成吉思汗・フレグ一党の覇権 (11)

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

フレグー11-1

イルハン朝の最後の君主(ハン)

 トガ・テムル(生没年 ? -1353年)はイルハン朝の君主(ハン)を称した人物の中で最後に没した、イルハン朝の事実上最後のハン(在位:1337年 – 1353年)である。

チンギスハーンの弟ジュチ・カサルの末裔、”アルタン・ウルク/黄金の家”の皇統ではない。 フラーサーン、マーザンダラーンを統治した。

ムハンマド・ハン(イルハン朝の第12代君主、トガ・テムルは ジャライル部の有力者・タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(通称、大ハサン、ジャライル朝の創始者)に擁立されて君主(ハン)になった。

その大ハサンの政敵・アリー・ジャファル、ホラーサーンの統治者・シャイフ・アリーを中心とする貴族によってトガ・テムルはハンに擁立された。

トガ・テムル・ハンは アルバ・ケウン・ハン(在位:1335年 – 1337年)が殺害されて 先に君主(ハン)を称したムーサー・ハン(第11代君主、在位:1336年 – 1337年)と共同戦線を張って ムハンマド・ハンの陣営、大ハサンとの戦いに挑むが、

マラーガで大ハサンの軍隊と遭遇すると一戦も交えずに逃亡してしまった。

大ハサンとトガ・テムルの擁立者・ハサン・チュチュク(小ハサン)の和解が成立した後、

大ハサンはトガ・テムル・ハンのハンの地位を承認し、イラクの帝都・バグダードにトガ・テムル・ハンを招いた。 イルハン朝の融和を共に図っている。

トガ・テムル・ハンは 宰相の意見に従って増税と給与の削減を行うが、この政策は大ハサンの意図からは外れたものであり、シャイフ・ハサン・小ハサンの策謀の離間策にかかって大ハサンとの関係は完全に決裂し、彼はホラーサーンに帰国した。

Triglav Sunset

当時の1338年に タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(大ハサン)が擁していたムハンマド・ハンが戦死したため、ジャハーン・テムルが君主(ハン)に擁立されていた。

また、1340年に シャイフ・ハサン(小ハサン)との戦いに敗れた大ハサンは バグダードに帰還した後に自らの王朝・ジャライル朝が建国し、ジャハーン・テムル・ハンは廃され、フレグの皇統王朝は消滅していた。

1341年にトガ・テムル・ハンは 弟アリー・ケウンに説かれて3度のイラク遠征を敢行するが失敗している。

フレグ・ウルスの西部は大ハサンのジャライル朝や 地域は新興勢力・サルバダール政権に浸食され、トガ・テムル・ハンはイルハン朝の再興、フレグ・ウルスの領土挽回に東走西奮の様子が覗える。

しかし、1353年 アストラバード付近で、サルバダール政権の君主ヤフヤー・ケラヴィによって暗殺された。

この時点で フレグの皇統王朝は中央アジアから その姿を消した。

エピローグⅠ-1

 ティムール朝は、中央アジアのトランスオクシアナ(ウズベギスタン中央部)に勃興したモンゴル帝国の継承政権のひとつで、中央アジアからイランにかけての地域を支配したイスラム王朝(1370年 – 1507年)。

その最盛期には、版図は北東は東トルキスタン、南東はガンジス川、北西はヴォルガ川、南西はシリア・アナトリア方面にまで及び、かつての大蒙古帝国の西南部地域を制覇した。

ティムール王朝の始祖ティムールは、チャガタイ・ハン国に仕えるバルラス部族の出身で、言語的にテュルク化し、宗教的にイスラム化したモンゴル軍人・チャガタイ人の一員であった。

ティムール一代の征服により、上述の大版図を実現するが、その死後に息子たちによって帝国は分割されたため急速に分裂に向かって縮小し、15世紀後半にはサマルカンドとヘラートの2政権が残った。

これらは最終的に16世紀初頭にウズベグのシャイバーン朝(ジュチの子孫)によって中央アジアの領土を奪われるが、

ティムール朝の王族の一人ホパーブルは アフガニスタンのカブールを経てインドに入り、19世紀まで続くムガル帝国を打ち立てた。

フレグー11-3

ティムール朝は元来が遊牧政権でありながら都市の優れた文化を理解していたので、首都サマルジャンドを始め王族たちが駐留した各都市では盛んな通商活動に支えられて学問、芸術などが花開いた。

