550年後、目覚めた英国王=03 =

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○

ボスワース戦

◇◆  駐車場で蘇った英国王 _3_ ◆◇

発掘現場は騒然となった。 現場責任者や発掘プロジェクトの担当者らを大急ぎで呼びよせた。 それらの関係者が固唾をのんで見守る中、全身を覆った土を慎重に取り除いでいく。 全員が無言である。 咳払いすらできぬ緊張が支配した。 やがて姿を現したのは、両手を縛られ、背骨がS字型に大きく曲がった人物の遺骨。 リチャード3世と肉体的な特徴が合致するものだった。 多くの文献が彼の肉体的特徴を記述しているではないか。

いわく付きの王のもの思われる遺骨発見のニュースは瞬く間にひろがり、世界を驚かせた。 ここまでの興奮をもってむかえられるイングランド王は、おそらく他に類を見ないであろう。 在位はほんの二ヵ年であったにもかかわらず、シェークスピアの戯曲によって、残忍冷酷、極悪不遜、奸智陰険などと、最大級の汚名を被せて語られて来たリチャード3世。 ボズワースの戦場で命を散らせた最後の王である彼は、果たしてそれほどまでに極悪人だったのであろうか?

 ◇◆ 歪められた実像 ◆◇

 少年時代とグロスター公時代を、ヨークシャーのミドゥラム城ですごしたリチャード3世(在位1483-85)は、英国史のなかで、もっとも冷酷で極悪非道の王だったと非難されるのだが、シェイクスピアは史劇『リチャード3世』のなかで、かれを「その化物じみた醜い姿」、「蝮」、「醜い毒蜘蛛」、「ヒキガエル」、腕は「立ち枯れた若木のように萎えている」と表現した。 また、『ユートピア』の著者で16世紀イギリスの最高の人文主義者とされるトマス・モアは、『リチャード3世史』のなかで、「かれは生まれたときから背が曲がり、不吉な姿をしていた。 足から先に生まれ、すでに歯がはえていた。 生まれてすぐに、カエルを生きたまま食した」などと記している。 

ヨーク朝系譜

 リチャード3世は、プランタジネット王朝最後の王だったが、一般向けの歴史解説書では、反対派や親族をつぎつぎと暗殺して王位を簒奪した、冷酷で非道な極悪の王とされている。 そしてリチャード3世の名をもっとも有名にしているのが、前出のシェイクスピアの史劇である。 そこにでてくるリチャード3世は、政敵のヘンリー6世とその皇太子を殺害して長兄を国王の座につけるが、国王と次兄を仲違いさせて、まず次兄を殺害する。 国王の死後は、王妃の親族や反対派の貴族たちを謀反の疑いでつぎつぎに処刑し、甥が継承した王位を奪う。 そのあと、甥ふたりを暗殺する。 そのあいだには、自分の殺した政敵の皇太子妃に甘言を弄して王妃とするものの、そのあとには姪との結婚をはかり、邪魔になった王妃を殺害する。

まさに悪の権化のような王である。 これほど絵にかいたような極悪人は、そうはいない。 そして、最後は戦場で家臣の裏切りにあい、惨めな死に方をする。 シェイクスピアの史劇は、歴史をもとにした創作であって、そこに描かれていることが、すべて史実とはかぎらない。 しかし『リチャード3世』を読み、その演劇を観たりしていると、いつのまにかシェイクスピアの描いたリチャード3世が、実在した王のように思えて混乱してしまう。 それほど、かれの『リチャード3世』はよくできていて、面白い。

 実際のリチャード3世は、シェイクスピアが描いたほどの極悪非道の王ではなかった。 いまではむしろ、清廉潔白、実直でまじめな王だったとされている。 とくにかれが本拠地としたヨークシャーでは、多少の贔屓もあるが、かれは公平で統治にすぐれた手腕を発揮した名君であり、また、音楽を愛したよき夫であり、よき家庭人だった、と伝えられている。 リチャード3世が1485年のボズワースの戦いで敗死したと知らされたとき、ヨーク市の市長と長老たちは、市の記録につぎのように記した。

「かつて慈悲深くわれわれを統治し賜いしリチャード王は、・・・恐るべき裏切りにあい、この北部の諸侯たちとともに、無残にも切りつけられて殺害され賜う。わが市は、大いなる悲しみに暮れぬ」

エドワード3世

 リチャードが王位につくまでの過程や、その後、ボズワースの戦いでヘンリー・テューダ―に討たれるまでにかれのまわりで起こったことには、いまだ解明されていない謎が多い。 また、かれに着せられた最大の罪で最大の謎は、ふたりの甥殺しである。 かれは、ほんとうに甥たちを殺したのか? それとも、これはリチャードに罪を着せるための、だれかの陰謀だったのか? そして、リチャード3世のまわりで起こった事件は、すべてかれに責任があったのか?

 彼がまったく無実だったとは言えないかもしれない。 かぎりなく疑わしいところもある。 しかし、すべての責任が彼にあったわけではないことは確かである。 中世の激しい王権争いを考えれば、かれだけがとくに極悪人だったわけではなく、ほかの権力者たちにも、同じようなことはあったのである。 しかし、それにしてもリチャード3世は、なぜこうも極悪人に仕立て上げられ、「英国史で、もっとも冷酷で極悪非道の王」とされてしまったのか。

復元図ー1

 ===== 続く =====

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