円仁、求法巡礼 -02―

東大寺・ 天台山を目指すが…

円仁は最後の遣唐留学僧として唐に辿り着いたのだが、目指す天台山への巡礼・留学の旅行許可が下りず 空しく帰国せねばならない事態に陥った。 円仁の立場は、もともと 請益僧=入唐僧=唐への留学僧のうち、短期間の者=であったため 目指す天台山旅程と就学の日程的に無理と判断されたか許可が下りない。 外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が必要な事から、唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。 そこで円仁は遣唐使一行と離れて危険をおかして不法在唐を決意する。

天台山に居た最澄の姿を童子の時に見ていたという若い天台僧・敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。 日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。 初対面で二人は仏縁と互いに確信、敬文が唐滞在中の円仁の世話を何かと見てくれるようになるのだが、天台に登る手立てを講じかねる状態に変化はない。

ここで、円仁の『入唐求法巡礼行記』を今一度紐解き 6月13日の博多津を出港から長江河口に漂着すりまでの苦難を確認しておこう。

838年(承和5年)6月13日出立の“承和の遣唐使”は、すでに836年、さらに翌年に、渡海を試みたが失敗していた。 四つの船うち、第3舶は出発前に難破して用をなさず、また第2舶は副使小野篁の病気=実は仮病、乗船せず、後日 短期の遠島処分を受刑=を理由に出発できなかった。 そのため、第1舶と第4舶だけで発航することとなり、前者に遣唐大使藤原常嗣、円仁などが乗込んだ。

一行は博多で乗船するが順風がえられず、3日間滞船 18日 志賀島に至るも5日間の風待ちをする。22日に五島列島の宇久島に着き、翌日「ここで唐に行く者と日本に留まる者が互いに別れた。午後6時になるころ、帆を上げ大海を渡るべく出航している。 北東の風が吹き、夜になって暗いなかを進み、第1舶と第4舶の2船はお互いに火縄やたいまつを焚き、発火信号を交わしあった」と記している。 この“日本に留まる者”とは単なる見送り人であろう。 また、宇久島は平家盛(平清盛の弟)が壇ノ浦の戦いの後にこの島に逃れて住みつき、五島一円に勢力を伸ばして宇久氏の祖となったという伝説が残っている。

6月24日 海上にて航行安全祈願が行われたが、第1舶は第4舶を見失ってしまう。 更に 27日には「船体の隅角や接続部に使ってある鉄の板が、波の衝撃で全部脱落してしまった」と綴り、この鉄板は「要部を保護するために、表面を覆う平板の鉄片」と注釈されているが、前途への不安が覗える。

円仁は『入唐求法巡礼行記』にて・・・・・・

6月28日、出帆後早くも5日目に大陸沿岸に接近したもようで、海水は黄泥白濁となる。 そのとき、新羅人通訳の金正南が白濁と河口について説明を行っている。 大使は、水深が5尋(9メートル)となり、座礁を恐れる。・・・・・・と記し、

「そうこうしているうちに、東からの風がしきりに吹いてきて大小の波が高く猛り立ち、舶は急に走り出して速度を増し、とうとう浅瀬にのり上げてしまった。 あわてふためいてすぐに帆をおろしたが、舵は2度にわたってくだけ折れ、波が東と西の両側から互いに突いてきて舶を傾けた。 舵の板は海底に着き、舶の艫(後部)はいまやまさに破れ割けようとしている。 そこで、やむなく帆柱を切って舵を捨ててしまうと、舶は大波にしたがって漂流しはじめた」。

さらに、「泥水が船中にあふれ出し、とうとう舶は沈んで沙土の上に乗ってしまった。 船底には官物・私物のあれこれが泥水のまにまに浮かんだり沈んだりしている」という有様となった。

7月2日、先遣していた射手=警備兵=の壬生開山が帰ってきて、長江河口の揚州海陵県白潮鎮桑田郡東梁豊村に到着していることが分る。 「ただちに、小さな倉船に日本国からの貢献物を移し、録事1人、知乗船事=船管理官=が2人、学問僧・円載ら以下、27人が同様に乗り移り、陸を目指して出発した」と書き綴る。

