宦官・鄭和 / 聖地巡航 =4=

永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=

 ~聖地メッカへの巡礼者ハッジ~

《YouTubu動画;海上霸主:鄭和下西洋 3/4》

http://www.youtube.com/watch?v=GKEE_RkPxWE&list=PL88B72D435D5E0C36

鄭和ー1-

◆◇鄭和の西洋下り◇◆

鄭和の船団は東南アジアインドからアラビア半島アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。彼の指揮した船団の中で、最大の船は宝船(ほうせん)と呼ばれその全長は120メートルを超えるような大型船だったといわれる。

大航海の理由

なぜ永楽帝がこの大航海を企図したかには様々な説がある。その代表的なものは以下の通り:

  1. 靖難の変の際に南京から脱出した建文帝が南海に逃げたかもしれないのでそれを捜索するためとする説。
  2. 西のティムール朝の伸長を恐れた永楽帝がティムールの後ろの勢力と結んで挟撃するためという説。
  3. 朱元璋が明建設の際に滅ぼした陳友諒の配下だった水軍勢力が反抗することを恐れて、これをまとめて南海に派遣したという説。

1の説はあり得ない話ではないが、主目的だったかには疑問がある。

2の説についても、ティムールは第一次航海の年に死んでおり、ティムール個人の権威に基づいたティムール王朝は、彼の没後、急速な分裂に向かったが、ティムールが派遣したスーフィーマウラナ・マリク・イブラヒームチャンパ王国に進出し、明胡戦争に影響を与えたほか、後にその弟子の集団ワリ・サンガドゥマク王国マジャパヒト王国に大きな影響を与えた為、何度も航海を実施した理由と考えられる。

3の説は朱元璋が陳友諒を破ってから長い時が流れすぎており、これも考えにくい。

他に考えられる理由としては簒奪という手段で帝位についた永楽帝は国内の白眼を払拭するために他国の朝貢を多く受け入れる儒教的な聖王を演出する事によって自らの継承を正当化しようとしたという説もある。

政治的な理由よりも、中国艦隊が南シナ海インド洋における海上覇権を樹立することによって諸国の朝貢を促するのが主目的だったとする説もある。 費信などの記録も見ても、諸国の物産や通商事情に関心が寄せられているのは経済的な動機を立証するものとする。

しかし、明は海禁政策を採っており、貿易は朝貢貿易に限っていた。 朝貢貿易においては、中華帝国側は入貢してきた国に対して貢物を上回る下賜物を与えねばならず、朝貢を促すことが経済的な利益に繋がる訳では無い。

朝貢とは、皇帝が己の徳を示すため、朝貢してきた国が持ってきた貢物の数倍から数十倍にあたる宝物を下賜する必要がある。 このため、単に経済の面だけ見た場合、朝貢という貿易形態は、明にとってはむしろ不利益となるのだが・・・・・・。

鄭和ー2-

◆◇鄭和第1-3次遠征の概要◇◆ 

鄭和の第1次遠征は、1405(永楽3)年6月に“西洋下り”の命令が下った。 が、冬モンスーンを利用する必要から、以降 いずれの遠征と同じように その年の冬に出帆したとされる。 このときの艦隊は62隻・27800余人であった。 まず、長江河口の劉家港より、福建の五虎門(五虎島の海門)に立ち寄っている。

その後、占城(チャンパ)を経て、さらにシナ海を南下し、爪哇(ジャワ)に入る。 その地で、王位継承にからんだ内乱に巻き込まれ、鄭和の士卒170人が戦死した。 東王を破った西王は明に謝罪使を送り、黄金6万両の賠償を課せられることとなった。 しかし、払ったのは1万両だけで、その残りは免除されている。

鄭和の船団は、そこから西に向かい 旧港(パレンバン)に入るが、そこで定住する華僑の頭目争いに介入する。 その後、満刺加(マラッカ)・阿魯(アルー)・蘇門答刺(スマトラ)に立ち寄り、ベンガル湾に出でて、錫蘭山(セイロン)・小葛蘭国(キーロン)を経て、最終目的地の古里(カリカット)に至る。 このカリカットでは建碑したという。

