成吉思汗・トルイ一党の覇権 (7)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

ブルガン & ダギ

トルイー7-1

1294年に老帝クビライが没すると、ハーン(皇帝)の未亡人が主催する皇帝後継者・次期大ハーンを選出するためのクリルタイ(王族・貴族集会)をココジン后妃が開いた。

このクリルタイでは早世したダルマバラを除く、カラマテルムの兄弟 チンキム皇太子とココジンの間で生まれた二人が候補となった。

クリルタイは上都に召集された。 テルムは既に帝位継承者として宣言されていたが、長兄カマラを推す声もあった。

諸王侯の間で一時紛糾した。 その際、先帝・クビライ・ハーンより 一身上の尊敬を受け、総司令官の高位にあり、来会者の中で最も勢力のあったバヤン将軍が剣を握って立ち、

大音声で参加者諸侯を恫喝した。

「先帝が指名していた皇子以外のいかなる人をも即位させるわけにはいかぬ」 と語調を強めて宣言し、論争を終止させた。

バヤンとその影響下の大兵団を後ろ盾とした末弟・テムルがモンゴル帝国第六代皇帝(大元帝国第二代皇帝)・大ハーンに即位した。

ココジン后妃は、バヤンら重臣らと協力して、祖父・クビライが生前に皇太子の称号を与えていた弟のテルムを推し、即位させることができた。

テルムが大ハーンになると、その母・ココジン后妃は皇太后となり、皇太子府は隆福宮と改称された。

ココジン皇太后は隆福宮の勢力を背景にテルム皇帝の後見者として活躍し、1300年に没している。

その後、ココジン皇太后の領した隆福宮は、テルムの皇后でバヤウト部族出身のブルガンと、ダルマバラの未亡人で最有力部族であるコンギラト部出身のダギに相続の可能性があったが、

1307年のテルム皇帝死後、権力闘争の後 ダギ后妃の領有に帰します。 大元朝を支える有力部族の政権抗争です。

王位継承からひとたび遠のいたダギ后妃の皇子がモンゴル帝国を継承していく。

その結果、後年には 隆福宮はダギ后妃の興聖宮に併せられ、ダギ率いるコンギラト派の重臣たちの牙城として、

ココジン皇太后の遺産は ダギ后妃の子 武宗・カイシャ、仁宗・アユルバルワダから英宗・シデバララの時代に絶大な権力を保ち続けることになる。

トルイー5-1

ブルガン( ?-1307年)は、モンゴル帝国(大元)の大ハーン、成宗・テルム・ハーンの第二皇后であった。 バヤウト部族の出身であり、この部族は弱小でチンギス家との婚姻関係はない。