とくに、自身が数学、医学、天文学などに通じた学者でもあったティムールの孫・ウルグ・ベグがサマルカンド知事時代に行った文化事業は名高く、彼がサマルカンド郊外に建設したウルグ・ベグ天文台では当時世界最高水準の天文表が作成されていた。

また、都市には優れた宗教・教育施設が建設され、サマルカンドのグーリ・アミール廟、ビビ・ハヌム、ウルグ・ベグ・マドラサ(イスラム学院)や、現在のカザフスタン南部テュルキスタンのホージャ・アフマド・ヤサヴィー廟などが名高い。

しかし、このように都市文化に親しみ都市の建築に力を注いだティムール朝の君主たちも一方では遊牧民の末裔であって、

都市の中の窮屈な宮殿よりも都市の周辺に設けた広大な庭園の中でくつろぐことを好んだ。

こうして大小さまざまな庭園が建設されたが、サマルカンドのそれはこの町で生まれ育ったバーブルの自伝『バーブル・ナーマ』において詳細に描かれ、その見事なさまが今日に伝えられている。

このようにティムール朝の時代に栄えた中央アジアの宮廷文化が頂点に達したのが、15世紀後半のヘラート政権のスルタン・フサインの宮廷においてであった。

ヘラートの宮廷では、モンゴル時代のイランで中国絵画の影響を受けて発達した細密画の技術が移植され、芸術的にさらに高い水準に達した。

スルタン・フサインや、その乳兄弟で寵臣として宰相を長く務めた有力アミールのアリーシール・ナヴァーイーは非常に優れた文化人で、彼らの文芸保護によって文学が繁栄した。

当時の中央アジアでは文化語はペルシア語であったが、ナヴァーイーらは当時テュルク語にペルシア語の語彙と修辞法を加えて洗練された「チャガタイ語」を用いた文芸、詩作をも好んで行い、

ティムール朝のもとでチャガタイ語をアラビア語やペルシア語と比肩しうるレベルまで文学的な地位を向上させた。

チャガタイ語散文文学のひとつの頂点を示すのが、先にも触れたティムール朝の王子・バーブルの著書『バープル・ナーマ』です。 現代も愛読されている。

Weminuche Sunset

ティムール朝では王朝側による修史事業もまた盛んに行われた。

シャーミーとヤズディーによってティムールの伝記である二種類の『勝利の書』が著されたのを初めとして、シャー・ルフの時代にはティムール朝はチャガタイ・ウルスの後継国家としての意識が一段と顕著になった。

シャー・ルフは歴史家ハーフェズ・アブルーらに『集史』をはじめとするイルハン朝時代からの歴史情報の諸資料の総括を命じ、あわせて『集史』自体もモンゴル帝国におけるバルラス部族とジンギスハーン家の関係を強調した。

この過程でモンゴル的な祖先伝承と預言者・ムハンマド(マホメット)との血縁的・宗教的関係を連動させ強調する主張も盛り込まれた。

この種の主張はイルハン朝時代に萌芽があったが、ティムール朝ではより鮮明にされるようになった。
この影響は、後のオスマン朝やサファヴィー朝、シャイバーニー朝などでも受継がれていく。

またこれらシャー・ルフ治世下のヘラートでの修史事業の伝統は、スルタン・フサインの治世にンサヴァーイーの保護下で世界的な通史である『清浄園』を著したミールホーンドや、その外孫でバーブルに仕えた『伝記の伴侶』の著者ホーンダミールなどを輩出している。

これらの高い文化の影響は、ティムール朝の中央アジア領をそのまま引き継いだシャイバーン朝のみならず、西のサファヴィー朝、南のムガル帝国にまで及んだ。

こうしてティムール朝の滅亡後も、東方イスラム世界と呼ばれる一帯の文化圏で優れたイスラム文化が続いてゆく。

また、ティムール朝時代の進んだ文学や科学が言語を同じくするアナトリア(小アジア)のトルコ人たちの間にもたらされたことが、当時勃興の途上にあったオスマン帝国の文化に与えた影響は大きい。

