宦官・鄭和 / 聖地巡航 =5=

永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=

 ~聖地メッカへの巡礼者ハッジ~

《YouTubu動画;海上霸主:鄭和下西洋 4/4》

http://www.youtube.com/watch?v=YfmuR_zmaaM&list=PL88B72D435D5E0C36

鄭和ー17-

◆◇鄭和の数次に及ぶ遠征概要◇◆

鄭和の大遠征あるいは大航海といわれながら、それに関する史料は乏しい。それはいうまでもなく、成化帝(在位1464-87)の時代に入ると、海外遠征の負担に耐えられなくなり、ベトナム進攻に猛烈に反対した劉大夏の手によって、鄭和の航海に関する記録や文書はすべて焼き払われてしまったからである。

そのなかにあって、『皇明実録』や『明史』の他、第4、6、7次遠征に参加した馬歓の『瀛涯勝覧』(1416年記)や第3、4、7次遠征に参加した費信の『星槎勝覧』(1436年記)、第7次遠征に参加した鞏珍の『西洋番国志』(1434年記)という史料がある。

しかし、これらとて、不十分である。 例えば、『瀛涯勝覧』でさえアフリカ東岸に関する記事は皆無である。

前節の“鄭和第1-3次遠征の概要”は当時 彼が訪問した土地の史書と突きあわせて検証している部分が多い。ここで取り上げる馬歓の『瀛涯勝覧』は、7次にわたる遠征のうち、主として第4次遠征を記録し、永楽14(1416)年に書き記したとされている。 馬歓は、鄭和と同じイスラーム教徒であり、その航海の通訳として参加したが、それ以上は不明のようである。

この『瀛涯勝覧』は、小川博氏によって1969年に翻訳と注解が行われていたが、現在、『中国人の南方見聞録―瀛涯勝覧―』(吉川弘文館、1998)として容易に利用できる。 瀛涯(えいがい)とは大海のはてというほどの意味である。 瀛西といえば、西洋となる・・・・・と海事を研究しておられるY.SHINOHARA氏【http://www31.ocn.ne.jp/~ysino/index.html】が解説している。 =書き綴るこの文も氏の労作に多くを負っている。=

馬歓は、「わたくしも通訳の任をうけて使節のはしに加えられ、随行してまいり、見渡すかぎりの海や波をこえ、その幾千万里かもしれないかなたに至り、諸国を歴巡して、その天の時、気候、地理、人物をこの目で見、我が身で経験しました」。 また、かの「島夷誌に書き誌されていることに嘘でないばかりか、それよりもさらに奇怪なることがあることを知り得たのであります」と『瀛涯勝覧』で述べている。

太宗文皇帝の勅命により正使・太監鄭和は宝船を指揮して西洋諸番国に赴き、皇帝のお言葉や賜わり物を伝える遠征に赴くのだが、いまい一度 その時代背景と動向を確認しておこう。

鄭和ー31-

(1) 北虜南倭 

1368年 明建国(初代皇帝洪武帝、在位1368~1398) 明はモンゴル人王朝の元を北方に押し返して成立した漢族の統一王朝である。 しかし 蒙古族は依然強い勢力を保持し続け、さらに辺境各地にも独立勢力が存在していた。 明の統治政策を特徴付ける言葉として ”北虜南倭” がある。 北虜とは北方のモンゴルで、南倭とは黄海、東シナ海、南シナ海沿岸を荒らした”倭寇”の事である。 =西方からはモンゴル系・イスラムのテムール朝がリベンジを狙っている。 テムール朝には北元の亡命皇子がいた。=

倭寇は初期(14世紀)においては九州沿岸を根拠地とする日本人(倭人)を主体とする海賊であった。 活動範囲は朝鮮半島沿岸から次第に中国沿岸に拡大して行った。 その過程で朝鮮、中国の地元民も多数参加し結局はそれぞれの地域の地元民による海賊集団に変質して行ったようである。

これを前期倭寇と呼ぶが、その背景としては当時日本は南北朝の混乱期で朝鮮半島も高麗の衰退期であり沿岸部に統治が及び難かったことがある。 明は基本的に内陸型の政権であったため対外交易には消極的であった。

建国直後の1371年に海禁令を出している。 海禁とは自国民、外国人に自由な交易、渡航を禁じる政策である。倭寇と結託した交易商人などが沿岸部に独立勢力を作る事を恐れたのである。 前期倭寇は朝鮮半島での李氏朝鮮建国、日本での南北朝統一(ともに1392年)により黄海、東シナ海沿岸部に統治が行き渡ったため終息した。

(2) 冊封と朝貢 

明は海禁令を出す一方で周辺諸国との冊封体制の構築を進めた。 これは明が正統と認めた国(政権)を儀礼上明の下位に位置づける(冊封)ものである。但しあくまで儀礼上で軍事的支配を意味しない。