第1次遠征隊は、1407(永楽5)年9月に帰還するが、その際、満刺加(マラッカ)・阿魯(アルー)・蘇門答刺(スマトラ)・小葛蘭国(キーロン)・古里(カリカット)・爪哇(ジャワ)の使者が同行し、明の宮廷に入貢させている。

明史』にば、その航海は下西洋西洋下り)と呼ばれ、1405年7月11日、永楽帝の命により第1次航海へと出たと記す。 その船は長さ44丈(約137m)、幅18丈(約56m)という巨艦であり、船団は62隻、総乗組員は2万7800名余りに登った。

蘇州から出発した船団は泉州クイニョンチャンパ王国、現在のベトナム南部)→スラバヤマジャパヒト王国ジャワ島)→パレンバンマラッカAru(現北スマトラ州)→サムドラ・パサイ王国(現アチェ州)→セイロンという航路をたどり、1407年初めにカリカットへと到達。

ジャワ島マジャパヒト王国に滞在中には、宮廷は東王宮と西王宮に別れ内戦(パルグルグ戦争)に巻込まれ、東王宮の所に滞在していた鄭和の部下が西王宮の襲撃時に死亡した。 鄭和が抗議し、西王宮に賠償金の支払いを約束させている。

また、マラッカ海峡に近いパレンバン寄港中には、海賊を行っていた陳祖義という華人を捕らえて一旦本国へ帰国している。

この航海によりそれまで明と交流が無かった東南アジアの諸国が続々と明へと朝貢へやってくるようになった。 そして、鄭和の保護下でマラッカ王国が東西貿易の中継港として成立した。

鄭和ー30-

1407年9月に帰国後、すぐに再出発の命令が出され年末には第2次航海へと出発した。 航路はほぼ同じだが、今度はアユタヤタイ)・マジャパヒト王国ジャワの現スラバヤ)などを経由してカリカットへ至った。

明胡戦争(明・大虞戦争、1406年 –1407年)で第四次北属時期に入ったチャンパ王国へ寄港し、ジャヤ・シンハヴァルマン5世が鄭和を迎えている。 アユタヤen:Wat Phanan Choengを訪問し、帰路の途中でセイロン島に漢文タミル語ペルシア語の3ヶ国語で書かれた石碑を建てている。

この第2次遠征は、鄭和が帰還するとすぐ命令が下され、1407(永楽5)年 冬古里(カリカット)を目的地として出立し、1409(永楽7)年夏帰還するのだが この遠征の記録は乏しい。 この遠征の特異さは、第1次遠征になかった暹羅(シャム)に訪問したこと、そして錫蘭山(セイロン)の別羅里(ペルワラ、ガレまたはゴールの近郊)に、漢文、タミル語、ペルシア語で書かれた記念碑を建設していたことで、その遠征が確認されえたことであった。

明は、マラッカやスマトラを圧迫するシャムのアユタヤ朝の行動を抑えるために、1408(永楽6)年張原を派遣して厳重な警告を与えていた。 この張原の行動に鄭和の第2次遠征が連動して、シャムに圧力をかけていたのである。 それに屈したシャムは明の冊封体制に組み込まれ、永楽帝の南方戦略が成功したのです。

鄭和ー28-

1409年の夏に帰って来た鄭和は再び再出発を命じられて年末に第3次航海へと出発する。  第3次遠征には、1409(永楽7)年9月古里(カリカット)を目的地として、48隻27000人で出立している。 この遠征では、鄭和の本隊はジャワ、分遣隊はシャムに向かい、シャムのアユタヤ朝やジャワのマジャパイト朝から圧迫されていた、マラッカを冊封体制に組み込むことで保護することとなった。

そして、鄭和はマラッカに「官廠」を建設して、艦隊の集結地あるいは遠征の中継地とした。 これによりマラッカは東南アジアにおける有力な港市国家として発展することとなった。

