不世出の旅行家/ バットゥータ =04=

= 14世紀中葉、三大陸周遊 / イブン・バットゥータ =

~ 19世紀までイスラーム圏以外で知られざる大旅行家・法学者 ~

《YouTubu動画;The journey of ibn battuta.flv》

https://www.youtube.com/watch?v=O8B0R4LOLWQ

バトゥーター11-

▼もっと遠くの世界へ▼

ダマスカスからシリア巡礼道をたどって、出発後約1年4か月かかってメディナを経て、1326年10月メッカに到着したイブン・バットゥータは、メッカ滞在の期間に多くの学者・修行者・商人と交流して各地の情報を得ることで、一つの共同体としてのイスラーム世界の存在を知り、マーリク派法学の知識人の一人として、広くその世界に生きる可能性を見出したと思われる。

彼の経験、シリア巡礼道をハッジとして旅する道中で、父親がカーディー つまりその土地の裁判官であったため、イブン・バットゥータもカーディーになるための教育を受けていた。それはタンジールで受けられる最高の教育だったし、旅仲間たちはこのことを知り、道中の争いごとを解決する裁判官になるよう彼に頼み保護を求めていたのだ。

そして 再び旅に出た理由について、彼はメッカの聖域内で殺さつ戮りくをともなう騒乱が起こったためと説明しているが、実際にはインドのデリー・トゥグルク朝においてアラブ人やイラン人などの外国人が「貴人」として優遇され、高給で仕官しているとの情報を得たことから、インドに向かうことを決めたのであろう。

最初のメッカ巡礼を果たした直後に、巡礼キャラバン隊と一緒にアラビア半島を越えて バクダッドを目指し、イラクとイランに旅にでる。 当時のイスラムの中心都市はバグダッドであり、彼の「純然たる冒険旅行のため」がアqラビアの砂漠横断に向かわせた。

1326年11月、メッカに別れを告げ、イブン・バットゥータはアラビア半島を縦断して、2003年来のアメリカのイラク侵略戦争でよく知られるようになった、シーア派聖地ナジャフに詣でる。 その後、バスラに行って少し船に乗ってイランに入り、イスファハーン、シーラーズを回り、再びイラクに入って北上して、バクダード、そして近隣に古代アッシリア王国の首都ニネベ遺跡のあるマウスィル(モスル)まで行き、同じ道をたどってメッカに戻っている。

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※; ニネヴェは、古代メソポタミア北部にあったアッシリアの都市。アッシリア帝国の後期には首都が置かれた。なお、ニネヴェと言う名は旧約聖書ヨナ書など)の表記によるものであり、アッカド語ではニヌアと呼ばれる。チグリス川沿いの現代の都市モスルの対岸(東岸)に存在する。

クユンジクとネビ・ユヌスという二つの丘からなるが、ネビ・ユヌスは現在イスラム教の聖地となっているため調査はほぼ行われておらず、ニネヴェに関する現代の知識はクユンジクの調査に依存している。19世紀半ばから繰り返し調査が行われているが、なお十分とはいえない。ニネヴェはアッシリアの首都であった時代が有名であるが、紀元前7千年紀から人が居住を始めた非常に古い街である。初期の歴史については不明点が多い。既に古アッシリア時代(アッシリアの時代区分についてはアッシリアの項目を参照)にはアッシリアの重要都市の1つであった。

新アッシリア王国時代に、センナケリブがニネヴェに遷都して以降、帝国の首都として大規模な建築事業や都市の拡張が行われた。この時期に街は二重の城壁で囲まれ、クユンジクの丘には宮殿が相次いで建設された。アッシュールバニパル王の図書館があったのはこの都市であり、バビロンにあったとされる空中庭園は実際にはニネヴェにあったとする説もある。

紀元前612年メディアバビロニアスキタイの攻撃を受けてニネヴェは陥落し破壊された。その後も小規模の都市として存続したが、かつての重要性は失われ、一帯の中心は対岸のモスルに移った。なおモスルは現在も、クルド人からニネヴェ、ネストリウス派アッシリア人からはニネワとよばれており、モスルを県都とするイラクの県、ニーナワー県もニネヴェの名に由来する。

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バクダッドについて、バットゥータは公衆浴場に感銘を受け こう書いている。「それぞれの浴場には多数の個室があり,どの個室にも隅にたらいが据え付けられ,二つの蛇口からそれぞれ湯と水が出る」。 また、ある友好的な将軍の取り計らいで、彼はスルタンであるアブー・サイードに謁見し、貴重な品々を授かっている。 それには馬1頭と礼服1着、またバグダッドの知事にあてた書簡が含まれていた。 その書簡は,ラクダや物資の提供を要請するものであった。 彼の“押しの強さ”が成さしめたのであろう。