当時の元の宮廷では チンギス・カーンの第一夫人ボルテ、クビライ・ハーンの第一夫人チャブイを出したコンギラト部族が最有力の姻族であった。

しかし、1299年にテルム皇帝の第一夫人・シリアンダが亡くなったため、コンギラトの出身ではないブルガン皇后が第一夫人になり、

更にはテルム皇帝の後見してきたコンギラト氏出身・皇太后ココジンが1300年に没した後は、ブルガン皇后が宮廷の第一実力者となった。

テルム・ハーン・成宗は病弱で、晩年はほとんど政務が取れない状況になっていたため、皇后ブルガン皇后が政権を掌握し、夫・テルムにかわって政務をとった。

1307年に皇帝・テルムが他界 後、モンゴルの伝統に従って皇后ブルガンが監国し、政務に就くと共に後継大ハーンの選出にあたった。

しかし、第一夫人・シリンダリの生んだテルム・ハーンの皇子テシュは早世し、テルム・ハーンには他に正嗣皇子がなく、時局が混乱した。

当時、テルム・ハーンの近親で皇帝(ハーン)に適任な皇子には、テルム・ハーンのすぐ上の兄・ダリマバラの遺児カイシャとアユルバルワダの兄弟がいた。

カイシャとアユルバルワダの生母は、コンギラト氏のダリ未亡人であり、この兄弟に 皇帝への戴冠を許せば、

再び コンギラト部族が政権を握り、ブルガンの出身部族や推戴する諸部族が実権を失うことが明らかであった。

また、義理の兄・ダルマバラの死後、夫・テルム・ハーンとダギ未亡人の再婚が取り沙汰されたことがあり、ブルガン皇后は、個人的な嫉妬心からも ダギ義姉を敵視していた。

ブルガン皇后は あらかじめ 甥のカイシャをモンゴル高原に、その弟・アユルバルワダとその母ダギを河南に追いやって首都の大都から遠ざけていた。

ある折、夫・テルム・ハーンの従兄弟にあたる安西王・アナンダが帝都・大都に入朝しようとしていたのに目をつけ、アナンダに接近して即位を持ちかけた。

この策動が成功すれば ますます政権から遠ざけられることを恐れたコンギラト派の重臣は、ひそかに大都に近い河南からアユルバワダ皇子を呼び寄せ、

宮中でクーデターを起こさせて、ブルガン皇后とアナンダを捕獲した。

ブルガン皇后は私通の罪で東安州に追放された。

その後、クーデターを実行したアユルバワダ皇子の兄・カイシャが 事件を知り、自らの指揮する大軍を率いて 首都上都に赴き、弟アユルバワダに迫った。

アユルバワダ皇子は、兄・カイシャに屈服させられ 皇帝位を譲位している。 弟に迎えいれられて譲位を受けカイシャ皇子は、6月21日に上都にて第七代大ハーン(モンゴル帝国皇帝/第三代大元帝国皇帝)に即位した。

カイシャ皇帝はブルガン皇后の処刑を命令、遺恨を断つ為に 旧要人を粛清、コンギラト氏体制を復旧している。

トルイー7-2

カマラ( 1263年 – 1302年2月8日 廟号は顕宗)は、

世祖クビライの皇太子チンギムと妻ココジン(コンギラト氏族)が授かった3人の嫡子のうちの長男で、弟にダルマバラとイェスン・テルムがいた。

クビライ・ハーンの嫡子孫であるカラマは、幼い頃から祖母である皇后チャヒブイによって育てられ、長ずると祖父クビライに侍したが、弁舌が苦手で無口であり、あまり聡明に見える性質ではなかった。

祖父クビライ・ハーンは成人したカラマに、オゴデイ家のカイドゥが西部の諸王を束ね侵略する 戦乱激しいモンゴル高原での駐留を命ぜられ進駐したが、1289年にカイドゥに手痛い敗戦を喫した。

しかし、1290年には梁王に封ぜられ、雲南への出鎮を命ぜられた後 翌年に晋王に改封され、高原に移鎮した。

≪ 晋王の封は数年前に北平王・ノムガン(クビライの四男)が死んで以来、無主となっていたチンギス・ハーンの四大オルドと、

その配下にある高原の遊牧軍団を領する重職であり、その相続はチンギス・ハーンの遺産を受け継ぐと共に、蒙古人の本土である北方における大ハーン(皇帝)の副王に就任したことを意味する ≫

1294年に祖父・クビライ皇帝が死ぬと、上都で開かれたクリルタイで、先に祖父から皇太子の印綬を与えられていた弟のテルムと どちらが後継者にふさわしいか議論された。

しかし、このクリルタイでは中央政府の軍権を握る知枢密院事・バヤン将軍がテルムの支持を表明し、他の将軍たちや兄弟の母・ココジン皇后もこれに賛成したので、カマラはテルムに皇帝位を譲った。

母・ココジンは、「誰であれ“モンゴルにとって重要な掟である”チンギス・ハーンの訓言を最もよく知っている者が大ハーンに即位すべきである」という祖父・クビライ・ハーンの遺言を持ち出し、

兄弟に訓言を知っているかを問うた。 弟・テルムは聡明で弁舌と記憶力に優れす、多くの訓言を雄弁に答えたが、弁舌の苦手なカルマは口篭もって 上手に答えることが出来なかった。

安集した王族・貴族・将軍たちは一致してテルムが大ハーンにふさわしいと認め、テルムを推戴したと言う。

1300年、カイドゥが中央アジアの諸王の全軍を率いて最後の大攻勢をかけてくると、カマラの高原駐留軍は打ち破られて苦境に陥った。

しかし、テルム・カーンによって派遣されてきたダルマバラの遺児カイシャン率いる皇帝直轄のキプチャク親衛軍や安西王・アナンダの中国西部駐留軍団の増援を受けて、

元軍は翌年にはカイドゥの軍を撃退し、カイドゥを戦傷にて退却させた。 カイドゥはその後 死去している。

カマラはこの戦争からまもなく、1302年初頭に亡くなった。

一連の戦争における不手際、晋王・カマラの急死、年若い弟・イェスン・テルムの即位と前後して、晋王家の所領は大幅に削減されてしまい、1323年に弟・テルムが皇帝に即位するまで目立った活躍はできないまま、