鄭和は、古里(カリカット)への航海を急ぎ、立ち寄った錫蘭山(セイロン)において、朝貢の招諭に失敗する。 しかし、帰路のセイロン(ライガマ王国、現コーッテ)で現地の王が鄭和の船に積んである宝を強奪しようと攻撃してきたので鄭和は反撃し(明・錫蘭山国戦争、中: 明-锡兰山国戦争)、王アラカイスワラとその家族を虜にした。

航海記録には、「帰途、再びセイロンに寄ると、“王は”鄭和を誘い、その際に兵50000を発し、船隊を襲い、鄭和の帰路を断たんとした。 鄭和はこの謀計をさとり……自ら手兵2000(あるいは3000)を率いて、不意に王城を攻め、攻戦6日、国王を生け捕りにし」とある。 鄭和はセイロン王を中国まで連れ帰ったのである。

永楽帝はセイロン王の行為を許し、帰国をも許している。 その結果、 以降 友好関係が築かれる事に成った。 なお、この戦闘は7次の大遠征のなかで、唯一の本格的な戦闘であったとされる。

この第3次遠征の招諭の結果として、「古里(カリカット)・柯枝(コーチン)・蘇門答刺(スマトラ)・阿魯(アルー)・彭享(バハン)・急蘭丹(ケランタン)・南巫里(ランブリ)・加異勒(カヤール)・爪哇(ジャワ)の新村(グリッセ)の国々の使者がやって来た」という。 また、王の権威が失意下したセイロンでは、ライガマ王国からコーッテ王国へと政権が移った。

鄭和ー29-

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・・・・・・続く・・・・・・

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宦官・鄭和 / 聖地巡航 =3=

永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=

 ~聖地メッカへの巡礼者ハッジ~

YouTubu動画;海上霸主:鄭和下西洋 2/4》

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鄭和ー24-

◆◇鄭和の南海遠征◇◆

前節のように、当時明は中国大陸を完全に制覇し、隣接する国々も明にひれ伏していました。 永楽帝としては、艦隊を遠く東南アジア諸国まで派遣し明帝国の力を見せつけ、彼らを明に朝貢させようと考えたわけです。

古代から、中国の外交のやり方は「冊封」(さくほう)と呼ばれるシステムをとっていた。 これは、中国の皇帝が周辺国の君主を家臣(王)として認め、中国が必要とする兵力などを出す代わりに、自国が他国から攻められた場合は中国が援軍を送る軍事同盟を結ぶとともに、中国との間で貿易を行う制度だった。

中国は冊封した周辺国の内政には干渉せず、しかも財宝や中国産の絹製品、陶磁器など、当時の世界では最高級品とされた品々を贈った。 周辺国としては、中国皇帝の家臣になるという窮屈さはあったが、それを上回る物質的な恩恵を受けることができたのです。

ヨーロッパの大航海時代は道の土地の発見と香辛料を初めとする貿易のためでしたが、明の場合は朝貢を促すためだったのです。

この時代背景に 鄭和はこの期待に見事応え、計7回の航海で、東南アジアばかりか、インド・中近東、果ては東アフリカまでその航海を広げていきます。 今でも各地には鄭和の上陸を示す碑文などが残されているのですが・・・・・・。

馬三保、すなわち後の鄭和は、馬哈只の子として雲南ムスリム(イスラム教徒)として生まれた。 姓の「馬」は預言者ムハンマドの子孫であることを示し、名の「哈只(ハッジ)」はイスラム教聖地メッカへの巡礼者に与えられる尊称ハッジに由来する。

父および先祖は、チンギス・ハーン中央アジア遠征のときモンゴルに帰順し、の世祖クビライのとき雲南の開発に尽力した、色目人政治家サイイド・アジャッル(賽典赤)につながる。 鄭和がイスラム教徒の出身だったことは、のちに永楽帝をして鄭和を航海の長として使おうと考えた理由の一つだと考えられるのです。

