550年後、目覚めた英国王=12 =

❢❢❢ 「忠誠がわれを縛る」 ・ リチャード3世 ❢❢❢ 

○◎ =“薔薇戦争”の最後を飾る英国王・ヨーク朝の終焉= ◎○ 

英仏領土

 ノルマン王朝にとって、フランスは出身地であり故郷だった。 プランタジネット王朝にとっては、先祖の地だった。 イングランドの王家とフランスの王家や大貴族は、お互いの利害と姻戚関係で複雑に結ばれていた。 そしてイングランド国王の多くは、妃をフランスの王家や大貴族から迎えていた。 “ばら戦争”の時代でも、ヘンリー6世の母すなわちヘンリー5世の妃は、フランス国王シャルル6世(在位1380-1422)の娘キャサリンだった。
この姻戚関係で、1422年にヘンリー5世とシャルル6世が相次いで他界すると、生後9カ月足らずのヘンリーが、イングランド国王とフランス国王を兼ねることにもなった。 そしてそのヘンリー6世の妃は、フランスの大貴族アンジュー公の娘マーガレットだった。

このようなイングランドとフランスの深い関係は、利害が一致することもあれば対立することもあった。 その関係が複雑であるからこそ、“ばら戦争”の時代に戦いで負けると、ランカスター家もヨーク家も、利害関係や血縁関係をたよってフランスへ逃げ込み、そこで機会をうかがっては、ふたたびイングランドに攻め込む――といったことをくりかえしたのである。 こうして見ると、当時のイングランドは、フランス出身の貴族の子孫同士が国を奪いあっていたところ――という、奇妙とも思える構図が見えてくるのである。

第一次内乱

 ◇◆ エドワード4世と弟クラレンス公ジョージ ◆◇

「われわれをおおっていた不満の冬もようやく去り、ヨーク家の太陽エドワードによって栄光の夏がきた。 わが一族の上に不機嫌な顔を見せていた暗雲も、いまは大海の底深く飲みこまれたか影さえない。」―――― シェイクスピアの『リチャード三世』は、このせりふからはじまる。 ヨーク家のエドワードが、1471年5月4日のテュークスベリーの戦い(前節参照)でランカスター家を撃ち破り、ふたたび王座についたのである。 ランカスター家の男子直系が絶えたいま、ヨーク家の王権に挑戦できる者はいなくなった。 エドワード4世は、まだ赤ん坊の長男エドワードを皇太子とし、諸侯をあつめて忠誠を誓わせた。 このあとの12年間は、エドワード4世の王権を脅かすような反乱もなく、ヨーク家の天下だった。

ただヨーク家にとって気がかりだったのは、国王のすぐ下の弟クラレンス公ジョージだった。 かれはつねに兄エドワードにたいして嫉妬心をいだき、不満をかかえていた。 これまでも2度にわたってウォーリック伯と反乱を起こしていた。 それも2度目は、敵方ランカスター家についたのである。 ジョージは、弟のグロスター公リチャード(後のリチャード3世)のとりなしで兄エドワード4世と和解していたが、かれの不満はくすぶりつづけていた。

一方、リチャードは、父ヨーク公が戦死してからというものは、兄エドワードに忠誠をつくし、つねに行動をともにしてきた。 ランカスター家との戦いでは、兄の右腕として副官をつとめ、ときには兄に代わって総司令官をつとめたこともあった。 エドワード4世にとってみれば、リチャードはもっとも頼りになる親族だった。 ところがジョージは、つねに兄にたいして敵愾心をくすぶらせ、兄と対立していた。

ウォリック城

 4世の後見人ヴォリック伯リチャード・ネヴィル(前節参照=キング・メィカー)は、エドワード4世がエリザベス・ウッドヴィル(リチャード・ウッドヴィルの娘)と密かに結婚したころから、外交政策をめぐりエドワード4世と対立するようになった。 1469年7月11日、ウォリック伯は年長の娘イザベル・ネヴィルとジョージを結婚させてエドワード4世を牽制した。 そして、1470年にウォリック伯はジョージを誘ってエドワード4世を討伐し、ヘンリー6世を復位させたのである。

ミドルハム城

===== 続く =====

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