ムガル帝国・建築文化(7)

 圧倒され 驚愕した石の彫刻群・遺構 10世紀のカーマスートラの世界・・・・・

  今回も、ムガル帝国・建築文化とは いささか関係が薄いお話をしよう
過日

ムンバエ(ボンベイ)市から 汽車でカルカッタに向かった
道中、デカン高原を楽しみ 一週間の旅 直通の特急でも48時間を要する
ムンバエ飛行場には友人が連絡した車が待っていた 大型のベンツ 運転手だけだった
タージマハルホテルで社長が待っていると言い 昼食を共にし 夕食にも誘われた
夕食は郊外の彼の自宅であった

 広大な庭の一角に 日本式庭園があり 純日本式の茶室に案内された 彼が言った
『ここに泊まるもよし 車が必要なら 彼を付けておきます』
私は早々に引き揚げ 安宿に向かった
ちなみに 彼はゴードリッジ社の最高経営責任者で ラジプート族である

ムガル建築7-1

「1819年、巨大な虎に襲われて窮地に陥った士官ジョン・スミスは、さらに深く山奥のジャングルへと逃げ込んだ。  このイギリス駐留軍の指揮官は、ハイダラーバード藩王国のニザーム(藩王)に招かれて、その狩猟に参加したのだった。

1819年秋に インド・ムンバエ駐在 英国の一士官・ジョン・スミスが虎狩りの最中に岩の寺院群と出会った。 それは深いジャングルの奥に完全に隠されていて、8世紀以来廃墟となっていた石窟寺院群である。

ジョン・スミスは 人跡未踏の地帯を虎に追われて更に進み 深く切れ込む河岸に辿り着いた。 逃げ疲れてワーゴーラ渓谷に踏み留まった彼は、ライフルを構えて撃つ準備をし、あたりに目をやった。

彼の視線は枝の茂みが覆っている岩壁をとらえ、その奇妙な形に興味をそそられた。 近くへ行ってみると、なんと岩を彫って細かな装飾を施こした馬蹄形の窓であった。

その日、ジョン・スミスは 1頭の虎も仕留めることはできなかったが、その代わりに アジャンターにある 30もの仏教の石窟寺院の大発見したのである。

一夜を窟内で過ごしたジョン・スミスは 翌朝 洞窟内外の壁画やテラスらしきものを確認した。 安全確認と さらなる興味で その周辺を歩き回った。

そこは ワゴーラ川の流れに沿って長さ 550メートルの半円を描く、高さ 76メートルの長大な断崖であった。

数層にわたりながら並ぶ石窟寺院の列は、長いあいだ人が住んだ気配はなく、列柱の上に円筒形の天井をもった内部空間も、密集するコウモリの住家と化していた。

ジョン・スミスは コウモリを追い払って中に入り、自分の名前を柱に書き残した。

ムガル建築7-2

多くの石窟 壁画やテラス 石仏らしきものを確認した彼は 取りあえず心配するニザームの下に帰り、報告した。 ニザームは古代の寺院群がジャングル内のどこかに存在する伝承を知っていた。

一週間後 ジョン・スミスの案内で調査隊がジャングルに分け入り、洞窟を調べた。

石窟は 深いジャングルの奥に完全に隠されていて、8世紀以来廃墟となっていた石窟寺院群であった。

インド・ムンバエ駐在 英国の一士官・ジョン・スミスが発見した遺跡は 30を数える仏教の石窟寺院、古代インドの最良の壁画のみごとな姿を壁や天井に今も残し  細部にいたるまで緻密で高い芸術性をそなえた壁画 精巧で見事な写実性のある石仏 岸壁に穿れた石窟寺院群であった。

