アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=
ブルガン & ダギ
1294年に老帝クビライが没すると、ハーン(皇帝)の未亡人が主催する皇帝後継者・次期大ハーンを選出するためのクリルタイ(王族・貴族集会)をココジン后妃が開いた。
このクリルタイでは早世したダルマバラを除く、カラマとテルムの兄弟 チンキム皇太子とココジンの間で生まれた二人が候補となった。
クリルタイは上都に召集された。 テルムは既に帝位継承者として宣言されていたが、長兄カマラを推す声もあった。
諸王侯の間で一時紛糾した。 その際、先帝・クビライ・ハーンより 一身上の尊敬を受け、総司令官の高位にあり、来会者の中で最も勢力のあったバヤン将軍が剣を握って立ち、
大音声で参加者諸侯を恫喝した。
「先帝が指名していた皇子以外のいかなる人をも即位させるわけにはいかぬ」 と語調を強めて宣言し、論争を終止させた。
バヤンとその影響下の大兵団を後ろ盾とした末弟・テムルがモンゴル帝国第六代皇帝(大元帝国第二代皇帝)・大ハーンに即位した。
ココジン后妃は、バヤンら重臣らと協力して、祖父・クビライが生前に皇太子の称号を与えていた弟のテルムを推し、即位させることができた。
テルムが大ハーンになると、その母・ココジン后妃は皇太后となり、皇太子府は隆福宮と改称された。
ココジン皇太后は隆福宮の勢力を背景にテルム皇帝の後見者として活躍し、1300年に没している。
その後、ココジン皇太后の領した隆福宮は、テルムの皇后でバヤウト部族出身のブルガンと、ダルマバラの未亡人で最有力部族であるコンギラト部出身のダギに相続の可能性があったが、
1307年のテルム皇帝死後、権力闘争の後 ダギ后妃の領有に帰します。 大元朝を支える有力部族の政権抗争です。
王位継承からひとたび遠のいたダギ后妃の皇子がモンゴル帝国を継承していく。
その結果、後年には 隆福宮はダギ后妃の興聖宮に併せられ、ダギ率いるコンギラト派の重臣たちの牙城として、
ココジン皇太后の遺産は ダギ后妃の子 武宗・カイシャ、仁宗・アユルバルワダから英宗・シデバララの時代に絶大な権力を保ち続けることになる。
ブルガン( ?-1307年)は、モンゴル帝国(大元)の大ハーン、成宗・テルム・ハーンの第二皇后であった。 バヤウト部族の出身であり、この部族は弱小でチンギス家との婚姻関係はない。
当時の元の宮廷では チンギス・カーンの第一夫人ボルテ、クビライ・ハーンの第一夫人チャブイを出したコンギラト部族が最有力の姻族であった。
しかし、1299年にテルム皇帝の第一夫人・シリアンダが亡くなったため、コンギラトの出身ではないブルガン皇后が第一夫人になり、
更にはテルム皇帝の後見してきたコンギラト氏出身・皇太后ココジンが1300年に没した後は、ブルガン皇后が宮廷の第一実力者となった。
テルム・ハーン・成宗は病弱で、晩年はほとんど政務が取れない状況になっていたため、皇后ブルガン皇后が政権を掌握し、夫・テルムにかわって政務をとった。
1307年に皇帝・テルムが他界 後、モンゴルの伝統に従って皇后ブルガンが監国し、政務に就くと共に後継大ハーンの選出にあたった。
しかし、第一夫人・シリンダリの生んだテルム・ハーンの皇子テシュは早世し、テルム・ハーンには他に正嗣皇子がなく、時局が混乱した。
当時、テルム・ハーンの近親で皇帝(ハーン)に適任な皇子には、テルム・ハーンのすぐ上の兄・ダリマバラの遺児カイシャとアユルバルワダの兄弟がいた。
カイシャとアユルバルワダの生母は、コンギラト氏のダリ未亡人であり、この兄弟に 皇帝への戴冠を許せば、
再び コンギラト部族が政権を握り、ブルガンの出身部族や推戴する諸部族が実権を失うことが明らかであった。
また、義理の兄・ダルマバラの死後、夫・テルム・ハーンとダギ未亡人の再婚が取り沙汰されたことがあり、ブルガン皇后は、個人的な嫉妬心からも ダギ義姉を敵視していた。
