紀行エピローグ・写真随筆 12

紀行エピローグ3=敦煌・哈密地区=

エピローグⅢー3-1

エピローグⅢー3-2

私と家内は 敦煌からに北西に車で走った。 漠漠とした砂漠 その中に黒い線のみが伸びていく。 玉門関を目指し 敦煌から二時間 この旅の眼目である。

玉門関は俗称を小方盤城と言われています。 省敦煌市の西北約90kmにあり、万里の長城を控え持つ遺構。

シルクロードの重要な堅固な関所の1つとして、漢と唐2度に渡り建立されたと聞きます。 今の玉門関は唐代の玉門関の遺跡であると資料に明記されるも年代は定かではありません。

ただ 万里の長城が2000有余年の風雪に耐えた姿で横たわっていますから 玉門関も同じ月日を砂漠の中で 孤高な姿を維持してきたのでしょう。

その雄姿は 高さ約12m 約25m四方の城壁の門である。

中国で古代ずっと文化人の詠嘆する地で、唐代の詩人王之渙は、「羌笛何須怨楊柳、春光不度玉門関」(羌笛 何ぞもちいん 楊柳を怨むを、春光渡らず玉門関)と詠んでいますが、

「虎穴に入らずんば 虎子を得ず」は班超が少数の兵士と共に 敵の懐深く進入して勝利を納めた時に吐いた言葉です。 紀元100年(永元12年) 西域にいる事31年におよぶ班超は  故郷の漢土が懐かしくなり、朝廷へ帰国の嘆願書を出しています。

102年(永元14年)にその願いが聞き入られ、西域諸侯が 「我等を 見捨てるのか」 と悲哀にくれ、馬前で額ずくのを振り切り 玉門関まで見送られながら凱旋するのです。

しかし 朝廷は玉門関を潜ることを許さず 班超をこの地に数年留め置くのです。 彼は洛陽に幾度も連絡を取ります。 班超の兄・班固、妹・班昭(紫式部のような才女)が帰還運動を繰り広げ 許されるのですが、 洛陽に帰ってきた班超はまもなく故郷で死んでしまうのです。

また 太初元年(紀元前104年) 武帝は寵愛している李夫人(広利の妹)のために、  李広利を「弐師将軍」に封じ、兵数万を率いて汗血馬を手に入れるため弐師城攻略に向かわせた。

しかし、その道のりは遥かに遠く、諸城を攻略できずに食糧にもことを欠き、兵卒の多くが死んだり逃亡したりし 目的達成叶わず、

広利はしかたなく撤兵して、敦煌・玉門関まで辿り着きます。 しかし、この地で 2年間を過ごしています。

これに武帝は激怒し、「玉門関より中に入るようなら斬る」と命令を下した。 かくして李広利の率いる軍は敦煌塞(玉門関近くの漢の武帝時代に築かれた長城)まで戻ったのです。

このように、古代中国において[[玉門関]]・[[陽関]]が西の境界とされ、それよりも西方の国々へ また 漢中へ の堅硬な関所なのです。

エピローグⅢー3-3

李 広利(- 紀元前88年)は、中国前漢代の軍人。 妹に武帝の寵妃李夫人と兄に武帝の寵臣の李延年がいます。

当時、前漢は交易により多くの西域の名馬を手に入れていた。 武帝は西域の名馬の中でも大宛の「汗血馬」を特に好んでいたが、大宛の弐師城に汗血馬が飼われていると聞き、使者を派遣して千金と金の馬で汗血馬を買うことを求めたが、使者は殺されて、金銭は略奪された。

若い頃の李広利は、元来無頼として定職に就かない勝手気ままな人物であったが、太初元年(紀元前104年)、武帝は 広利を「弐師将軍」に封じ、兵数万を率いて汗血馬を手に入れるため弐師城攻略に向かわせた。

しかし、その道のりは遥かに遠く、諸城を攻略できずに食糧にもことを欠き、兵卒の多くが死んだり逃亡したりした。 李広は 武帝の逆鱗に触れ 許されずに玉門関で二ヶ年 留まって居ました。

太初3年、武帝はもう1度大宛を再び攻めることを命じ、弐師将軍・李広利に 精兵6万、さらに牛の10万匹、馬の3万匹、ロバ、ラクダ1万余匹は糧秣の軍の物資を運ばせる、これに加えて18万の別道部隊が後方より回り込める軍団を与えて 大宛外城に攻め入らせたのです。

広利の大軍は、40日余り大宛城を包囲攻撃して、無数の大宛兵を殺した。これに対して恐れをなした大宛は、漢軍が撤兵することを条件に、国王を先頭に投降し、あわせて3000数匹の「汗血馬」を漢に捧げた と史書に書かれています。