冊封された諸国は定期的に明に朝貢することを求められた。 この朝貢に付随する交易を朝貢貿易と言い海禁下の明との唯一の正統な交易であった。 朝貢する側は明から冊封されることによって統治の正統性を得ることが出来、同時に進んだ明の宝物(絹織物、陶磁器など)を手に入れられる膨大な利益を獲得できた。

他方、冊封体制は古代からの中国の伝統的外交政策で文明の中心である中国が周辺諸国に徳(恩恵)を与えることによって帰順させる一種の安全保障政策であった。

第3代皇帝永楽帝(在位1402~1424)は従来の政策をより積極的なものに転換した。 第一には北方(モンゴル)への5回に亘る親征(皇帝自ら軍を率いて遠征する事)である。 第二に冊封体制の強化、拡大である。皇帝は宦官を朝貢または服属を促す使節として派遣した。

李達(中央アジア)、候顕(チベット)、李興(タイ)などでさらに女真族のイシハを東北部(満州)、イスラム教徒の出自を持つ鄭和を東南アジア、インド洋周辺各地へ送ったのだ。 彼らの働きにより明は東北部に支配を拡大し多くの朝貢国を得た。 日本の室町幕府も朝貢貿易(勘合貿易)を1404年から開始した(1549年まで継続)。

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(1) 南海遠征

永楽帝の対外政策の中でも東南アジアからインド、アフリカ東岸へ至る数度に亘る大艦隊の派遣は最も重要なものであった。 1405年から永楽帝が死去する1424年までに6回、その後1回の全ての指揮を鄭和(1371~1434)が務めた。

前記のように、第1回から第3回遠征までの最終目的地はインド西岸のカリカットであった。 艦隊は長江河口を出発し、まず東南アジア諸国を歴訪後インドへ向かった。

そして、第4回以降は本隊の最終目的地がさらにペルシャ湾のホルムズに伸び、分遣隊がアフリカ東岸、アラビア半島沿岸に送られている。 特に最後の第7回遠征では分遣隊はメッカに到達したとされる。 ホルムズへはイスラム・テムール朝への内偵・工作活動もあったであろう。

これらの海域はイスラム・回教商人達の交易圏であった。 また海禁以前には多くの中国商人もカリカットなどを訪れていた。 従って鄭和の航海は既知の海を行くもので探検航海では無かった。

この一連の航海事業は同じ15世紀に始まったヨーロッパ諸国の”地理上の発見(大航海時代)”に擬えて評価されることもあるが両者には根本的な違いが在る。 欧州列強の航海事業はキリスト教世界の拡大と不可分でそのことが後の植民地建設に繋がっていった。 それに対し鄭和のそれは朝貢を促す為のもので領土獲得を目的としていなかった。

顕著な効績を挙げたこの航海事業は明の正史(公式の歴史)には記載が無い。 これは皇帝と宦官から成る”内廷”の業績を実務を司る”外朝(官僚機構)”が妬み記録を破棄したためとされている。 航海の詳細は鄭和自身が各地に残した石碑や航海に同行した者が残した記録に頼るしかないのである。

(2) アジアの帆船

航海に同行した馬歓の”瀛涯勝覧”、費信の”星槎勝覧”には遠征艦隊の人員構成は7回の遠征全てが使節、士官、兵士、水夫等の総数でほぼ同規模(約27,000名)であったとされる。 また、使用された船については使節や宝物を乗せた”宝船“の記述がある。

宝船はかなり大型の船であったらしくこれに軍船や各種の輸送船が随伴して艦隊が構成されていたと考えられる。しかしその詳細は不明である。 しかし、中国の帆船(junk)は河川、運河での使用に適した喫水の浅い”沙船”と外洋航海に適した喫水の深い”福船”に大別出来る。 宝船は大型の福船タイプの船であっただろう。 浙江、福建、広東の沿岸は宋代から福船を使用した遠洋交易の基地となっていた。 そして、インド洋で広く使用されていたのはダウ(dhow)と呼ばれるものである。

鄭和の遠征時(15世紀)には中国のジャンク、インド洋のダウ、北ヨーロッパのコグ(cog)、地中海のガレー(galley)などはそれぞれの地域で独自に発展し、完成されていた。 これらの造船技術の水準はほぼ同等である。 しかし、同じ15世紀にヨーロッパで造船技術の革新が起こった。 アジアではジャンクやダウがそのままの形で19世紀まで使用されたのとは対象的に。

1449年 明はオイラト(モンゴルの部族)に敗れ(土木の変)、以後消極的な対外政策に転向する。 一方ヨーロッパではポルトガルが西アフリカへの”探検航海”を開始していたのである。

鄭和ー32-

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・・・・・・続く・・・・・・

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