ブルガン皇后は あらかじめ 甥のカイシャをモンゴル高原に、その弟・アユルバルワダとその母ダギを河南に追いやって首都の大都から遠ざけていた。
ある折、夫・テルム・ハーンの従兄弟にあたる安西王・アナンダが帝都・大都に入朝しようとしていたのに目をつけ、アナンダに接近して即位を持ちかけた。
この策動が成功すれば ますます政権から遠ざけられることを恐れたコンギラト派の重臣は、ひそかに大都に近い河南からアユルバワダ皇子を呼び寄せ、
宮中でクーデターを起こさせて、ブルガン皇后とアナンダを捕獲した。
ブルガン皇后は私通の罪で東安州に追放された。
その後、クーデターを実行したアユルバワダ皇子の兄・カイシャが 事件を知り、自らの指揮する大軍を率いて 首都上都に赴き、弟アユルバワダに迫った。
アユルバワダ皇子は、兄・カイシャに屈服させられ 皇帝位を譲位している。 弟に迎えいれられて譲位を受けカイシャ皇子は、6月21日に上都にて第七代大ハーン(モンゴル帝国皇帝/第三代大元帝国皇帝)に即位した。
カイシャ皇帝はブルガン皇后の処刑を命令、遺恨を断つ為に 旧要人を粛清、コンギラト氏体制を復旧している。
カマラ( 1263年 – 1302年2月8日 廟号は顕宗)は、
世祖クビライの皇太子チンギムと妻ココジン(コンギラト氏族)が授かった3人の嫡子のうちの長男で、弟にダルマバラとイェスン・テルムがいた。
クビライ・ハーンの嫡子孫であるカラマは、幼い頃から祖母である皇后チャヒブイによって育てられ、長ずると祖父クビライに侍したが、弁舌が苦手で無口であり、あまり聡明に見える性質ではなかった。
祖父クビライ・ハーンは成人したカラマに、オゴデイ家のカイドゥが西部の諸王を束ね侵略する 戦乱激しいモンゴル高原での駐留を命ぜられ進駐したが、1289年にカイドゥに手痛い敗戦を喫した。
しかし、1290年には梁王に封ぜられ、雲南への出鎮を命ぜられた後 翌年に晋王に改封され、高原に移鎮した。
≪ 晋王の封は数年前に北平王・ノムガン(クビライの四男)が死んで以来、無主となっていたチンギス・ハーンの四大オルドと、
その配下にある高原の遊牧軍団を領する重職であり、その相続はチンギス・ハーンの遺産を受け継ぐと共に、蒙古人の本土である北方における大ハーン(皇帝)の副王に就任したことを意味する ≫
1294年に祖父・クビライ皇帝が死ぬと、上都で開かれたクリルタイで、先に祖父から皇太子の印綬を与えられていた弟のテルムと どちらが後継者にふさわしいか議論された。
しかし、このクリルタイでは中央政府の軍権を握る知枢密院事・バヤン将軍がテルムの支持を表明し、他の将軍たちや兄弟の母・ココジン皇后もこれに賛成したので、カマラはテルムに皇帝位を譲った。
母・ココジンは、「誰であれ“モンゴルにとって重要な掟である”チンギス・ハーンの訓言を最もよく知っている者が大ハーンに即位すべきである」という祖父・クビライ・ハーンの遺言を持ち出し、
兄弟に訓言を知っているかを問うた。 弟・テルムは聡明で弁舌と記憶力に優れす、多くの訓言を雄弁に答えたが、弁舌の苦手なカルマは口篭もって 上手に答えることが出来なかった。
安集した王族・貴族・将軍たちは一致してテルムが大ハーンにふさわしいと認め、テルムを推戴したと言う。
1300年、カイドゥが中央アジアの諸王の全軍を率いて最後の大攻勢をかけてくると、カマラの高原駐留軍は打ち破られて苦境に陥った。
しかし、テルム・カーンによって派遣されてきたダルマバラの遺児カイシャン率いる皇帝直轄のキプチャク親衛軍や安西王・アナンダの中国西部駐留軍団の増援を受けて、
元軍は翌年にはカイドゥの軍を撃退し、カイドゥを戦傷にて退却させた。 カイドゥはその後 死去している。
カマラはこの戦争からまもなく、1302年初頭に亡くなった。
一連の戦争における不手際、晋王・カマラの急死、年若い弟・イェスン・テルムの即位と前後して、晋王家の所領は大幅に削減されてしまい、1323年に弟・テルムが皇帝に即位するまで目立った活躍はできないまま、