盛期グプタ朝における宮廷生活を余すところなく伝えている 石窟寺院群である。」とニュースが流れた。

チャンドラグプタ2世(在位:376年-415年)は、古代インドのグプタ朝第3代の王。

自らを「武勇の太陽」と名乗り、東晋の僧である法顕の記した『仏国記』では超日王と呼ばれている。

第2代の王サムドラグプタから王朝を受け継ぎ、その最盛期を築いた。

イラン系のサカ朝(西クシャトラバ)を下し、西はアラビヤ海、北はヒマラヤ山脈の麓に至る領域を支配した。

デカン高原のヴァカタカ朝やパンジャーブ諸国はグプタ朝に臣下の礼を取り、事実上インドの全域を支配下に治めて、その領域を最大のものとした。

また、グプタ朝の文化的全盛期は5世紀頃であり、彼の統治下において その端緒が開かれたグプタ王朝は 次代のクマーラグプタ1世の時代に渡って繁栄した。

民間ではヒンドゥ教が隆盛する一方で、仏教も その研究においては盛んであった。 またアジャンター石窟寺院が再び活動を始めたのもこの時期といわれています。

ムガル建築7-3

古代の石窟寺院が最も多くつくられたのは、現在の中部インドのマハーラーシュトラ州です。 アジャンターの石窟寺院は、マハーラーシュトラ州に残る 45ヵ所の石窟のなかでも最も名高い仏教窟です。

この地域に仏教が栄えたのはおもに 上記のグプタ朝時代で、これはアジャンターの後期にあたります。 しかし前期の石窟寺院はすでに前 2世紀のサータヴァーハナ朝の時代に存在していたのです。

仏教の石窟には 2種類あり、ヴィハーラ窟チャイティヤ窟といいます。 ヴィハーラというのは僧院のことで、平地に木造あるいはレンガ造で建てられていたものを、石窟に置き換えたものです。

平地では中庭の4面を僧室が囲むが、石窟では採光の関係上、1面を外部に開いてベランダとしている。 中庭も空に開かれているわけではないので、集会ホール的な性格となり、大きなヴィハーラ窟ではこれを列柱で取り巻き、僧室とのあいだに回廊を造っている。

チャイティヤというのは 「聖なるもの」 を表し、紀元前のヒーナヤーナ(小乗)仏教の時代には仏像がつくられなかったので、その代わりにブッダを象徴するものが礼拝されました。

これをチャイティヤといい、 おもなものは法輪や菩提樹、仏足石などであったが、なかでも仏舎利を祀ったストゥーパが礼拝されることが多く、これがチャイティヤの代名詞にまでなったのです。

寺院にもストゥーパを本尊とするものが多く、これをチャイティヤ堂と呼んでいる。 アジャンターでは前期に 2院、後期に 3院の、合わせて 5院のみがチャイティヤ窟で、あとはすべてヴィハーラ窟です。

ムガル建築7-4

石窟寺院の起源は自然の洞窟にあったでしょう。 故郷の鷲羽山・王子ガ岳にもあります。 出家僧が住みつくことによって、僧院や礼拝堂となっていく。

しだいに人工的に開窟されるようになると、そのときモデルにしたのは、平地の木造寺院や僧院であった。

チャイティヤ窟もヴィハーラ窟も木造建築を模して柱や梁が彫り出され、軸組み構造のように彫刻されている。

チャイティヤ窟の内部は 2層分の高さがあり円筒形の天井をしているが、そこにも木造のように垂木や母屋 が彫刻されている。

これらは、洞窟である石窟寺院には構造的に不要であったが、建物らしく飾るための美的な方法だったのでしょう。

このように、石窟を木造のように細工することは、ポーチから仏殿にいたるまで、貫徹されていた。

2世紀に前期の開窟は終了しますが、およそ 300年を経た 5世紀に再開し、アジャンターの石窟寺院はグプタ朝の支配下で絶頂期を迎えている。

仏教もマハーヤーナ(大乗)期を迎えていて、窟院の内外とも仏像で飾られ、内部には古い窟院にまで壁画が描かれた。

本尊である佛陀の彫刻はヴィハーラ窟にまで置かれたので、僧院は次第に 荘厳を極めた事でしょう。

玄装三蔵が訪れたころが 最盛期だったと思われます。

ムガル建築7-5

偶像崇拝的な性格が強まるにつれて、仏教は変質し ヒンドゥ教的な要素も混入するようになる。 そして仏教の衰退とともに、アジャンターの石窟群は 8世紀には放棄され、忘れ去られてしまったのです。

