十字軍とテンプル騎士団=34=

❢❢❢ ソロモン神殿が聖地奪回への貧しき戦士たち = 第一部“十字軍”  ❢❢❢

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◇◆ バイバルスの台頭とモンゴル帝国の拡大 ◆◇

若年のスルターン・マンスール・アリーを廃位し、自らマムルーク朝のスルターンに即位したムザッファル・クトゥズは、モンゴル軍の侵入に際して、ダマスカスのナースィルに協力を約束したが、フレグの率いるモンゴル軍はすでにシリアに進んでいた。 モンゴル軍はアレッポ、ダマスカスを占領していたが、フレグは行軍中に兄であるモンケ・ハーンの訃報に接し、ケドブカ・ノヤンを代理の司令官としてペルシャに帰還してしまった。 しかし、ケドブカはナースィルを捕虜とし、モンゴルの攻撃から避難した人々で溢れかえるエジプトに降伏を要求する使節団を派遣した。

カイロで開かれた会議でバイバルスを初めとする諸将は主戦論を唱え、クトゥズは開戦を決断し、使節団を処刑した。 ケドブカは麾下のモンゴル軍とキリスト教徒諸侯を率い、マムルーク朝領への侵攻を開始した。 マムルーク朝の前にはエルサレムを失ったエルサレム王国が拠るアッカー(前節参照)があり、ケドブカはアッカーに迫った。 ケドブカ南下の報を受けたクトゥズは配下のマムルークを率い、カイロを出発した。 このマムルーク政権存亡の機に際し、追放されてシリア方面で放浪の日々を送っていたバイバルスら反クトゥズ派のマムルークたちはクトゥズと和解してその軍隊に加わり、またモンゴル軍に降ることを嫌ったアッカーのキリスト教徒たちは中立の立場を取ってマムルーク朝軍の領内通過を許したのである。

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 バイバルスが率いる前衛はガザに駐屯していたモンゴル軍を撃破し、進軍中にフレグがペルシャに退却した報告を受け取る。 バイバルスは地中海沿岸部のキリスト教勢力から中立の約束を取り付け、彼らの領土を通過してダマスカスを目指した。 1260年9月3日、進軍中のマムルーク軍はガリラヤの丘陵地帯にあるアイン・ジャールートでケドブカが率いるモンゴル軍に遭遇し“アイン・シャールートの戦い”が始まった。 先鋒隊のため1万人強の小勢であったモンゴル軍に対して、数では優位にあったとみられるマムルーク朝軍は全軍を投入することを避け、まずバイバルス率いる先鋒隊のみがモンゴル軍の前に進んだ。

バイバルス隊に対して数で勝ったモンゴル軍は、マムルーク朝軍に突撃して一気に勝敗を決しようとし、後退を始めた。 蒙古軍団得意の誘導戦法である。 後退に見せかけた蒙古軍団は反転してバイバルス隊を追撃した。 しかし、数で勝るマヌルーク軍団、待ち受けていたマムルーク朝軍本隊によって包囲網を形成し、モンゴル軍を攻撃し、壊滅した。 モンゴル軍の司令官キト・ブカは捕らえられて処刑されたとも、乱戦の中で戦死したともいう。 シリア駐留モンゴル軍の壊滅により、マムルーク朝軍は完勝した。 その後、ダマスカス、アレッポを解放し、モンゴル帝国のアラブ世界への拡大を食い止め、さらにはマムルーク朝によるエジプト・シリア再統合のきっかけを生み出すことになった。

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 フレグがシリアの各都市に置いた総督はマムルーク軍によって殺害され、ダマスカスもイスラーム勢力の支配下に戻る。 モンゴル軍との交戦前、バイバルスはクトゥズからアレッポ総督の地位を約束されていたが、戦後に約束を反故にされる。 1260年10月、バイバルスはクトゥズに不満を抱く仲間と共謀してカイロへの帰還中に行われた狩りの最中にクトゥズを刺殺する。 クトゥズの殺害後、テュルクの慣習に則って、クトゥズに止めを刺したバイバルスが新たなスルターンに推戴された。

即位したバイバルスはカイロのムカッタム城砦に入り、部将たちから忠誠の誓いを受けた。 だが、クトゥズを迎える準備をしていたカイロ市民たちはクトゥズの死とバイバルスの即位に戸惑い、バフリー・マムルークによる統治に不安を抱いていた。 バイバルスはクトゥズが課した税を廃止し、バフリー・マムルークたちに市民に危害を加えることを固く禁じたことで、人心はようやく落ち着く。 しかし、即位直後にダマスカス総督サンジャルやシリア諸都市の将軍たちが反乱を起こし、バイバルスはかつての主人であるアイダキーンを鎮圧に派遣した。  反乱が鎮圧された後、バイバルスはアイダキーンをダマスカス総督に任命。 アレッポにおいてはクトゥズによって総督に任命されていたアラウッディーン・イブン・ルウルウが配下に放逐されており、バイバルスは新たにアレッポの総督となったフサームッディーン・ラージーンの地位を追認したのである。

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 “アイン・シャールートの戦い”後の翌年(1261年)バイバルスはアッバース朝最後のカリフ・ムスタアスィムの叔父アフマドがダマスカスに到着した報告を受け取り、彼をカイロに迎え入れてカリフ・ムスタンスィル2世として擁立した。 アッバース家の象徴である礼服をムスタンスィル2世に着せられたバイバルスは、カリフを傍らに伴って華々しくカイロを行進した。 そして、バイバルスはムスタンスィル2世からエジプト、シリア、アナトリアの統治を認める叙任状を受け取った。 更に 同年8月、バクダードにカリフの政権を復活させるためダマスカスに行き、ムスタンスィル2世に護衛を付けて送り出したがカリフ一行はユーフラテス川を渡った後、モンゴル軍に殺害されたと報告を受けている。 既に1260年、モンゴル帝国フレグ軍の侵攻によってアッバース朝は滅亡し、バグダードは灰燼に帰していたのだが=バグダードの戦い=。

即位から3年の間、バイバルスは軍備の強化に力を入れ、陸海軍の再編、城砦の修築が実施する。 バイバルスはモンゴルの侵攻に対抗するため、軍備の強化と並行して神聖ローマ帝国、ビザンツ帝国(東ローマ帝国)との関係を強化して行った。 ルーム・セルジューク朝(小アジアの雄)のスルターン・カイカーウス2世は、自国の共同統治者であり政敵でもある弟のクルチ・アルスラーン4世を打倒するため、バイバルスに国土の半分の割譲と引き換えの援助を願い出る使者を送り込んで来る。 更には、エジプトの反乱、シリアに残存するアイユーブ王族、拡大を続けるモンゴル軍に対処するため、等々 バイバルスはこれらの諸事に中東の十字軍国家に対しては消極的な態度を取っていた。

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===== 続く =====

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