匈奴へ向けて派兵したが、ほとんど成果がなかったばかりか、李広などは敗北して生け捕りにされるという失態を犯した。

元朔元年(前128年)秋、匈奴の2万騎は漢の領内へ侵入し、遼西太守を殺害して2千人あまりの住民を連れ去った。 さらに漁陽にも侵入し、将軍の韓安国を包囲した。

しかし、燕からの援軍が来たので匈奴は撤退した。 その後も匈奴は雁門に侵入したが、漢の衛青,李息の軍に撃退され、数千人が殺害・捕虜にさる交戦が起こる。

匈奴ー2-3-

元朔2年(前127年)、衛青は雲中から隴西まで進軍し、オルドス(黄河の大湾曲部、陰山山脈南)に割拠する楼煩と白羊王を撃退し、秦代以来となる河南の地=オルドス=を匈奴から取り戻した。

これにより漢は、朔方に長城を築き、秦の蒙恬の砦を修復して防備を固めた。 この年の冬、軍臣単于が死に、その弟である左谷蠡王の伊稚斜が単于の位についた。

≪ オルドス ; 私はこの地を二度旅している。 氷着いた黄河をジープで渡航し、騎馬の軍団が容易に行き交える事を実感した。 この地は大草原であった。 中央部に成吉思汗廟があった。

だが 大日本帝国が軍資金捻出のため 芥子を植え、放置した。 その後 漢人の農民が流入し 土地を荒廃させた。

草原は一挙に砂漠化した。 日本・北京を襲う黄砂公害は これが原因です。 また 文化大革命のおり、成吉思汗廟は紅衛兵に破壊されてしまったままである ≫

伊稚斜単于(イジャゼンウ、生年不詳-紀元前114年)は、老上単于の子、軍臣単于の弟です。

紀元前161年、兄の軍臣単于が即位すると、左谷蠡王に封ぜられている。 紀元前127年、兄の死後、その太子であった於単(オタン)を退け、自ら立って単于となった(在位:紀元前126年-紀元前114年)。

於単は漢に亡命したため、渉安侯に封ぜられたが、 亡命先でまもなく死去している。

紀元前126年夏、匈奴の騎兵数万は代郡に侵入し、太守の恭友を殺害し、千人余りの住民を連れ去った。

その翌年(前125年)、匈奴は代郡,定襄郡,上郡に侵入し、数千人を連れ去った。 時に匈奴の右賢王は 漢がオルドスを奪い、朔方に長城を築いたことに怨みを持ち、たびたび国境地帯に侵入して略奪をはたらいた。

元朔5年(前124年)春、漢は衛青を大将軍に任命し、6将軍10余万の大軍で匈奴を討たせた。

そのとき右賢王は 漢軍が来るまいと思って酒を飲んでいたが、漢軍の夜襲をくらって身一つで逃走した。

漢軍は右賢王配下の民衆男女合わせて1万5千人と、裨小王(ヒショウオウ:部族長)10余人を捕えた。

その秋、匈奴の1万騎は代郡に侵入して都尉の朱英を殺害し、千余人の住民を連れ去っている。

元朔6年(前123年)春、ふたたび漢は大将軍の衛青に匈奴を撃たせ、1万9千人余りを斬首・捕虜にした。

一方で伊稚斜単于はかつて匈奴から漢に降った前将軍・翕侯の趙信を捕えたので、彼を自次王(ジシオウに封じ、自分の姉を娶らせている。

≪ 匈奴は 以降も 漢族の人材を優遇し、自陣を活性化させている。 「遊牧民のこだわりなさ」でしょうか ≫

その後、伊稚斜単于は趙信の計略を用いて 対漢軍にあたった。

匈奴ー2-4-

元狩2年(前121年)春、漢は驃騎将軍の霍去病に1万騎をつけて匈奴を攻撃させ、匈奴の休屠王を撃退。 つづいて合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。

霍去病は8千人を斬首・捕虜とし、匈奴の休屠王を撃退して その地にある天を祭るときの黄金の像を奪った。

その夏、霍去病は合騎侯の公孫敖とともに匈奴が割拠する祁連山を攻撃した。

同じ頃、匈奴の左賢王は 代郡と雁門郡を略奪していたが、博望侯(張騫)と李広の攻撃に遭った。 激戦の後、左賢王は退いている。

元狩3年(前120年)、匈奴は右北平と定襄に侵入して千人余りの住民を殺害・略奪した。

その翌年(前119年)春、漢は衛青と霍去病をそれぞれ定襄郡,代郡から進軍させ、伊稚斜単于を攻撃した。

伊稚斜単于は漢軍にかなわないと思い、西方へ逃走した。 このとき、右谷蠡王は 伊稚斜単于が死んだものと思い、自ら立って単于となったが、あとで伊稚斜単于が戻って来たので単于号を返上しています。