1328年に 第六代皇帝・テルムの子アリギバが倒されてトク・テルムが即位すると、晋王家のハーンたちは傍系の簒奪者とみなされ、皇帝の祭祀から外されてしまい、カマラの血脈は凋落した。

ジュチ一党5-7

ダルマバラ (1264年 – 1292年 廟号は順宗)は、父・チンキム皇太子の死後には 有力な後継者候補として将来を嘱望されたが、早世した。

ダルマバラは幼い頃から常にチンキム皇太子のもとに留められて膝下に育てられた。

子供のうちに名門コンギラト部族出身のダギを妻に迎え入れるなど、皇孫として恵まれた環境に育っている。

クビライの後継者の最有力候補として権勢を誇った父が 1286年1月5日に没すると、その子である皇孫たちが後継者として重要な候補となった。

ダルマバラは皇孫たちの中でも最も祖父に愛され、しばしば宮廷に呼ばれたので、後継者候補ラとして最有力になっていた。

1291年、ダルマバラはクビライ皇帝の命令を受け、所領である河南の懐州に赴いたが、旅程上で病を発し、大都に呼び戻された。

翌年初頭、クビライ・ハーンの移動宮廷(オルド)が夏の都上都に向かって季節移動を始めた後も病気の治療のため大都に留まったが、その夏に 病死してしまった。

親王・ダルマバラは妃ダギとの間にカイシャン、アツルバルワダの2皇子を残していた。

後に、母・ダギ后妃が率先して行なったコンギラト氏族の策謀が功を奏して、1307年に カイシャンが即位する。 彼は亡父ダルマバラに順宗昭聖衍孝皇帝と諡され、皇帝に准ずる祭祀を受けている。

トルイー7-3

テルム/イェスン・テルム(1265年10月15日-1307年2月10日 廟号は成宗)には飲酒と荒淫の悪癖があった。

モンゴル帝国第六代皇帝であり、大元イルス(大元帝国)の君主としては第二代カアン(在位1294年5月10日-1307年2月10日)。 尊号はオルジェイトゥ・カアン。

世祖クビライの次男チンキム皇太子の三男、正嗣嫡子の末子である。 祖父のクビライ皇帝に寵愛されていた次兄ダルマバラが

父・チンキムに相次いで早世したため、クビライ皇帝の晩年にその後継者の最有力候補となった。

1293年、モンゴル高原に駐留して中央アジアの クビライ打倒に執着するカイドゥの侵攻に備えていた将軍バヤンが、クビライ皇帝に召還されると、代わりにモンゴル高原駐留軍の司令官に任命され、皇太子の印璽を授けられた。

翌年 祖父・クビライ皇帝が没すると イェスン・テルムの母・ココジン皇后は監国として、帝都・上都でクリルタイ(王族・貴族集会)を開催、後継者が審議された。

監国として後継者選定を主導する母ココジンや、知枢密院事として軍事権を掌握していたバヤン将軍は 一致して先帝・クビライ皇帝によって皇太子に指名されていたテルム/イェスン・テルムを推し、

テルムが長兄カマラを抑えてモンゴル皇帝に即位した。

トルイー7-4

テルムの政権では、オゴデイ皇帝からクビライ皇帝まで四代にわたって中国の行政に活躍したイスラム教徒(ムスリム)の官僚・サイイド・アジャッルの孫・バヤン・アジャッルが

中書平章政事に任命され、中書省に集められたムスリム財務官僚たちがバヤンを首席とする財務部局を構成して クビタイ統治の財政制度を踏襲した。 彼は元朝を再興した財務官僚と言われる。

また、雲南省には漢民族と同化したムスリム(回族)が現在も数多く住み、彼らの多くはサイイド・アジャッルの後裔を称し、明代の大航海者・鄭和もその一族です。

テルム皇帝の後ろ盾であった将軍・バヤンはイェスン・テルムの即位後まもなくに亡くなったが、父・チムキムの莫大な遺産を管理する母・ココジンがテルム皇帝をよく支えた。

チャガタイー3-2-1

_____ 続く _____

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成吉思汗・トルイ一党の覇権 (6)