しかし、 アジャンターがもつ ひときわ優れた文化遺産である壁画は、その高い質と量でインド亜大陸の他のいかなる壁画の追随をも許さないものです。

初期の作品は完全な形では残っておらず、大部分は 6世紀から 7世紀にかけてのものですが、これらの壁画こそ グプタ朝とその後継者の治世における、古代インドの絵画芸術の絶頂期を示しています。

しかも遠く離れたインドネシアのジャワ島の美術にさえも明らかな影響をおよぼしたと論証されている。

厳しい暑熱や風雨、さらにインドがたどった政治的動乱からも守られたこれらの芸術作品は、アジャンターの文化遺産の中核をなしているのです。 無論 敦煌莫高窟 そして 日本のへ・・・

ムガル建築7-6

アジャンター石窟寺院の美術的価値は、やはり後期窟に集中しているといえます。

第1,2,16,17窟は、入口柱や天井にミト像や飛天、蓮華や鳥獣の画像が描かれたり レリーフとして刻まれたりしている。

また これらの代表的なヴィハーラ窟の壁面にはジャータカ(本生譚)などの説話図が描かれている。 これらは、悟りを開いたものとしてのブッダが送った模範的生涯を表現する絵解きによって、よりいっそうの信仰心をもつよう巡礼に来た人々を教育する目的も持っていたのでしょう。

ムガル建築7-7

 第1窟には、回廊左手にマハーシャーナカ本生譚が描かれている。 これは、ブッダの前生の姿であるマハーシャーナカ王子が世俗の快楽を捨て去る決心をする。

妃シヴァリーが踊り子達と共に出家を思い止まらせようとするが、引き止めきれず、王子は象の背に乗って王宮を去り、残された妃は深く絶望し、奴隷たちに囲まれて 快楽に身を焼くという場面です。

第1窟の天井には、想像上の動物や人間の姿が描かれている。 猿の悪ふざけに うんざりした水牛が 猿をころそうとするが、贈り物をさしだして水牛を説得する人間の姿などが描かれている。

また 有名な「蓮華を持つ菩薩像」が後廊の仏殿入り口付近に描かれています。

ムガル建築7-8

 第17窟には、裕福な商人の息子であるシンハラの物語が描かれている。 シンハラは、父の忠告を聞かずに出航するが 船が難破し、遭難してしまう。

ようやくスリランカの浜辺に辿り着いたが、鬼女たちに襲われ、天を飛ぶことのできる白馬に助けられ、帰国を果たすことができる。

シンハラは心を入れ替えて魔物たちを退治するという話であす。 桃太郎伝説の元根ですね。

これらの説話図の描写は、説話の舞台ごとに王宮、山中などにまとめられ、構図も楕円形に人物を配置する独特の遠近法で描かれています。

ムガル建築7-9

今一歩 足を延ばして エローラ石窟群の話を 明日にでもしましょう。 ムンバエ(ボンベイ)の東にあるアウランガーバード郊外の世界的に有名な石窟群です。

エローラ石窟寺院群とも言いい、世界遺産の中でも 最も印象的な遺跡の一つでしょう。

_____ 続く _____

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ムガル帝国・建築文化(6)

 圧倒され 驚愕した石の彫刻群・遺構 10世紀のカーマスートラの世界・・・・・
《ムガル帝国とは直接的には関係ないのですが》

ムガル建築6-1

インド中央部、デリーの南東約 500kmにカジュラーホの寺院群はある。

今は小さな村にすぎない古都カジュラーホには、10世紀から 12世紀にかけてチャンデッラ朝の最盛期に建立された 85にのぼる石造寺院のうち、25の寺院が現存してる。