朱元璋が明を建てると、元の影響下にあったこの地は討伐を受け、まだ少年だった鄭和は捕らえられて去勢され、宦官として当時王だった朱棣(のちの永楽帝)に献上された。

朱元璋の死後、永楽帝が帝位を奪取する靖難の変=前節参照=において馬三保は功績を挙げ、永楽帝より鄭の姓を下賜され、宦官の最高職である太監に任じられた。

鄭和は南海遠征を七度も行う。 その遠征で、朝貢を諸国に促すだけでなく、多くの発見物と財宝・高価な文物を中国に持ち帰りました。 また、ラクダ・ダチョウ・シマウマ・ライオン・ヒョウなど生き物も捕獲して持ち帰った。 その中でも最も永楽帝を喜ばせたのがキリンでした。

中国の言い伝えでは、皇帝が最高の治世を行ったときのみに現れる聖獣が麒麟(きりん)なのです。 発音が似ているため、鄭和はこれが麒麟だとしたわけです。

鄭和ー9-

鄭和は、1405年から33年の間に、七度の大航海の司令官を務めている。 「鄭和の西洋下り」は第1~3次(1405~07、1407~09、1409~11)がコジコーデ(カリカット)、 第4~7次(1413~15、1417~19、1421~22、1431~33)がホルムズを最終地としたが、別働隊はアフリカ東岸から紅海沿岸に進出した。

彼の率いる船団は宝船、西洋取宝船などとよばれた大型の商船(長さ150メートル、幅62メートル)六十数隻からなり、乗員も二万数千人に上った。 このほか第6次と第7次の間の1424年彼はパレンバンに出使している。

「鄭和の西洋下り」は中国史上最大の航海事業であったばかりでなく、世界史上にも例のないものであった。 その主たる目的は政府直営の海外貿易の促進にあり、中国国内はもちろん、相手国の社会や経済にも大きな影響を及ぼしたのです。

また、随行者の著作である『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』・『星槎(せいさ)勝覧』などにより、中国人の東南アジア方面に関する知識が深まり、華僑(かきょう)の進出の端緒となったことも見逃せない事実として歴史に印されている。

鄭和は朝貢を諸国に促すだけでなく、多くの発見物を中国に持ち帰った。 南方・西方の情報を持ち帰った。 しかし、鄭和・第三次遠征の以前 永楽帝の世界戦略にこの情報を活用しなかった。 永楽帝を悩ましていたのは北方のオイラト勢力であった。

モンゴル族のタタール部とオイラト部は、度々明との国境を越えて侵入していた。 これに対し永楽帝は断固たる態度で臨み、最初は武将の丘福に10万の兵を与えて征討に向かわせたが、この丘福が惨敗する。

永楽8年(1410年)に51歳と言う年齢でありながら永楽帝は 皇帝としては異例の北方親征を敢行、後に滅胡山(胡は古代中国における異民族の蔑称)と名づけるケルレン河畔での大勝を皮切りに5度に渡って行いモンゴル族を駆逐し、「五度沙漠に出で三たび慮庭をたがやす(五出三犂)」と称えられている。

北方騎馬遊牧民の制圧は鄭和・第三次遠征の時期なのです。 永楽帝は世界が明の権威を認めることを欲し、宦官鄭和に命じる大船団の南海派遣事業に情熱を傾注 その規模は拡大した。 上記のごとく、鄭和の大航海は7度行われ、アフリカ大陸東岸にまでに達した(7度目は孫の宣徳帝の代に行われた)。

この船団は明と交易することの利益を諸国に説いて回り、明に朝貢することを条件に中小諸国が交易にやって来るようになった。 しかし一方では ジンギスカーンの系列である中近東の雄“テームール”が元の旧領回復を目指すべく明王朝打倒を画策していた。