アルタン・ウルク/黄金の家・トルイ家” =女性達が継承した栄光=

バヤウチン

Weminuche Sunset

皇帝の晩年と取巻く諸星

クビライの政権が長期化すると、行政機関・中書省と軍政機関・枢密院を支配して中央政府の実権を握る燕王・チンキムの権勢が増し、1273年に皇太子に冊立された。

一方、アフマドも南宋の征服を経て華北・江南の各地で活動する財務官僚に自身の党派に属する者を配置したので、その権力は絶大となった。

アフマドはチャブイ皇后の寵愛を背景し権勢を維持していた。

やがて皇太子チンキムの党派とアフマドの党派による反目が表面化した。 アフマドはチャブイ皇后の絶大な支持を背景に経済官僚を握っていた。 が、1281年にチャブイ皇后が他界した。

対立が頂点に達した1282年、アフナドはチンキムの党派に属する漢人官僚によって暗殺された。

事件の後 アフマドの遺族も失脚し、政争は皇太子派が最終的な勝利を収めた。

皇太子・チンキムの権勢を阻む勢力はいなくなり、父・クビライ皇帝に対して皇太子への譲位を建言する者すら現われたが、チンキムは 1286年1月5日に病死してしまった。

一方、クビライ政権打倒に後半生を掛けるカイドゥは、モンゴル高原に対する攻撃を 益々頻繁に ますます厳しく侵攻した。 元軍は敗北を重ねていた。

他方、外征を支えるためにクビライ政権が整備に心血を注いだ財政も、アフマドの死後は 度重なる外征と内乱によって悪化する一方であった。

1287年に財政再建の期待を担って登用されたウイグル人財務官僚・サンガも1291年には失脚させられ、クビライ皇帝の末年には元は外征と財政難に追われて、

日本への3度目の遠征計画も放棄せざるを得なくなる状況に陥っていた。

1293年、クビライ皇帝は蒙古高原の総司令官・バヤンを召還し、チムキムの子である皇太孫テルムに皇太子の印璽を授けて元軍の総司令官として送り出したが、

まもなく、翌1294年2月18日に 第四代モンゴル(大元)皇帝クビライ・ハーンは、大都宮城の紫檀殿で病没した。

遺骸は祖父チンギス以来歴代モンゴル皇帝と王族たちの墓所である蒙古高原の起輦谷(現在 未だ場所の確定は無い)へ葬られている。

同年5月10日、クビライの後継者となっていた皇太孫・テルムが上都で即位するが、テルム第六代モンゴル帝国皇帝(第二代大元帝国皇帝)の治世下でカイドゥが病死し “カイドゥの乱”は収まり、

クビライ皇帝即位以来続いたモンゴル帝国の内紛はようやく終息をみることになった。

オゴデイー5-4

カイドゥに呼応してクビライ皇帝に反旗を翻したシリギ

シリギは、第4代大ハーン(皇帝)モンケの四男で、母はモンケの側室のひとりバヤウチンだった。 バヤウチンの生家は有力な部族ではなく、バヤウチンは美貌の貞淑な皇后であった。

シリギは同母兄弟とともに モンゴル高原にあったモンケ皇帝の所領(アルタイ山脈東部地帯)と領民(ウルス)を相続した。

1260年に皇帝・モンケが死んだとき、モンケ皇帝の本拠地カラコルムを中心とする高原中央部・西部の諸勢力は、父モンケも兄弟の末弟で 末子相続制により叔父のトルイ家が莫大な遺産の大部分を継承した。

モンケ皇帝の後継者選びの折、シリギ兄弟はアリクブケを後継ハーン(皇帝)に推し、異母兄弟のモンケの遺児もこれに荷担したが、クビライか覇権を握ると、シリギも降伏してクビライ皇帝に仕える諸王となった。

アリクブケ病没後の1267年、シリギは河平王の爵位を与えられ、モンゴル高原の諸部族の盟主としてクビライ皇帝が派遣した皇帝の四男・北平王ノムガンの旗下に 河平王・シリギは属すことになった。

1275年、頭角を現したオゴデイ家のカイドゥがチャガタイ家の内紛に乗じてチャガタイ家を併呑した。

この混乱に クビライ皇帝は 皇帝直属の右丞相・アントン、九男で異母弟・ココチュに大軍を引率させ、北平王ノムガンに皇子軍と共に 混乱する中央アジア征圧への進軍を命じた。