翌日 7月3日、「午前2時ごろ潮がさしてくる。 航路を知っている水先案内船に前方を誘導され、掘港庭にいった。 午前10時ごろ 白潮口に着くと、潮の逆流がきわめて激しい。 大唐人3人と日本の水手らが船を陸上から曳いて流れを横切り岸に到着、艫綱を結んでしばらくの間、潮が満ちてくるのを待った」とある。 「ここで第4舶が山東半島北方の渤海に漂着したことを聞く」とも追記している。

※  円載(えんさい、生年不詳 - 元慶元年(877年))は、平安時代前期の天台宗の僧。  出身は大和国。

幼い頃から日本天台宗の祖最澄に師事し、838年(承和5年)天台座主円澄の天台宗義に関する疑問50条を携えて唐に渡った。 天台山広修・維蠲(イケン)の疑問50条に関する《唐決》を得て弟子の仁好(ニンコウ)に託して、疑問50条へと仏答を日本に送った。 その後も唐に残り学識を持って宣宗の帰依を受け、また、855年(斉衡2年)円珍とともに長安青龍寺法全から灌頂を受けた。 この間、日本の朝廷から2度にわたり黄金の送金を受けていた。 877年(元慶元年)日本へ帰る途中船が難破して横死を遂げる。

「破戒僧」として; 円載は唐に滞在している間に破戒悪行があったとも伝えられている。 円珍「行歴抄」では、円載との確執が描写されている。 円載は、唐滞在中に“会昌の廃仏”に遭遇し、他の多くの僧と同様に強制的に還俗させられており、妻子も持った。 これが「破戒悪行」として日本に伝わった可能性もあるが、同時期に唐に滞在していた円仁も同様に還俗させられている。

=円仁が再度剃髪したのは帰国する直前のことであった。 “会昌の廃仏”の詳細は後述。また 円仁は円載とちがって無事帰国を果たし、第3代天台座主・慈覚大師となる。=

五台山

838年(承和5年)7月3日、円仁たちの遣唐使一行は航路を知っている水先案内船に前方を誘導され、掘港庭にいった。 この地にて 第4舶が山東半島北方の渤海に漂着したことを聞き知った。 と円仁は、『入唐求法巡礼行記』に記している。

彼の日記を追えば・・・・・・

掘港から揚州までの移動は運河を利用した。 7月14日、迎えの船を待たずに、「大使1人、判官2人、録事1人、知乗船事(船中の管理役、録事の次の位)1人、史生(記録係)1人、射手、水手(水夫)ら、総勢30人が水路から船で県庁に向かって」しまう。 その後、「7月18日。早朝、公私の財物をもやい船に運んだ。録事以下、水手以上の者は水路から船で揚州府目指して進んでいった」・・・・・

運河での運搬は、「水牛2頭の一組が40余隻のもやい船をつないで引っぱる。 あるいは3隻を横に並べで1船とし、あるいは2隻を横に並べて1船とし、艫綱でつないでいる。 前と後ろでは距離が離れているので聞こえづらいから互いに大きな声を出し合い、かなり早い速度で進む。 運河の幅は2丈余(約6メートル)、曲がることなく真っ直ぐに流れている。これが、あの有名な隋の場帝が掘り作らしたものである」・・・・・・

遣唐大使から文書が来て、「今回の漂流中に破損した第1舶は便宜のあり次第、所管地域の駐屯部隊に監視してもらい、その舶の乗り組みの水手らは数をたしかめて、全員上陸出発させよ。残留する者があってはならない」ということになったという通達内容。

同年8月8日、すでに来ていた情報に加え、「第4舶はなお泥の上に居り、いまだに停泊個所に着いていない。 日本国からの貢献品もまだ運び揚げられていない。 その舶の張り板ははずれ落ちて、船中は泥水でほとんど一杯になり、潮の干満にしたがって船倉の水がひいて、舶は泥の上に乗ったり水中に沈んだりで、ほとんど航海の役には立たなくなっている。云々」の情報を得る。

=求法僧の円行・円載(前節参照)・常暁らはまだ上陸していない。 また、船頭の判官(菅原善主)は上陸して、海辺の漁師の家にいる船中の人5人は体がふくらんで死んだことが知らされ 帰船している。