この様に、ティムール帝国で形成され花開いたイスラーム文化を、特にトルコ=イスラーム文化と言われ、今日まで継承されている。

フレグー11-4

さて、ティムールに関して、また 彼の王朝系譜は前作“ティムール伝”にて詳細を記載しておりますが、ティムールの事跡概略を俯瞰して フレグ一党の話はこれで筆を置きます。

次回からはジンギスハーンの三男・オゴデイと彼の一党について書き綴りましょう。

・・・・・ ティムールはジンガスハーンの築き上げた世界帝国の夢を理想としていた。 その帝国再現の為に、外征を繰り返した。

ホタズム・ッペルシア遠征 ;ティムールはマーワラーアンナフル統一を果たした後の10年間にモグーリスタン・ハン(チャガタイ・ハン)国が支配する東トルキスタンへ遠征を繰り返し、コンギラト部族が支配するホラズム地方を併合

1378年 ジュチの末裔トクタミシュを支援して、彼をジュチ・ウルスの君主(ハン)に据え周辺の諸勢力を自己の影響下に置いた。

トクタミシュは 1380年に、“黄金のオルド/ジュチ帝国”からの独立を図ったママイを クリコヴォの戦いで破り、1382年にはそのままモスクワ大公国へ進撃し、戦勝に沸く勢いで モスクワをも焼き払った。

トクタミシュはティムールの大恩を忘れ 権勢を拡大した。

1380年からティムールは イルハン朝解体後分裂状態にあるイランに進出してハラーサンを征服した。

3年戦役

1386年から始まる3年戦役で ティムールはアフガニスタン、アルメニア、グルジアなどまで支配下に置いた。 そして、大恩を忘れたトクタミシュと対決する。

トクタミシュとの戦い
1388年、トクタミシュが“3年戦役”の隙を突いて遠征遠中のティムールを見透かすように、ティムール領を攻撃したのをきっかけにティムールは 遠征を打ち切り、帰還し 3年戦役を終了して、直ちに北上 トクタミシュを追撃した。

トクタミシュは西方に逃れ、カフカス北方域を占有して、再起を図った。

5年戦役
1392年から始まる5年戦役でイランへの遠征を再開した。 ムザッファル朝を滅ぼしてイラン全域を支配下に入れ、バグダードに入城してマムルーク朝と対峙した。

ティムールはさらに北上してカフカス山脈を越え トクタミシュと対峙 トクタミッシュを破り、ヴァルガ川流域に至ってジュチ・ウルスの帝都・サライを破壊、ルーシ諸国まで侵入し、16年に帰還した。

インド遠征
1398年、インド遠征を決行し、デリー・スルタン朝を破ってデリーを占領し、西北インドを支配した。

7年戦役
1399年に始まる7年戦役では、アゼルバイジャンで反乱を起こした三男・ミーラーン・シャーを屈服させ、グルジア、アナトリア東部からシリアに入ってダマスカスを占領、さらにイラクに入りモースルを征服した。

オスマン帝国との戦い
1402年、中央アナトリアに転進したまた ティムール軍は“アンカラの戦い”で バヤズィト1世率いるオスマン朝軍を完膚無きまで破ってオスマン朝の拡大を挫き、

アナトリアのオスマン領をバヤズィト1世に領土を奪われた旧領主へ返還して 帰還した。

この遠征でかつてのモンゴル帝国の西半分がほぼティムールの支配下に入り、オスマン朝、マムクール朝がティムールに名目上服属、ティムールの支配地域は 更に大きく拡張した。

中国遠征
1404年末、20万の大軍を率いて明を破り、元の旧領奪還を目指し中国遠征を開始した。

しかし、ティムールは1380年代末より患っていた病のため、遠征途上の1405年2月18日の夕刻、オトラル(天山山脈西北西)で病没した。

臨終の言葉は「神の他に神なし」と伝えられている。

禁断の棺
グリ・アミ-ル廟にある彼の黒石の棺の裏には

「私がこの墓から出た時、最も大きな災いが起こる」というような言葉が刻印され、棺は開封されることなかった。

しかし、1941年6月19日になってソ連の調査により初めて開封され、脚の障害などが確認された。

しかし、そのわずか3日後、バルバロッサ作戦が実行され、これがソ連から見た第二次世界大戦の戦端となった。

のちに畏怖を抱いたソ連によって蓋が鉛で溶接され、これ以後二度と開封されていない。

ジュチ一党1-6

________ 続く _______

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成吉思汗・フレグ一党の覇権 (10) 