弐師将軍・李広利の漢軍は 玉門関にまで凱旋しましたが、過酷な道のりのため 1万人余の兵と馬1000匹になっていた とも追記されています。

凱旋した広利は この功で 海西侯に封じられます。 紀元前99年(天漢2年) 匈奴討伐に向かう勅命を受けます。 武帝は李広利の支援として李陵に 5千の兵を与たえ、出陣させます。 だが、李陵は李広利と合流前に匈奴3万の軍勢と戦い、兵力の差と支援が無かったために降伏してしまうのです。

このことで李陵一族は 武帝に処刑され、李陵を弁護した司馬遷は宮刑(男性機能を奪う刑)に処されます。 不具者にされた司馬遷の鬱憤・鬱積が『史記』を書かせるのですが・・・・

征和3年(紀元前90年)、広利はふたたび勅命を受け、五原に匈奴討伐に出兵します。 その前夜、広利は 丞相の澎侯・劉屈氂(武帝の甥)と、昌邑王・劉髆(広利の妹・武帝が寵妃の李夫人の子)を皇太子に推してもらえるよう 密談をしていた。

渭橋まで見送った劉屈氂に向かって広利は「貴公が昌邑王を皇太子に立てるよう陛下に請願することを願い申し上げます。 もし、昌邑王が帝に即位されるならば、貴公は以後も憂うれることはなくなるでしょう」と言った。

後に、内者令の郭穰が、「劉屈氂夫人は、夫が武帝の叱責を受けたため呪詛し、李広利と共に昌邑王を帝位につけるための祈祷を行なっている」と報告した。

そのため、武帝は劉屈氂を逮捕して、引き回しの末に腰斬の刑に処し、妻子も斬罪に処してしまった。 またこれに連座して、広利の妻子も処刑された。

この時、広利は勝ちに乗じて匈奴を追撃していたが、この報を聞き、失意ののち匈奴に投降してしまうのです。 広利は匈奴の王である狐鹿姑単于に重用されますが、同じく漢の降人であった衛律の上として扱われたため、衛律に妬まれ、彼の讒言によって 匈奴王に処刑されるのです。

妹が 時の絶対的な独裁権力者の寵愛を受けていた為に 翻弄された生涯ですね。 同じく 武帝に翻弄された人物。 司馬遷の親友・李 陵

悲劇の勇将・李陵を中心に、執念の歴史家・司馬遷、不屈の使節・蘇武の運命的な生き方を雄渾の筆致で描いた、中島敦さんの最高傑作『李陵』がありますが・・・・・・

エピローグⅢー3-4

李 陵(?-紀元前74年)は 匈奴を相手に勇戦しながら敵に寝返ったと誤解された悲運の将軍です。

祖父の李広は文帝・景帝・武帝に仕えた悲運の将軍として知られた人物であり、父の李当戸は武帝の寵臣であった韓嫣を殴打した剛直の士であったのです。 李陵は父の李当戸が若くして逝去した後に生まれた子供で 父の顔を知りません。

紀元前99年(天漢2年)、騎都尉に任命された李陵は武帝の命により貮師将軍李広利の軍を助けるために五千の歩兵を率いて出陣しました。 しかし合流前に単于が率いる匈奴の本隊三万と遭遇し戦闘に入ります。

李陵軍は獅子奮迅の働きを見せ、六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取っています。 この戦勝を武帝に報告させるため、部下の陳歩楽を遣わしていますが、 戦いは続いています。

多勢に無勢 さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、やむなく降伏したのです。

李陵が匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し、陳歩楽を問詰し、陳歩楽は自決して終うのです。 群臣も武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てたのです。

その中で司馬遷だけが李陵の勇戦と無実を訴えるのですが、武帝は司馬遷を李広利を誹るものとして宮刑に処したのです。

李陵の才能と人柄を気に入った且鞮侯単于は 李陵に部下になるように勧めるのですが 李陵は 幾度も断っています。  《 遊牧社会・匈奴で“単于”は皇帝・王の意 》

だが武帝は匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えていると聞かされて激怒し、李陵の妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹(李敢の子)一家 等 纏めて 一度に皆殺しにしたのです。

しかし実際には「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将軍のことであったのです。

一族の非業の死に嘆き悲しんだ李陵は憤慨し、原因の李緒を殺害します。

李陵は 後に且鞮侯単于の娘を娶って、その間に子を儲け 彼はそのまま匈奴の右校王となり、紀元前74年に 蒙古高原で没したのです。

匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単于に斬られています。

かつて 匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取った人物がいたのです。 過日 司馬遼・李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武です。

蘇武は 外交官として呼韓邪単于に会い、韓呼邪単于は蘇武の学識に魅了され 帰国を許さず、臣下の礼を取らせようと するのです。

しかし 蘇武は拒否し続けます。 単于は長期戦で溶解させようと 蘇武を蒙古高原の北部にて監禁するよう 生活させたのです。

李陵は 節を全うしようとする蘇武を陰から助けているのです。

エピローグⅢー3-5

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

 【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

 【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

※ 前節への移行 ≪  https://thubokou.wordpress.com/2013/02/18/ ≫

※ 後節への移行 ≪ https://thubokou.wordpress.com/2013/02/20/ ≫

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

コメントを残す