ティムールの系譜“ムガル帝国”(11)

“アルタン・ウルク/黄金の家”の正嗣が栄光

ムガル帝国11-1

ガンジス河西部域で勢力を拡大していた マラータ族は 指導者にシヴァージーを仰ぎ 1660年 マラータ王国を建設、ベンガル地方を支配した。 さらに デカン高原でもマラータ族の自立の動きが強まった。

18世紀前半にマラータ王国の宰相を中心として 王国の有力諸侯が連合してマラータ同盟を結成。 1752年には 一時的にデリーを占拠する。

当時のマラータ同盟の急成長を支えていたのは、ムガル政権の機構が 地方の末端まで行政と軍が分離・解消していたこと、 更に 単一の徴税請負制度が確立していたことが挙げられます。

また、マラータ同盟は 常備軍を整備し、ヨーロッパ出身の軍事教官を雇用していたことが 戦略的に大きな背景としてあったのです。

特に 英国東印度会社はムガル帝国と対立する諸王国を抱き込み、印度亜大陸を侵略する。

ムガル帝国11-2

シャー・アラームギール2世(1699年-1759年);(在位:1754年-1759年)が、

父は第8代皇帝ジャーハーンダール・シャー。 先帝アフマド・シャーが サイイド家主導のサフダル・ジャングの政変で失脚を余儀なくされた。 後 病気を理由に引退したため、その後を受けて 1754年に即位した。

軍務長官であったガーズィー・ウッディーンが宰相になり、アラームギール2世を擁立したのです。 サイイド家の権勢は 政変劇の失敗とガーズィー・ウッディーンの台頭で この頃にはサイイド家の専横も既に終わりを告げ、宮廷内は一応安定のように思われた。

ところが、地方勢力の独立や戦争に加え、バーディシャー(正統の君主)には太刀打ちできない さらなる強敵が西洋から現れてきた。

インドの綿花など優れた一次産品が列強の注目を引き、17世紀以降列強各国は「東インド会社」を設置、インド各地に商館をつくり、商品の取引が行われていた。

一方、18世紀の欧州では、主権国家体制の端緒としての君主独裁政治が次第に破壊され ブルジョワ革命が進み、人権をもつ市民という意識が西洋人の間で高まっていた。

この間、産業面でも生産技術や生産体系が発達し、資本主義が空前の発展を遂げた。

ところが、その進展段階で工場用地や住居用地などの土地不足が問題なり、外国へ進出して自国の市場を広げようと、資本主義は新たに帝国主義という植民地獲得競争の様相を呈し 印度亜大陸に列強が押し寄せて来た。

欧州の列強諸国は インドや東南アジアに植民地を確保しようと相互に争った。 インドでは、フランスとイギリスの勢力が激しい戦争を繰り広げた。

1757年、カーナティック戦争の最中にベンガルでブラッシーの戦いが勃発した。

《 カーナティック戦争; 18世紀に英国領マドラスと仏国領ボンディシュリとの間で3次にわたって繰り広げられた戦争。
ムガル朝インドにおいて、南インド東海岸の貿易拠点や荷物の集散地をめぐって争われ、最終的(1763年)にはイギリス側の勝利に終わり、フランスは撤退する 》

イギリスは インドへ本格的に進出していた。 その先兵になった東インド会社はボンベイやマドラス、カルカッタに商館を設置、要塞化しながらインド支配の拡大を図った。 フランスは 早い時期に カルカッタの近くにシャンデルナゴルに要塞を建設し、18世紀初めにはイギリス勢力を圧倒していた。

ガンジス川下流域のベンガル地方は、ムガル帝国時代、絹や木綿の産地であり、藍(インディゴ)やアヘンなどの集散地でもあった。

ムガル帝国はこの地にナーワブ(太守)を置いて支配したが、ヒンドゥー諸勢力の抵抗で分裂状態となっており 各地の太守は実質的に独立勢力化し フランスと友好的な交易を行っていた。