砂岩に刻まれた 脅威の 追随を許さない 装飾彫刻は、とりわけ、壁面を埋めつくす彫像群はその官能性で 世界に知られています。

無名の彫刻家たちが清々しい無邪気さをもって、古代インドの性愛論書 『カーマスートラ』 の教えを不朽のものとしたのです。

同種の彫像はネパールのカトマンズーの寺院でも見かけますが リンガ(男根)を信仰の対象としたヒンドゥ教とジャイナ教の 向陽性が感じられる。

チャンデーラ朝の興亡

5世紀以降、中央アジアから進出してきた種族と、西インドの土着の民とが融合して、ラージプートとよばれる尚武の氏族が形成された。

彼らはヒンドゥ化して、古代クシャトリア(王族、武士階級)の子孫と称し、西インド各地に王国を打ち立てた。

中部インドのブンデルカンド地方に進出して、10世紀に強力な王国を打ち立てたラジプート族がいた。  彼等がカジュラーホの壮大な寺院群を造営した。

9世紀初め、ナンヌカという人物がブンデルカンド地方の支配者となり、しばらくプラティハーラ朝の封臣としてデカン地方などから侵入してくる勢力と 戦い続けてきた。

チャンデーラ家台頭の契機となったのは、916年から17年に行われたラーシュトラクータ朝インドラ3世(在位915~927年)の「北伐」であった。

この「北伐」によって、プラティハーラ朝の首都カナウジは陥落し、プラティハーラ王マヒーバーラ1世は、ナンヌカの玄孫にあたるハルシャ王(在位900~925年)の助けを得て ようやく王位を回復する状態であった。

さらに940年頃、再び ラーシュトラクータ朝クリシナ3世(在位939~966年)がカラチュリ家とも同盟して侵攻してきた。

このとき プラティハーラ朝は、カーランジャラを失ったが、チャンデーラ家のヤショーヴァルマン王(在位925~950年)が カーランジャラを奪還したことによって、自立する契機となった。

また ヤショーヴァルマン王のときに首都カジュラーホにヴィシュヌ神にささげる宮殿として、ラクシュマナ寺院を建設した。

10世紀後半のダンカ王(在位950~1008年頃)のときに碑文に ブラティハーラ家を宗主とする記述を刻まなくなり、事実上独立することとなった。 チャンデーラ王朝が開闢された。

ムガル建築6-2

 ダンカ王は、1002年にヴィシュヌバナータ寺院を建設し、後に パールシュバナータ寺院を建設している。

ダンカ王の子であるガンダ王(在位1002年頃?~1017年頃?)の治世にもカジュラーホの西グループに チトラグプタ寺院とデーヴィー・ジャガダンバー寺院が建設された。

ムガル建築6-3

チャンデッラ朝のヴィディヤーダラ王(位1004年?/1017年?~29年)のとき、バラマーラ朝のボージャ王の攻撃に打ち勝ち、カラチュリ朝の攻撃を退けるなど勢威を示していた。

また、カジュラーホの西グループに11世紀初めに建設されたシヴァ神の住みかとされるカイラス山(チベット領内)を模したカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院は、王の手によるものと推定されています。

1018年には、ガズナ朝のマスムード王が侵攻してきて、ブラティハーラ王ラージャヤバーラが首都カナウジから逃亡する事件があったが、その際にヴィディヤーダラ王は、封臣のカッチャバガータ家のアルジュナに命じて、敵におびえて逃亡し、王国をムスリムにむざむざ差し出したかどで ラージャヤバーラ王を殺させた。

しかし、ヴィディヤーダラ王自身も マフムード王にかなう状態ではなく、1019年の戦いに敗れて領内の略奪をゆるし、1022年に、カーランジャラを包囲されたときには、300頭の象を献上してあっさり降伏し、貢納する代わりに統治権を認めてもらうことで和睦しているのです。