一方、左賢王は霍去病と戦ったが敗れ、7万人を失ったため、遠くへ逃走した。

その秋、伊稚斜単于は 渾邪王と休屠王が西方を守備していたにもかかわらず、数万人の部下を漢に殺されたことに怒って 2人を処刑しようとした。

しかし、それを恐れた渾邪王と休屠王は漢に降伏してしまう。 このとき、渾邪王は休屠王を殺害して自分だけが漢に投降した。

伊稚斜単于は在位13年(前114年)で死に、子の烏維が単于の位についた。

伊稚斜単于が滅した後の匈奴は 重要拠点である河西回廊を失い、渾邪王を漢に寝返らせてしまい、

さらに 元狩4年の 衛青と霍去病の遠征による大敗が、漠南の地(内モンコル)が漢に奪われるなど 軍事的な形勢は完全に逆転していた。

次の烏維単于の代には 漢から人質を要求されるようになった。

また 漢が匈奴に代わって西域を支配すると、交易による 収入が途絶え、匈奴の財政は困窮していく。

武帝の目的 河西回廊への 必要以上の拘りは ここにあった。 匈奴の経済封鎖です。

匈奴ー2-5-

_______ 続く _______

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騎馬遊牧民族の移動・匈奴 (1)

 = 漢の劉邦が恐怖した匈奴の勃興と衰退 =

匈奴ー1-5-

“王昭君”の陵墓は 内蒙古自治区フフホト市の郊外にある。

この陵墓には 三度訪れている。 稀娜嬢の案内で友人達と初めて行き、以降 大召・万部華厳経塔(白塔)等案内してもらった。 フフホト市に滞在していた折の事、彼女はチンギス・ハーンの子孫であることを 暫くして 後に知った。

内蒙古自治区には成吉思汗の子孫は ごろごろ いる。 友人の三人もそうだ。 35・36代目である。 家名が“包”姓であれば チンギス・ハーンの血筋である。

ただ、稀娜嬢はチンギス・ハーンの末子・トルイの子孫、調べればトルイの孫は130人以上と記録にあるから どの血統なのか しかし

訪れたシリンホト市(ゴビ砂漠の東)で成吉思汗の血縁が参集した折に 父君が先導役を務たことから また 母方が名のある将軍と言うからには 家柄としては本流であろう。

彼女は二十歳前であった。 蒙古族の歴史を話してくれた。 以来 モンゴル・ウイグル・匈奴と興味つきることなく、未だに 歴史の森を彷徨っている。

匈奴ー1-1-

匈奴(キョウド)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。

紀元前215年、秦の始皇帝は将軍の蒙恬に匈奴を討伐させ、河南の地(オルドス地方)を占領して匈奴を駆逐するとともに、長城を修築して北方騎馬民族の侵入を防いだ。

北方では東胡(東部の遊牧民族),月氏(東・中央アジアの遊牧民族 国家名)が強力であった時代、 単于頭曼は秦に勝てず北方に移動した。

十年余りが過ぎ、始皇帝や蒙恬が死に、諸侯は秦朝に叛き、中国は動乱の巷と化し、秦が遠方の地に出した流刑兵(国境防御策)は みな還り去ってる。

単于(遊牧民の君主)の頭曼は始皇帝および蒙恬の存命中に中国へ侵入できなかったものの、彼らの死(前210年)によってふたたび黄河を越えて河南の地を取り戻すことができた。

頭曼には太子がいた。 名を冒頓といった。 紀元前200年頃 冒頓は頭曼単于の長子として生まれた。 後に頭曼の寵愛する閼氏(エンシ:単于の妻 この家系が五胡十六国時代まで中国を支配する)が末子を生んだ。