ベンガル太守は イギリス東インド会社のカルカッタ要塞化推進を 問題視し 要塞建設を機に軍事衝突事件を引き起こした。

1757年6月23日、イギリス軍人クライヴは、東インド会社の軍隊を率いて フランス勢力と組んだベンガル太守のスィーラジュ・アッダウラとカルカッタの北方ブラッシーで交戦する。

ムガル帝国11-3

クライブの率いたイギリス東インド会社軍は僅かに欧州人兵士950人・セポイ(インド人傭兵)2,100人と9門の砲・100人の砲兵を有していたのみであった。

これに対してフランス東インド会社と同盟していたベンガル太守スィーラジュ・アッダウラは16倍(50,000人)もの歩・騎兵力と40人のフランス兵が操作する重砲を含む53門の砲を装備して戦いに臨んでいた。

しかし、ベンガル太守側兵力の大部分である35,000人の歩兵と15,000人の騎兵を提供していた前ベンガル太守のミール・ジャファールはイギリス東インド会社に内通しており、ベンガル太守に忠実な部隊は5,000人に過ぎなかったため、実際の戦闘はほぼ互角の兵力で戦われた。

《 蛇足; 「ミール・ジャファール」の名前は、現代の南アジア一帯で“裏切り者”の代名詞として広く使われています 》

1757年6月23日、ひどく暑くじめじめした日の07:00頃に ベンガル太守側の砲撃で開始された戦闘は、昼になって大雨に見舞われて小休止し、イギリス東インド会社軍は素早く装備を雨から防いで雨が上がるまで待機した。

しかし ベンガル太守軍の兵士達は日頃の訓練不足と、情況の変化に柔軟に対応できないヒンドゥー教徒特有の性質から 豪雨の中に火薬樽や銃・砲を放置し、水浸しとなった火薬は着火しなくなってしまった。

雨が止んだ14:00頃から反撃を開始したイギリス東インド会社軍を前にして、ミール・ジャファールの大部隊は何もせずに傍観し、スィーラジュ・アッダウラの部隊は火薬が水浸しで着火せず火器が使用できない状態のまま イギリス東インド会社軍に一方的に攻撃されて惨敗した。

英国は、新しいベンガル太守を任命する。 が、この政権は 徐々にイギリスの傀儡政権と成って行った。

後年の1764年10月、前年ベンガル太守の座を追われたミール・ジャファールとアフド太守シュジャー・ウッダウラ、ムガル皇帝シャー・アーラム2世が イギリス東インド会社軍とブクサールで戦い、イギリスが一方的な勝利を収めています。

イギリス東インド会社が、フランス・ベンガル太守連合軍を破ったことで、イギリスのインド支配は本格化します。 1765年、イギリス東インド会社は ベンガル、オリッサ、ビハールでの租税徴収権を獲得、これを次第に拡大していった。

ムガル帝国にはこれらの争いにつけいる隙が無かったということは、帝国にかつての空前の繁栄は戻らないということを 明確に示すものであった。

当時のバーディシャー(正統の君主)であったムガル帝国第14代皇帝・シャー・アラームギール2世は 1759年11月29日に宰相ガーズィー・ウッディーンによって暗殺された。

60歳没。 四年余月の在位期間中 ムガル帝国第14代皇帝としての職責を果たす事無く 推戴した幕臣に暗殺されたのです。

玉座はシャー・アーラム2世に継がれたが、バーディシャーの称号は完全に名ばかりのものとなった。

以来、帝国の運命は(主にイギリスの)産業革命に翻弄されることになって行く。
ムガル帝国11-4

シャー・アーラム2世(1728年6月15日 – 1806年11月10日); ムガル帝国・第15代皇帝(在位:1759年12月25日-1806年11月10日)