明朝とティムール朝はとも敵対したが、永楽3年(1405年のティムール死)後は和睦して友好関係を築き、永楽12年(1414年)または永楽13年(1415年)には鄭和がホルムズを訪れている。(※; 西域人物伝・ティムール ; 西域人物伝・ティムール ; https://thubokou.wordpress.com/2013/03/09/   6節参照)

さて 鄭和の遠征を俯瞰しよう・・・・・

鄭和ー10-

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サイイド・アジャッル・シャムスッディーン(Sayyid Ajall Shams al-Din, 1211年 – 1279年)は、モンゴル帝国)に仕えて中国の行政官を務めたムスリム(イスラム教徒)の官僚。 漢字表記は賽典赤。  ペルシア語資料では、サイイド・アジャッル・ブハーリー سيد اجلّ بخارى Sayyid Ajall Bukhārī の名で表れる。

預言者ムハンマドの後裔を称する名家の出身で、中央アジアの中心都市のひとつブハラ(現ウズベキスタン)に生まれ育った。 チンギス・ハーンの中央アジア遠征のとき投降してハーンの側近に仕え、本名のかわりに「高貴なサイイド(聖裔)」を意味するサイイド・アジャッルの通称で呼ばれて尊敬を受けた。

チンギスの死後、オゴデイの代に北中国の山西地方ダルガチ(行政官)を歴任し、次いで燕京(現在の北京)のジャルグチ(断事官)を務めた。 第4代モンケの代にはマフムード・ヤラワチを長官として北中国全土を管轄するいわゆる燕京等処行尚書省が設置されると、彼は北京周辺の行政の最高責任者である燕京路総管に充てられ、モンケの南宋遠征(南宋戦争)において兵站を担当した。

モンケの死後、弟のクビライが中国と内モンゴルを制して大ハーンを称すると、中国にいたサイイド・アジャッルもクビライの幕下に入り、燕京宣撫使に抜擢された。

1261年には宰相格の中書平章政事の肩書きを授けられ、1264年に南宋との最前線である陝西四川方面を管轄する行中書省が新設されたのにあわせてその平章政事に転出、中国西部の行政の最高責任者となり、長江の上流を抑えてクビライによる南宋の併合を後方から支援した。

鄭和ー25-

即位以前のクビライが大理国を征服(雲南・大理遠征)して以来、雲南地方の統治の整備と安定化が遅れていたが、1274年には手腕を買われてその統治を委ねられて雲南行省の平章政事を拝命した。

サイイド・アジャッルは雲南に駐留していたモンゴル軍の協力を取り付けて雲南の開発に力を尽くし、雲南から領外のインドシナ半島にかけて居住する様々な民族には恩恵を施してよく従わせたので、5年後の1279年に死去したときは大いに惜しまれたという。

サイイド・アジャッルがクビライのもとで中国西部の行政を担当した15年の間、彼の子息や一族たちも各地の行政長官を務め、徴税と開発に力を尽くした。 彼らの動向は同じ時期に首都の大都上都から江南にかけての中国中央部の財務長官であったアフマドの一族のそれと対応しており、財務に優れた色目人の官僚を積極的に起用したクビライの経済・行政政策の特性のあらわれと言える。

しかし、サイイド・アジャッルは行政官として清廉に振る舞い、地方の開発に尽くしたことから上下を問わず非常に敬愛されたのは、民衆や同僚から非常な恨みを買ったアフマドとまったく対照的である。

アフマドが1282年に暗殺された後、その一族は不正を弾劾されて失脚したが、サイイド・アジャッルの子孫はその後も元代を通じて中国西部の地方行政に大きな足跡を残した。

アフマドは後世に姦臣として名を残したが、サイイド・アジャッルは対照的に現在に至るまで非常に評価が高く、とくに雲南省の人々は雲南の開発者として非常に敬愛している。

雲南省には言語的・形質的に漢民族と同化したムスリム(回族)が現在も数多く住んでいるが、彼らの多くはサイイド・アジャッルの後裔を称し、代の大航海者鄭和もその一族である。

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鄭和ー20-

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・・・・・・続く・・・・・・

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