再びメッカに戻ると、まる3年間をムジャーウィル=前節参照=寄留者として過ごしている。 この間、ジッダから船でイエメンを経由、アラビア海を横断してインドに向かおうとしたが、アデンに到着したとき、すでにインドに向かう船が出港するモンスーン航海期は終わっていた。 やむなく東アフリカ海岸に沿って南下し、クルワー(キルワ)王国に至り、復路はふたたび船で南アラビアまで北上、ペルシア湾岸を経由して、メッカに戻ることになったのだ。

バスラは、古代から現代に至るまで、ペルシア湾奥の最大の港である。 イブン・バットゥータは、その町について「今なお バスラの町は、イラクの重要な都市の1つ、世界の隅々までもその名声が広く知れわたり、その都市空間の広さ、その風雅さを誇る広場、そして数々の果樹園と選り優りの果物類がある。神により分かち与えられたるこの場所こそは、まさに《コーランに言うように》2つの海、塩辛い水と真水の出会いの場である」などという『大旅行記』に記し、また、その対岸にあったもう1つの港ウッブラについて、「かつてはインドや《ペルシア湾》のファールスの商人たちがいつも目指して集まる大都市であったが、荒廃して、今では村となり、昔日の壮麗さを偲ばせる幾つもの城塞やその他の遺跡がある」

シーラーズの西方にカーザルーンという町がある。そこはシャイフ=アブー・イスハーク(963-1033)という、スーフィー教団の創始者の故郷である。 彼は、インドやシナの人々の間で高い尊崇を受けている人物である。シナの海を航海する人たちには、次のような慣行がり、イスラーム教徒の媽祖信仰=航海・漁業の守護神=である。

「つまり、逆風に遭ったり、盗賊(海賊)に襲われる危険に遭遇した時に、彼らはアブー・イスハークに『これこれの金額をお払いしますので、どうぞお助け下さい』と言って願を掛け、そして彼ら各自は願いごと(願掛けの額)を彼の名のもとに書き記す。そして、実際に無事に目的の場所に上陸することが出来た時に、ザーウィヤに奉仕する人たちが《願いごとを掛けた人の船》に乗り込んで、その祈願の書付を取って調べ、それぞれの祈願者から願掛けの額を徴収する。

シナ、もしくはインドから航海して来る船は、どの船も必ずや、この聖者にすがって願掛けを行い、その願掛けの額が数千ディーナールにも達し、その場合、ザーウィヤの奉仕者から派遣の代理人(修行者)たちが来て、それを受け取る。 シャイフ=アブー・イスハークの派に所属するザーウィヤ(修行所)がインドのキンバーヤ(キャンベイ湾最奥、カンバーヤ)やクーラム、カーリクート、そしてザイトゥーン(泉州)などにもある」ともこの旅から得た情報を『大旅行記』に記している。

真意は別にして、インド・デリー王朝のトゥグルク朝に仕えていたとみられるシャイフ・サイードが、ソマリアのガルダフィ岬に浮かぶソコトラ島の海賊に襲われたときの挿話が入れられている。

「シャイフ・サイードは、ワシュルと一緒に旅に出ると、2人の持っていたすべての資金で必要な商品の数々を買い入れた。しかし、2人がソコトラ(スクトラ)島に達した時、多数の船団を率いたインド海賊が2人を襲った。そこで船の乗組員たちは、海賊たちと激しい戦闘を交え、両者ともにかなりの数の死者が出た。

ワシュルは、かつて弓師であったので、敵の一団を殺したが、結局、その盗賊たちは彼らに勝利して、ワシュルにも槍の一撃を加えた。 盗賊たちは、彼らのすべての所有物を奪ったが、船の航海用の装備と食料については、その船と一緒にそのまま残した。そこで、彼らはアデンに着き、ワシュルはその地で亡くなった。

これらの盗賊たちの慣行として、以下のことがある。 彼らは、戦闘の時以外に、決して誰1人として相手を殺したり、溺れさせることはせず、ただ金を奪うことだけが目的であるために、金を取った後は相手の船を望むところに行かせてやるのが常である。 サイードらは、身ぐるみ剥がされたにもかかわらず、インド王から託された贈り物を、スルタンに手渡している。」;『大旅行記』

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《YouTubu動画;The man who walked across the World Part 1》

https://www.youtube.com/watch?v=L8xU2ukQKiY

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

・・・・・・続く・・・・・・

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