頭曼の関心がこの異母弟に向けられると、太子・冒頓は邪魔者扱いされ、 緊張関係にある隣接勢力の月氏の元に 和平のための人質として送られる。

間もなく、頭曼は 月氏が無礼であるとの理由で、戦争を仕掛けた。 嫡子を差し出したことの油断を突くことと、 冒頓が月氏の手で殺害されるのを見越しての行動です。

月氏は激怒し 冒頓を殺そうとした。 しかし この危機を悟った冒頓は、間一髪のところで月氏の駿馬を盗み 脱出に成功 父のもとに逃亡した。

頭曼は彼の勇気に感心し、また 見込みがあると考えを変え 一万の騎兵を私兵として 冒頓に与え 統率させた。

冒頓はいずれ殺されると、クーデターを考え、その一万の騎兵からさらに自分の命令に忠実な者だけを選び出している。

冒頓は 私兵を秘密裏に養成していた。 私兵を率いて「自分が鏑矢を放たば 直ちに同じ方向に矢を放て」と命令・訓練を重ねている。

冒頓は まず野の獣を射た。 矢を放たない部下を彼は斬った。 次いで自らの愛馬に向かって射た。 同じく放たないものは斬り殺した。

更に 彼は訓練の仕上げに 自分の愛妾を射て、同じく放たないものは斬り捨てた。

そして 頭曼と狩猟に出かけた際、父に向けて鏑矢を放った。 父の愛馬を射るときには 全ての配下の私兵も大量の矢を浴びせていた。

これがクーデターの端緒となった。 王庭に戻った冒頓は 継母、異母弟及びその側近を抹殺した上で、単于に即位した。

紀元前209年に 冒頓は この反乱を起こしている。

匈奴ー1-2-

即位直後、東胡から使者がやってきて「頭曼様がお持ちだった千里を駆ける馬を頂きたい」と言った。 即位直後の若輩のため、甘く見てのことだった。

冒頓単于は部下を集めて意見を聞いた。 部下達は「駿馬は遊牧民の宝です。 与えるべきではありません」と言ったが、冒頓単于は「馬は何頭もいる。 隣り合う国なのに、一頭の馬を惜しむべきではない」といい、東胡へ送った。

後年 東胡は、再度使者を送り「両国のため、冒頓様の后の中から一人を頂きたい」と言った。 部下達は「東胡は巫山戯すぎています。 攻め込みましょう」と言ったのだが、冒頓単于は「后は何人もいる。 隣り合う国なのに、一人の后を惜しむべきではない」と言い、東胡へ送った。

また東胡から使者がやってきて、「両国の間で国境としている千余里の荒野を、東胡が占有したい」と言ってきた。

先の件では一致して反対した部下達も、遊牧民故に土地への執着が薄いのか 二分された。 その一方が「荒地など何の価値も有りません。 与えても良い」と言った途端、

冒頓単于は激怒し「地は国の根幹である! 今与えて良いと言ったものは 切り捨てろ!」と言い、馬に跨り 「全国民に告ぐ! 遅れたものは斬る!」と東胡へ攻め入った。

一方の東胡は 完全に油断しており、その侵攻を全く防げなかった。 物は奪い、人は奴隷とし、東胡王を殺し、東胡を滅亡させている。

冒頓は続けて他の部族にも 攻勢を掛け、月氏をも西方に逃亡させた。 勢力範囲を大きく広げ、広大な匈奴国家を打ち立てるのに成功した。 月氏はパミール高原の西方まで追いやられている。

匈奴ー1-3-

紀元前200年、40万の軍勢を率いてを攻め、その首都・馬邑で代王・韓王信(劉邦の漢王朝創建の功労者)を寝返らせた。

前漢皇帝・劉邦(高祖)が歩兵32万を含む親征軍を率いて討伐に赴いたが、冒頓単于は、負けたふりをして後退を繰り返した。

追撃を急いだ劉邦は少数の兵とともに 白登山で冒頓単于に包囲された。 この時、劉邦は7日間食べ物が無く窮地に陥ったが、陳平(項羽などに仕官、紆余屈曲後 劉邦に仕えた智将)の策略により冒頓単于の夫人に賄賂を贈り、脱出に成功 窮地を脱している。

その後、冒頓単于は自らに有利な条件で前漢と講和した。 匈奴は前漢から毎年贈られる膨大な財物により、経済上の安定を得て増々隆盛になって行く。

韓王信や盧綰(彼のみが、劉邦の寝室に自由に出入できた猛将)等の漢からの亡命者をその配下に加えることで 更に 勢力を拡大させ、北方の草原地帯に 一大遊牧国家を築き上げて行く。

他方、成立したての漢王朝は 対抗する力を持たず、 前195年6月1日に高祖劉邦が崩御する。

冒頓単于から侮辱的な親書を送られ、一時は開戦も辞さぬ勢いであった呂雉(高祖劉邦の皇后 ※)も周囲の諌めにより、婉曲にそれを断る手紙と財物を贈らざるを得なかったという。