円行は、実恵(空海の十大弟子の一人、俗姓は佐伯氏 讃岐国の出身で空海の一族)の推挙により入唐請益僧となり、青龍寺義真から法を受けた。 翌839年(承和6年)に帰国し「請来目録」を奉った。 その後勅命により山城国霊巌寺を開創し、また天王寺の初代別当に任じられ、播磨国太山寺の開祖とも伝えられている。

常暁は元興寺の豊安(鑑真の愛弟子)に三論の教学を学び、その後空海から灌頂を受けた。 入唐一ヶ年で“三論”を極め、密教と大元帥法(怨敵・逆臣の調伏、国家安泰を祈る真言密教の法)を学び、帰朝後 宮中の常寧殿で大元帥法を初めて行うなど 活躍する。 尚、入唐八家とは最澄・空海・常暁・円行・円仁・恵運・円珍・宗叡を言う。=

 

8月10日 新羅人通訳の朴正長から、出帆が後れていた第2舶が海州(江蘇省東海県)に着いたという手紙が、第1舶の金正南のもとに来る。 8月17日 赤痢にかかっていた船師(船長)佐伯金成が死ぬ。 遺品は従者に授けられる。 また、第1舶に派遣していた副船長の楊侯糸麻呂が急ぎ帰って来て、水夫長佐伯全継が掘港で死んでいたという。 そして、8月24日 第4舶の判官一行が30隻ほどの小船に乗ってやってくる。

10月5日、遣唐大使らは揚州を長安に向け出発する、「入京する官人は大使1人(藤原朝臣常嗣)、長岑判官(長岑高名)、菅原判官(菅原善主)、高岳録事(高岳百興)、大神録事(大神宗雄)、大宅通事(大宅年雄)、別請益生(特別研究員)伴須賀雄、真言請益僧円行ら、それに雑職(各種の職事官)以下35人、官船は5艘」が出立した陣容であったと綴る。

=請益僧とは入唐僧(唐への留学僧)のうち、短期間の就学者である。 円仁が目指す天台山へは旅行許可が下りず(短期の入唐僧の為日程的に無理と判断されたか)、空しく帰国せねばならない事態に陥った。 円仁は唐への留住を唐皇帝に何度も願い出るが認められない。外国人僧の滞在には唐皇帝の勅許が最低の必須条件。 そこで円仁は遣唐使一行と離れてでも、危険をおかして不法在唐を決意する。

天台山に居た最澄の姿を童子の時に見ていたという若い天台僧・敬文が、天台山からはるばる円仁を訪ねてきた。 日本から高僧が揚州に来ているという情報を得て、懐かしく思って訪れて来たのだという。 単独行動を決意した円仁の唐滞在中、敬文が円仁の世話を何かと見てくれるようになるのだが・・・・・・=

円仁は、10月22日早朝、ハリー彗星を見たと記している。 翌日も、「暁になって部屋から出て、この彗星を見ると、東南の空の隅にあってその尾は西を指しており、炎はきわめてハッキリと見えた。遠くからこれを望み見ると、光の長さは全体で10丈(約30メートル)以上もある。どの人も皆、これは兵剣[兵乱]の光を意味するものに違いないと言った」と。その後も、彼は日食、月食、月と金星の接近などの天文現象にたびたび遭遇している。

日本を出発した年の12月18日、「早くも新羅人の通訳金正南をして、往路の第1舶・第4舶の破損の度が大きかったので、遣唐諸使の帰国の船を決めるために、楚州(のちの淮安)に向かって出発」と、その直後に遣唐大使・藤原常嗣が長安に着いたという連絡が来ると記述。 そして、年が改まった839(承和6)年の閏正月4日には、「新羅人の通訳金正南の要請で購入した船を修理させるために、工匠の監督、大工、船工、鍛工(かじ屋)ら36人を楚州に向け出発させた」とある。また、1月8日、日本語が非常によくわかる「新羅人の王請という者がやって来たので会った。彼は日本の弘仁10年(819)に出羽の国に流れ着いた唐の人張覚済らと同じ船に乗っていたと言い、漂流した事情を縷縷話す。 遣唐使一行をおもねっての言葉使もあろうが、新羅人商人は北九州のみならず、東北の豪族といわば密貿易を行っていたことを言下に示していると・・・・・・

・・・・・・・続く

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