“アルタン・ウルク/黄金の家・フレグ家” =イルハン朝の覇権と栄光=

フレグー10-1

イルハン朝の解体

1316年、オルジェイトゥ・ハンが死ぬと息子・アブー・サイードが即位するが、新(君主)はわずか12歳であった。

スルドス部族のチョバン(先君・オルジェイトゥ・ハンの最有力将軍)が実権を握った。 摂政として・・・・、

1327年、成人した イルハン朝の第九代君主・アブー・サイード・ハンは 驕り高ぶるチョバンを、結婚問題もからんで1326年に その討伐を決意し殺害した。

その一族から実権を自ら掌握するが、この内紛でイルハン朝の軍事力は大いに衰えた。

子のなかったアブー・サイード・ハンは1335年、ジュチ・ウルスのウズペグ・ハンが来襲する中で陣没し、フレグの王統は ここで断絶した。

これをもってイルハン朝の滅亡といえるのですが、

アブー・サイード・ハンが陣没したとき、 ラシードゥッディーン・ファドゥルッラーフ・アブル=ハイル・ハマダーニー(歴史家、哲学者、政治家 先君の宰相)の息子で宰相のギヤースッディーンは、

建国者・フレグの弟アリクブカの玄孫にあたる遠縁の王族・アルバ・ケウンをハン(君主)に推戴させた。

しかし、アルバ・ケウン・ハンは即位からわずか半年後の1336年、彼に反対するオイラト部族のアリー・バーディシャーに敗れて殺害され、

以来 イランは様々な家系に属する“アルタイ・ウルク”あるたチンギスハーンの子孫が有力部族の将軍たちに擁立されて また 次々とハンの改廃される混乱の時代に入った。

1353年、乱立したハン(君主)の中で最後まで生き残りホラーサーンを支配していたトガ・ティムール・ハンが殺害され、イランからはチンギサハーン一門の君主は消滅した。

アブー・サイード・ハンの死去以来、イランの各地には遊牧部族と土着イラン人による様々な王朝が自立していたが、

これらは1381年に始まるティムールのイラン遠征によりティムール朝の支配下に組み入れられていった(前記載済み、『ティムール伝』参照)。

フレグー10-5

アルバ・ケウン・ハン(生没年 ? -1336年)は、イルハン朝の第10代君主(在位:1335年 – 1336年)。

1335年11月、第9代の君主・アブー・サイード・ハンがカスピ海南西のアッラーン地方のカラバグで陣没した。

前年、ジュチ・ウルスのウズベグ・ハンがカスピ海西岸のダルバンド経由で南下し、イルハン朝の領域に侵攻を準備しているとの知らせから親征したものだったが、

アブー・サイード・ハンには嗣子が無かったため、彼の死によって建国者・フレグの嫡流が断絶してしまった。

このため、ラシードゥッディーン(政治家、歴史学者、哲学者 史書の著者)の息子でアブー・サイード・ハンの宰相(ワズィール)だったギヤースッディーン・ムハンマドらは

イルハン朝の諸臣はジュチ・ウルスとの戦いで軍が動揺することを恐れて、遠縁にあたるアルバ・ケウンを即位させた。

アルバ・ケウン・ハンは 即位直後に アブー・サイード・ハンの妃の1人であるバグダード・ハトゥンが自分を軽蔑していることを知り、

ジュチ・ウルスとの戦闘に先立ち、アブー・サイード・ハンの毒殺と敵将・ウズベグ・ハンとの内通の疑いを バグダード・ハトゥンにかけて、彼女を処刑してしまった。

蛮勇でいきり立つアルバ・ケウン・ハンは イルハン朝軍を率い、一致団結してジュチ・ウルスの軍勢を撃退している。

その戦後に 先々代君主・オルジェイトゥ・ハンの王女で、チュバンの寡婦であったサティ・ベグを娶り、宮廷で権力を固めはじめた。

しかし、即位の経緯のために重臣の権力が強く、君主権は弱く 先行独進 王圧的な専従を強行するようになる。

このためファールス州の王領地(インジュウ)を管轄していたマフム-ド・シャー・インジュウなどの、高位の身分や財産を持つ人物たちに対して様々な口実をもうけて処刑してはその財産を没収するなどした。