シリギもこれに従軍し、彼らの軍は翌1276年にチャガタイ家領の中心であるイリ川渓谷の都市アルマリクに進駐し、一時 この地方で勢力をふるうカイドゥを圧迫している。

しかし同年夏、シリギやアリクブケの遺児・メリク・テルム兄弟らがクビライ家の支配に不満をもっていた高原西部の旧アリクブケ派諸王が軍中で反乱を起こし、オムガンとココチュ、アントンらを捕縛してモンゴル高原に戻った。

反乱者たちから盟主に推戴され、高原の旧都カラコラムに入ったシリギは、クビライ皇帝に対抗するため、北平王ノムガンの身柄をジュチ・ウルス(キプチャク・ハン国)、右丞相・アントンの身柄をカイドゥに引渡した。

しかし、ジュチ・ウルスは動かず、カイドゥもノムガン軍の圧力が消えて権力の空白地帯となった中央
アジアの状況の収拾を優先した。 ジュチ家やカイドゥの西方の支援軍団を求めるには次期早々であった。

クビライ皇帝は、南宋を平定したばかりの左丞相・バヤン将軍率いる北伐軍を派遣した。

シギルは帝都・カラコルム近郊の戦いでに散々に破られ、高原中央部を失った。 さらに反乱諸王の中には頭抜けた力を持つ雄将がいなかったために内紛が続いて反乱軍は自壊した。

逃亡したシリギは1282年ついにバヤン将軍に降り、虜囚となった。 シリギは中国に送られ、海島に流され、その地で没した。

チャガタイー3-4-4

チンキム(1243年-1286年1月5日)は

世祖クビライが皇后チャブイの間にもうけた4人の嫡子のうちの次男で、長兄ドルジが早世したため、事実上の嫡長子にあたった。

クビライの兄・モンケ皇帝の治世に クビライが中国の経略を委ねられていたために、父・クビライの中国方面における本拠地である内モンゴルの城都市・開平府(上都)で、姚枢らクビライの漢人ブレーンに囲まれて育った。

クビライ即位後の1263年、チムキンは燕王に封ぜられ、さらに中書令に任ぜられてクビライ皇帝が新設した中央行政機関中書省の管轄を任せられ、

上都・大都を中心とする内モンゴルから中国華北方面の統治を委ねられている。

翌1264年、燕王・チンキムは判枢密院事を兼ねて軍政機関枢密院も掌握し、クビライ自身の宮廷も置かれ政権の胴体部分となる中国北部の政・軍を支配する強力な権限を与えられる。

幼い頃から漢人に対する理解を深めていたチンキムは、中・下級官僚として中書省に集められた漢人官僚の支持を受けた。

また、中書省の高官である右丞相・アントンはチンキムの母方の従弟であり、双方の母の実家であるコンギラト部族を筆頭とするモンゴル貴族層は 燕王・チンキムの与党であった。

燕王・チンキムの権勢は高く、1273年には皇太子に立てられて、クビライの後継者として確固たる地位を確立している。

しかし、皇帝が皇后・チャブイの用人であったアフマドを信任して華北の財政長官に取り立て、

財政業務を一手に任せるようになり、チャブイ皇后の後ろ盾ぜ アフマドは財務を取り仕切るようになる。

アフマドらムスリム(イスラム教徒)財務官僚とチンギムの下に集う漢人・蒙古人たちは、統治の方針と権限の領域を巡って水面下で対立を繰り広げるようになった。

1281年にアフマドの後援者であったチャブイ皇后が死ぬと、チムキンの党派とアフマドの党派の政権争いはますます熾烈になり、 ついに、翌1282年に チムキン派の漢人官僚によってアフマドが暗殺される。