ヴィディヤーダラ王の来孫で 8代後のバラマルディン王のときに ゴール朝のシハーブッディーン・ムハンマド麾下の将軍アイバクによって、1203年までにカーランジャラとマホーバーが攻撃され、陥落した。

チャンデッラ朝は 1205年にトライロークヤヴァルマンによって全盛期にはとても及ばないものの ブンデルガンド地方の小勢力としてある程度の勢力回復がなされ、1309年、バルジー朝のアラーウッディーン・ハルジーによって滅ぼされるまで続いたのです。

東西約 2キロメートル、南北約 3キロメートルのおよそ 6平方キロの平地に散在するヒンドゥ教とジャイナ教の寺院群は  上記のように 10世紀初めから 200年間に建造されたものです。

建築様式はみごとに統一されており完成の域に達している。 チャンデッラ朝の支配するあいだに、ここには 85にのぼる寺院が建造された と言います。

イスラム教徒によるブンデルカンド地方の征服後 100年以上もたった 1335年に、モロッコのタンジール出身の有名な旅行家イブン・バトゥータが カジュラーホを訪れたときには、まだ燦然と輝いていた寺院群を目の当たりにしたことでしょう。

しかしその後この地は忘れ去られ、 鬱蒼と茂る植物に埋もれ、今世紀に再発見されるまで深い眠りについていたのです。

現在残る 25の寺院は、大きく西群、東群、南群の 3つのグループに分けられています。

すべてヒンドゥ寺院である西群にいちばん多くが残り、主要な寺院群は塀で囲まれて公園のように整備され、政府考古局の手で管理されている。

東群にはジャイナ寺院が多く、今もジャイナ教徒による寄進があるそうです。  南群には、ただふたつのヒンドゥ寺院が残るのみだった。

西群の奥にそびえるのは、11世紀半ばに建立された、カジュラーホで最大のカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院でdす。 高さ 31メートルにも達する砂岩の塔はシカラとよばれ、その全体と相似形の小シカラが 84も積み重なった形をしていて、天を突くようにのび上がっている。

インドの中世寺院は大きく北方型と南方型に分けらますが、カジュラーホの大寺院群は北方型の完成された姿を見せている。

平面プランは、ポーチ、マンダハハバ(拝堂)、マハー・マンダバ(大拝堂)、そして最も高い塔の下にあるガルバグリハ(聖室) から成り、聖室のまわりには繞道(礼拝対象のまわりを右まわりに巡る道筋) があって、周囲には採光のためのバルコニーがある。

こうして奥へ行くにつれて高くなる塔状部が連なる寺院形は、山の峰の連なり、つまりは聖なるヒマラヤ山脈を象徴しているのでしょう。

カジュラーホの多くのヒンドゥ寺院は ヴィシュヌ派の寺院であるが、このカンダーリヤ・マハーデーヴァ寺院はシヴァ神に献じられているので、これはヒマラヤのシシヴァ神のすみかとされるカイラース山になぞらえたものでしょう。

寺院の外壁にはおびただしい数の男女の彫像や装飾彫刻が並び、花冠で飾られた入り口上部には、マカラ(海の怪獣) の彫刻が両側に控えている。 エロスの華美が四辺を圧倒する空間です。

ムガル建築6-4

カジュラーホに現存する 25の寺院に 施されたた見事な・驚愕する装飾彫刻は、中世を代表する傑出した一群の彫刻家たちの作品です。

寺院の内外の壁面を埋めつくす男神や女神、あでやかな天女たち、空想上の動物、そして 「ミトゥナ」 とよばれる抱擁する男女を描いた官能的な彫像は、彫刻家たちの尽きることのない豊かな想像力の発露です。

建築と彫刻の境界はしだいに失われ、寺院は複雑をきわめる彫刻の巨大な集合体となっていっている。

西群にあるほかの大寺院、シヴァ神に捧げられたラクシュマナ寺院 (954年建立) やヴィシュワナータ寺院(1002年建立) も、ポーチから聖室に至るまでシカラ状の高い屋根が並び、壁面はおびただしい彫刻で埋めつくされ、この地が、消え去った首都の中心地であったことを示している。