ファールス州に権益も持っていた他の将軍たちも併せて処刑するつもりだったが、宰相・ギヤースッディーン・ムハンマドらの諫言によって止められた。

1336年に バグダードを管轄していたアブー・サイード・ハンの母方の叔父、オイラト王家の後裔・アリー・バーディシャーは 自分が参加していないクリルタイで擁立されたハンの即位を不服として、

創国者・フレグ・ハン系の傍流で生き残っていたムーサーを擁立、任地のバグダードで反乱を起こした。

アルバ・ケウン・ハンは自ら討伐軍を率いて鎮圧に向かったが、味方の多くが裏切って大敗し、自らも敗走中に捕らえられる。

そして、かつて手にかけたマフム-ド・シャー・インジュウの一族に引き渡され、処刑された。

フレグー10-2

イルハン朝第10代君主・アルバ・ケウン・ハンはが恐怖政治を行ないった。

アルバ・ケウンの即位に反対するオイラト部族のアリー・バーディシャーによって、ムーサーは 1336年に擁立された。 イルハン朝の第11代君主として戴冠、在位は1336年から1337年の一ヵ年であった。

イルハン朝第6代君主・バイドゥの子・アリーの息子である。

アルバ・ケウン・ハンが処刑された後 単独のハンとなるが、他の傍流一族であるムハンマド(フレグの十一男モンケ・テムルの玄孫)を君主(ハン)に擁するタージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(通称、大ハサン)と戦ったが敗れ、

ムーサーは後ろ盾のアリーの戦死で孤立し、大ハサンが即位する。

ムーサーは大ハサンの即位後、擁立されたトガ・テムル(ジンガスハーンの実弟・ジュチ・カサルの末裔にあたる)と同盟、合流して大ハサンとの戦闘に向かうが、

マラーガ近郊で大ハサンの軍に遭遇すると、トガ・テムルは戦闘前に軍を連れて逃走した。

ムーサーは部下のオイラト部族とともに抗戦するが戦死してしまった。

ムーサー(生没年 ? -1337年)は、イルハン朝の第11代君主として名を留めるが史跡は何も残していない。

アルバ・ケウン・ハンの死後、ジャライル部の有力者・タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(通称、大ハサン、ジャライル朝の創始者)によって、

ムハンマドは、1336年にハンに擁立され 推戴されて、イルハン朝の第12代君主として戴冠した。 が、

ムーサーを君主(ハン)に擁するアリー・バディシャーを破った大ハサンは、ムハンマド・ハンを伴いダブリーズの宮殿に凱旋し、移り住んだ。

1338年7月10日、ムハンマド・ハンはアゼルバイジャンでシャイフ・ハサン(イルハン朝の大将軍・チョバンの孫、通称小ハサン)と対陣する。 陣営は大ハサンが指揮を執っていた。

自軍の将軍ビール・フサイン(チョバンの孫、シャイフ・ハサンの従兄弟)が敵と内通していることに感づいた大ハサンは 直ちに タブリーズに撤退した。

ムハンマド・ハンは 退かずに小ハサン・シャイフ・ハサンと戦うが敗れ、捕殺された。 没時、まだ成年に達していなかったと史書は追記している。

ムハンマド・ハンはイルハン朝の創始者フレグの子・モンケ・テムルの玄孫に当たり、ヨル・クトルグの子であった。

フレグー10-3

ジャハーン・テムル

ジャハーン・テムル(生没年不詳)は、イルハン朝の最後の君主(在位:1338年-1340年)と言える。 イルハン朝の第5代君主・ガイハトゥの孫。 父はアラーフランクであった。

1338年に タージュ・ウッディゥーン・ハサン・ブズグル(大ハサン)が擁していたムハンマド・ハンが戦死したため、ジャハーン・テムルが君主(ハン)に擁立された。

1340年に シャイフ・ハサン(小ハサン)との戦いに敗れた大ハサンは バグダードに帰還した後、自らの王朝・ジャライル朝が建国した。 ジャハーン・テムル・ハンは廃され、フレグの皇統王朝は消滅した。

イラン高原東部・ホラーサーン地方にトガ・テルム・ハン(在位:1337年 – 1353年)が イルハン朝の血脈を継承するのみで イラン東部はジンギスハーンの継承王朝は壊滅した。