アフマドの死後、もはや皇太子・チムキムの権限に干渉しうる権臣はいなくなった。

そのため、チヌキムの党派は華北地方において独裁的な権力を振るうようになり、先走ってクビライ皇帝に譲位を進言する者まで現われるほどの状況になったが、

1286年1月5日、突如 燕王・チンキムは病死した。

チムキムの死後、その絶大な権力に支えられ、非常に広大で豊かに成長していた皇太子府の所領と財産は、チムキンの未亡人・ココジンに引き継がれ、クビライ皇帝の死後、

摂政監国の立場でココジンは、チンキムの三男テルムを第六代モンゴル帝国皇帝(大元帝国第三代皇帝)に即位させた。

ココジンは、賢夫人としても知られ、夫・チンキム皇太子のオルド(宮廷)をよく守るとともに、義理のの母・チャブイ皇后に近侍してよく仕えたと言う。

大ハーンのクビライ皇帝が出猟したときに、その目に止まり 次男のチンキムに娶らしたと言う。

トルイー6-2

アントン(1245年-1293年)は、チンギス・カーンに仕えたジャアト・ジャライル部族出身の功臣、ムカリ国王家(南宋攻略により王家創建をチンギス・カーンより賜る)の出身で、ムカリの曾孫。

母親はチンギス・カーンの第一夫人ボルテの姪で、クビライの皇后チャブイの姉にあたる。 息子に猛将・ウドゥルタイ(バイジュの父)がいる。

13歳で宿衛に入る。 クビライの信任が厚く、彼に近侍した。 クビライが“蒙古帝国帝位継承戦争”に勝利した際に、

アリクブケ側に付いた者たちに対する寛大な処分を勧めて クビライ皇帝に評価され、1265年には早くも光禄大夫、中書右丞相に抜擢されている。

後に平章政事であるアフナドと対立するが、1274年に彼の不正行為をあばいて 彼を失脚させる。

翌1275年には皇太子チンギムや北平王・ノンガンとともにカイドゥ討伐に向かい、カラコルムに入った庶弟の皇子ココチュに扈従した。

しかし、1276年 ノンガン率いる遠征軍がカイドゥの支配領域の面前であるアルマリクに駐留していた時、

軍中で“シリギの乱”が起こり、アントンは捕縛された。 シリギは彼をカイドゥに引き渡し 自らの反乱への参加を促しとした。

しかし、カイドゥはこの誘いをほぼ黙殺し、シリギはカラコルムを居城に クビライ皇帝に対抗するが、進軍してきたバヤン将軍に敗北し、“シリギの乱”は鎮圧された。

1284年に大都に帰還したアントンは、右丞相に復職し、翌1285年には不在中に専権を振るった盧世栄の不正行為をあばいて失脚させる。

ところが、1287年に新しく平章政事となったサンガと対立してその不正を糾弾するも、クビライ皇帝に取り上げられなかったことから権威が失墜し、1291年に右丞相を退いた。

この年、サンガの不正行為があばかれて失脚するものの、アントンは復権することが出来ずに2年後に没している。 剛直にして和を求めた右丞相であった。

トルイー4-4

ココジン( ? – 1300年)は、世祖キビライの皇太子チンキムの妃。 別名はバイライム・rグチ(伯藍也怯赤)。

ノンギラト部族の出身。 父親は不詳。 クビライ皇帝が出猟したときにその目に止まり、次男・チンキムの妻に迎えられて、1263年から1265年までの3年間にカマラ、ダルマバラ、テルムの3人の男子を産んだ。

賢夫人としても知られ、皇太子の称号を与えられ 皇帝後継者の最有力候補となった夫・チンキムのオルド(宮廷)をよく守るとともに、チンキムの母にあたる同じコンギラト部族出身の皇后・チャブイに近侍してよく仕えた。

1281年に母親・チャブイが亡くなると、君主の后妃のオルドとその所領・財産を同一部族出身の后妃が相続するモンゴルの伝統に従って、生前のチャブイが蓄えていた莫大な財産を受け継いだ。

1285年には夫・チンキムが皇帝に先立って没するが、チャブイ后妃の保護下とチンキム皇太子の権勢の下で、元王朝において 最も権力と財産のある勢力となっていた皇太子府の管理権はココジン皇后が収握した。

従って、チンキム皇太子の没後もココジンの正嗣男子の3人王子はクビタイ皇帝の最有力後継者候補であり続けることができた。

1294年に老帝・クビライ・ハーンが没すると、皇帝の未亡人が主催する後継のハーン(皇帝)を選出するためのクリルタイをココジン后妃が開いた。

このクリルタイでは早世したダルマバラを除く、カマラとテルムの兄弟が候補となったが、ココジンはバヤン老将軍ら重臣らと協力して、クビライ皇帝が生前に皇太子の称号を与えていた末弟のテルムを推し、即位させた。

ジュチ一党2-13-1

____ 続く ____

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