父は第14代皇帝のアーラムギール2世 長男です。 アーラムギール2世の正嗣子の中では年長、最も有能な皇子だと評価が高かった。

事実 皇子は宗教や学問に精通し、アラビヤ語やペルシャ語、トルコ語なども自由に話せるバイリンガルという。

父のアーラムギール2世が軍務長官のガーズィー・ウッディーンによって擁立されると、父から皇太子に指名された。

しかし 自らの力で宰相の座を勝ち取ったガーズィー・ウッディーンガーズィー・ウッディーンはこの有能なシャー・アーラム2世が跡継ぎになることに反対した。

デリーにあるシャー・アーラム2世の屋敷を包囲して殺害に及ぼうとした。 しかし シャー・アーラム2世はこの暗殺事件を事前に知り、デリーから逃亡した。

この危機を乗り切ったシャー・アーラム2世は ビハールやベンガル地方などの地で反宰相派と連絡を取り合いながら、機会をうかがっている。

1759年11月29日、父・第14代皇帝アーラムギール2世が ガーズィー・ウッディーンによって暗殺されると、ビハールとベンガルの軍を率いて 挙兵し 12月に皇帝即位を宣言したのです。

宰相のガーズィー・ウッディーンは 挙兵し 対立したアーラムギール2世軍を殲滅しようと軍を出しますが、その8ヵ月後に 破れてしまった。 シャー・アーラム2世はデリー城に入城 意欲的に政権を運用する。

当時 ムガール帝国の政権は 1752年には弱体化したムガル帝国の首都デリーに入城し 一時実権を握ったマラータ同盟が 宰相の派閥と対立していた。 シャー・アーラム2世は宰相派閥を粛清・追放した。

しかし マラータ同盟(ベンガル・デカン地方の諸王国同盟)は 成立当初からの分権的な政治体制が災いして 同盟内部の抗争が激しかった。

シャー・アーラム2世ムガル帝国・第15代皇帝は ムガル帝国の往時の勢いを取り戻すことに奔走し、積極的な対外進出を行なっていった。

ムガル帝国・第15代皇帝は1761年から1764年にかけて何度も遠征を行なっています。 だがしかし 1761年のバニーバットの戦いではアフマド・アスダーリー(シーク教国と対戦)に大敗し、1764年のブクサールの戦い(イギリス東インド会社と対戦)でも大敗してしまった。

これらの大敗は ムガル帝国の軍事力弱体化を決定的にし、イギリスがインド内における勢力拡大を容易にする一因となった。 他方 政権中枢のマラータ同盟内部の指導者達にも動揺が起きた。

政権は内部分裂を起こしかねない状態に陥り、1765年8月16日に シャー・アーラム2世はイギリスとアラーハーバード条約を結ばざるを得なくなった。

これはイギリススにビハールやベンガル、オリッサなどを割譲する代わりに、イギリスはシャー・アーラム2世皇帝に対して年間260万ルピーを与えるというものでした。 すなわち 皇帝がイギリスの年金受給者になるというものです。

1768年、ムガル帝国の有力な重臣だったナジーブ・ハーンが 政権抗争に敗れ、皇宮から追放されると皇宮は混乱し、皇太后からシャー・アーラム2世に対して援助を求めるようになる。

シャー・アーラム2世は イギリスに助力を求めたが拒否されたため、マラータ同盟と協定を結んで 1772年1月までに混乱を抑えています。

「貴族や家臣の裏切りによって、こうした混乱が起こり、誰もがそれぞれの土地で王として名乗りをあげて、互いに争っている。 強者が弱者を支配し、欺瞞と策略に満ちたこの時代にあって、余がその務めや忠誠心を信頼できる者は、イギリスの長官以外は誰1人いない」

これは 1768年に シャー・アーラム2世が東印度会社に宛てた書簡にある文章です。

 

ムガル帝国11-5

 1784年、イギリスではインド法が成立し、インドは英国東印度会社の支配からイギリス政府の任命したインド総督による直接支配に移行した。

1803年、イギリス軍の総司令官であるジュラルド・レイクはデリーでマラータ同盟軍(ムガル帝国を支持するインド諸侯連合)を破り、ムガル帝国は以後、イギリス政府の保護下に置かれることになった。

シャー・アーラム2世は1806年11月10日、79歳でその生涯を閉じた。 跡を子のアクバル・シャー2世が継いだ。

ムガル帝国・第15代皇帝シャー・アーラム2世の埋葬地はバフティアル・カーキ聖廟の近くにあります。

悲惨な シャー・アーラム2世皇帝の晩年を今一歩 次回にお話ししましょう。

_____ 続く _____

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