【 ジャライル朝 ;  1340年 – 1411年の期間、イラン西部からイラクにかけての旧イルハン朝西部地域一帯を支配したモンゴル系のイスラム王朝。 王朝の名は、モンゴル帝国を構成した有力部族のひとつジャライル部から王家が出たことに由来している。

イランにおけるジャライル部は、その先祖・イルゲイ・ノヤンのとき、フレグの西征に従って西アジアの各地を転戦し、戦功によって 代々イルハン朝に最上位の重臣として仕える有力部族集団となった。

イルハン朝のフレグ家最後の君主・アブー・サイード・ハンのとき、アブー・サイードの祖父・アルグンを外祖父とし、君主(ハン)とは従兄弟の関係にあたるジャライル部当主シャイフ・ハサンが宮廷の有力者として台頭し、権勢をふるった。

だが、アブー・サイード・ハンが力づくでシャイフ・フサンの妻・バグダード・ハトゥンを奪って自分の妃にした事から、両者の間に確執が生じた。

1335年にアブー・サイード・ハンが没し、フレグ家の血統が絶えると、それぞれにチンギスハーンの血を引く傍系の王族を擁立した有力者同士の抗争が激化するが、

中でも イルハン朝の中心地であるアゼルバイジャン・タブリーズ地方の草原地帯を巡ってジャライル部のシャイフ・ハサン(大ハサン)と、スルドス部の指導者で同名のシャイフ・ハサン(小ハサン)の間で熾烈な抗争が起こった。

しかし、1338年に行われたジャライル部とスルドス部の直接衝突は新興勢力であるスルドス部の小ハサンの勝利に終わり、

ジャライル部の大ハサンはゼルバイジャンを追われてバヅダードを中心とするメソポタミア平原に撤退し、1340年にイラクを中心に自立し アゼルバイジャンのスルドス部に対抗した。

やがて、1357年に、100年来アゼルバイジャン草原の領有権を巡ってイルハン朝と対立関係にあったジュチ・ウルスがアゼルバイジャンに南下し、スルドス部を破ってアゼルバイジャンを占拠した。

大ハサン・シャイフ・ハサンの後を継いでいた子のシャイフ・ウヴァイスは、これを好機としてアゼルバイジャンに進出、タブリーズを奪還し、イラン西部を制覇して旧イルハン朝の西半を覆うジャライル朝の最大版図を実現した。

フレグー10-4

 自身が優れた文化人であったウヴァイスの宮廷には詩人や音楽家、美術家が集まり、モンゴル帝国時代の東西交流に刺激されて

イルハン朝のもとで発展していたイラン・イスラム文化が継承され、その深化が見られた。

その一方で、国制は基本的にイルハン朝からモンゴル式のものを受け継ぎ、モンゴル帝国の後裔である遊牧民たちを基幹軍隊とし、遊牧民の慣習法を取り入れた政治が行われた。

しかし、シャイフ・ウヴァイスが1374年に死んだ後には、ジャライル朝は遊牧国家の宿弊である王族内の君主の座を巡る争いが起こり、1382年にウヴァイスの長男のフサイン1世が弟のアフマドによって殺害されるまで内紛が続いた。

さらに、同じ時期には中央アジアにおいてモンゴル系遊牧勢力を統合したティムールがイランへと進出してきていた。

アフマオ・ハンは、東部アナトリアを支配するトルコ系の遊牧部族連合黒羊朝と結んでティムールに対抗したが、圧迫されてタブリーズからバグダードに退却し、さらにティムールに敗れてバグダードを奪われた。

フレグによる征服による荒廃から立ち直りつつあったバグダードは、このとき再び大規模な破壊を受けることとなる。

アフマド・ハンは バグダードから逃れてオスマン朝、次いで マルムーク朝のもとに亡命した。

ティムールの没後、アフマドはイラクに戻って旧勢力を回復し、タブリーズの奪回につとめたが、英主・カラ・ユースフのもと勢力を急速に拡大していた黒羊朝との戦いに敗れ、捕らえられて処刑された。

これにより事実上、ジャライル朝は滅亡した。

アフマド・ハンの死後も、ジャライル朝の一族はアゼルバイジャン方面で活動を続けたが、王族間の継承争いをはじめ、15世紀を通じてこの地方を争奪した黒羊朝やティムール朝、白羊朝の間で埋没していった 】

エピローグⅢー14-6

______ 続く ______

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