この 2寺院は高い基壇の四隅に小祠堂をそなえ、寺院本体と合わせてパンチャーヤタナ(五堂形式) をなしている。

壁面は、弟子たちと車座になって教えを説くグル(師)、あるいは 『カーマスートラ』 の教えを無心に描くエロティックな彫刻などで豊富に飾られている。

今日のインドでは、少なくとも公共の場ではエロチックなものが注意深く排除されていますが、インドの作家連盟・彫刻家などは、古い寺院の宗教彫刻にのみ、そうした描写が許されるのだと言っています。

ムガル建築6-5

西群で今もなお礼拝されて賑わうマータングシュワラ寺院には、シヴァ神の象徴である、高さが 2.5ネートルもの石のリンガ(男根) が祀られている。

この寺院は、まだ 「カジュラーホ型」 のスタイルが確立する以前に建てられた単室型をしていて、壁面彫刻は失われてしまった。  その向かいにあるヴァラーハ寺院は、ヴィシュヌ神の化身であるヴァラーハ(野猪) を祀っている。

カジュラーホで最も古いチャウンサト・ヨギニー寺院は、カーリー女神に捧げる寺院として 900年ごろに花崗岩で建てられた。

この寺院は広い中庭を囲む 64の小祠堂で構成され、各祠堂にはカーリー女神の従者である魔女のヨギニーたちの像が置かれていたが、現在では半数ほどの祠堂しか残っていなかった。

一方、東群にはジャイナ教の寺院群 の区画があり、3つの寺院と多くの小祠堂が建ち並んでいる。

最大のものは第 23代ティールタンカラ(ジャイナ教の祖師) に献じられた バールシュヴァナータ寺院 で、西群の大寺院群よりも早い 10世紀半ばに建立された。

ここにはバルコニーがないが、壁面を埋めつくす彫像は逸品ぞろいで、ある女性は手紙を書き、別の女性は服を着たり、花で自分を飾っている。  チャンデッラ朝の盛期を代表する傑作のひとつに挙げられます。 一千年前の 驚きの作品です。

しかし建築や彫刻のスタイルにおいては、ヒンドゥ教とジャイナ教のあいだにほとんど差はありません。  ただ、ジャイナ教の修行僧にはきわめて厳格な戒律が与えられていた《前記載 参照》。

彼らは、いかなる生き物も殺してはならないという厳しい戒律のゆえに、空中を飛ぶ虫さえ誤って飲み込まないよう、つねにマスクをしていた と聞きました。

南群のドゥーラーデオ寺院はシヴァ神に捧げられた寺院で、みごとな彫刻で飾られているが、この寺院は 12世紀、チャンデッラ朝の建築にかげりが見えはじめ、その絶頂期を過ぎた時期に建立され、 おそらくこれは王朝最後の建造物であろう と言われています。

ムガル建築6-6

近代の観光旅行の始まりとともに、当局はカジュラーホが外貨をもたらす重要性に気づき、寺院群の修復を始めました。

西群の大規模な寺院は保存状態がきわめて良好で、毎年 3月には寺院を舞台にして伝統的な舞踊祭が催されています。 幻想的な 人間肯定の『カーマスートラ』の世界です。

一方 東群のヴァーマナ寺院やブラフマー寺院 、そしてジャヴァーリー寺院といった小規模な寺院の損傷はかなり進行しているようです。

これらの寺院の運命は、荒廃して瓦礫 の山と化してしまうのか、 思うと・・・・・・・

・・・・・ただ ヒンドゥ教とジャイナ教の寺院は仏教徒・日本人には拝観に問題はありませんが、強烈な香料の臭いには 少々 閉口する。

ムガル建築6-7

 _____ 続く _____

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