≪侮辱的な親書 ; 高祖劉邦が他界した時、冒頓単于は「一人寝るのは寂しくて身が持たぬであろう、姥桜とて 慰めてやろう。 我が閨に来るもよかろう」との文面を差し向けている》

その後、前漢王朝が安定し 国が富むに至り、武帝(前漢・第7代皇帝 在位:紀元前141年-前87年 高祖劉邦の曾孫)はこの屈辱的な状況を打破するため大規模な対匈奴戦争を開始する。

幸運にも 試に機会を与えた衛青霍去病が匈奴に大勝し、結局、匈奴は より奥地へと追い払われ、匈奴帝国は 約60年続いた隆盛も終わりを告げた。

匈奴ー1-4-

(リョチ)は、漢の高祖劉邦の皇后。 父は呂公(山東省の有力者)。 幼名は蕭何。 第二代皇帝・恵帝の母。 夫・劉邦の死後、皇太后・太皇太后となり、呂后、呂太后、呂妃とも呼ばれる。

「中国三大悪女」として唐代の武則天(則天武后)、清代の西太后と共に名前があげらている。

当時沛県の亭長(宿場役人)だった劉邦が呂公の酒宴に訪れた際 蕭何に「進物一万銭」と はったりを書いた劉邦に呂公が感心し、妻の反対を押し切って劉邦に嫁がせ、一男一女(恵帝・魯元公主)をもうけた。

人相を見る老人が呂雉に対し「天下を取られる貴婦人の相がある」と言われ、始皇帝が巡幸した際に 身の危険を感じた劉邦が山奥へ逃げるも、

呂雉はすぐに探し当て劉邦が不思議がると呂雉は「劉邦の周囲には雲気が立ちこめているので分かるのです」と言ったという。 これらが噂となり、劉邦に仕える者が多く成った と史書にあります。

翌紀元前202年、劉邦は項羽を滅ぼして皇帝となり、呂雉は皇后に立てられた。 しかし、 前195年6月1日に高祖劉邦が崩御する。 宮中では劉邦の後継者を巡り暗闘が始まっていた。

この状況の下で、自分の実家の呂氏一族、重臣の助けを借りて、我が子 皇太子・劉盈を第二代皇帝・恵帝に擁立した。

だが、高祖の後継を巡る争いは根深く、恵帝即位後間もなく呂后は、恵帝の有力なライバルであった高祖の庶子の斉王・劉肥、趙王・劉如意の殺害を企てている。

≪ 女性の嫉妬心からであろう ≫

斉王暗殺は恵帝によって失敗するが、趙王とその生母戚夫人を殺害した。 趙王・如意を殺害後

呂后は 戚夫人(高祖の第三皇后)の両手両足を切り落とし、目玉をくりぬき、薬で耳・声をつぶし、便所に置いて人彘(人豚)と呼ばせ 晒し者にしている。

この人彘を見せ付けられた皇帝・恵帝は 強いショックを受け、政務を放棄し 酒に溺れ 間もなく 23歳で死去してしまう。

我が子の葬儀で激しく嘆くも 涙しなかった呂后は 孫の少帝恭(恵帝の遺児)を第三代皇帝に立てた。

しかし この頃から、各地に諸侯王として配された劉邦の庶子を次々と暗殺し、後釜に自分の甥たちなど呂氏一族を配して 外戚政治を執り、強権政治を推し進めている。

また 自分に反抗的な少帝恭皇帝(孫)を殺害し、弟の少帝弘を立てる等の行動をとり、劉邦恩顧の元勲たちからの反発を買う。 元勲たちは 暗殺を恐れ、ろくに仕事をしなくなった。

呂后自身 このことには気が付いていたようで、日食が起きた時には周囲の者に「私のせいだ」と 天地異変に懺悔しているのですが、

死ぬ数ヶ月前 青い犬に脇の下を引っ張られる幻を見たため占い師に占わせ 少帝恭の祟りだと告げられるも、更に 呂氏一族を中央の兵権を握る重職に就け 万全を期した後に死去しています。

なお、新末後漢初の動乱の際、赤眉の軍勢は前漢諸帝の陵墓を盗掘し、安置されていた呂后の遺体を汚し 屈辱したという。

しかし、宮中の生臭さとは裏腹に、呂后の治世に関しては「天下は安泰で、刑罰を用いる事は稀で罪人も少なく、民は農事に精励し、衣食は益々豊かになった」と 客観的な史観を持つ司馬遷に絶賛されている。

匈奴ー1-6-

_______ 続く _______

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