1328年に 第六代皇帝・テルムの子アリギバが倒されてトク・テルムが即位すると、晋王家のハーンたちは傍系の簒奪者とみなされ、皇帝の祭祀から外されてしまい、カマラの血脈は凋落した。
ダルマバラ (1264年 – 1292年 廟号は順宗)は、父・チンキム皇太子の死後には 有力な後継者候補として将来を嘱望されたが、早世した。
ダルマバラは幼い頃から常にチンキム皇太子のもとに留められて膝下に育てられた。
子供のうちに名門コンギラト部族出身のダギを妻に迎え入れるなど、皇孫として恵まれた環境に育っている。
クビライの後継者の最有力候補として権勢を誇った父が 1286年1月5日に没すると、その子である皇孫たちが後継者として重要な候補となった。
ダルマバラは皇孫たちの中でも最も祖父に愛され、しばしば宮廷に呼ばれたので、後継者候補ラとして最有力になっていた。
1291年、ダルマバラはクビライ皇帝の命令を受け、所領である河南の懐州に赴いたが、旅程上で病を発し、大都に呼び戻された。
翌年初頭、クビライ・ハーンの移動宮廷(オルド)が夏の都上都に向かって季節移動を始めた後も病気の治療のため大都に留まったが、その夏に 病死してしまった。
親王・ダルマバラは妃ダギとの間にカイシャン、アツルバルワダの2皇子を残していた。
後に、母・ダギ后妃が率先して行なったコンギラト氏族の策謀が功を奏して、1307年に カイシャンが即位する。 彼は亡父ダルマバラに順宗昭聖衍孝皇帝と諡され、皇帝に准ずる祭祀を受けている。
テルム/イェスン・テルム(1265年10月15日-1307年2月10日 廟号は成宗)には飲酒と荒淫の悪癖があった。
モンゴル帝国第六代皇帝であり、大元イルス(大元帝国)の君主としては第二代カアン(在位1294年5月10日-1307年2月10日)。 尊号はオルジェイトゥ・カアン。
世祖クビライの次男チンキム皇太子の三男、正嗣嫡子の末子である。 祖父のクビライ皇帝に寵愛されていた次兄ダルマバラが
父・チンキムに相次いで早世したため、クビライ皇帝の晩年にその後継者の最有力候補となった。
1293年、モンゴル高原に駐留して中央アジアの クビライ打倒に執着するカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンが、クビライ皇帝に召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられた。
翌年 祖父・クビライ皇帝が没すると イェスン・テルムの母・ココジン皇后は監国として、帝都・上都でクリルタイ(王族・貴族集会)を開催、後継者が審議された。
監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤン将軍は 一致して先帝・クビライ皇帝によって皇太子に指名されていたテルム/イェスン・テルムを推し、
テルムが長兄カマラを抑えてモンゴル皇帝に即位した。
テルムの政権では、オゴデイ皇帝からクビライ皇帝まで四代にわたって中国の行政に活躍したイスラム教徒(ムスリム)の官僚・サイイド・アジャッルの孫・バヤン・アジャッルが
中書平章政事に任命され、中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤンを首席とする財務部局を構成して クビタイ統治の財政制度を踏襲した。 彼は元朝を再興した財務官僚と言われる。
また、雲南省には漢民族と同化したムスリム(回族)が現在も数多く住み、彼らの多くはサイイド・アジャッルの後裔を称し、明代の大航海者・鄭和もその一族です。
テルム皇帝の後ろ盾であった将軍・バヤンはイェスン・テルムの即位後まもなくに亡くなったが、父・チムキムの莫大な遺産を管理する母・ココジンがテルム皇帝をよく支えた。
_____ 続く _____
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