北海帝国の興亡 =02=

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  ウィリアム1世 (イングランド王)について、今一歩 史蹟を追えば・・・・・ ヘイスティングズの戦いで主役の片側を演じるノルマンディ公ギョームは、1027年、ノルマンディ公ロベール1世の長男として誕生した。 母親は、皮なめし職人の娘アーレット。 ノルマンディの小さな村、ファレーズ(Falaise)で、たまたま通りがかったロベールが、洗濯をしていたアーレットに一目ぼれしたというのが通説だ。 しかし、身分が違い過ぎるため、ロベール1世とアーレットは正式に結婚できず、ギョームは後に、政敵から「William the Bustard(私生児ウィリアム)」とあざけりを受けることになる。

Tapisserie de Bayeux - Scène 23 : Harold prête serment à Guillaume

   また、ギョームがフランダース伯の娘、マチルダに求婚した際にも、マチルダから「私生児と結婚するくらいなら尼になる!」といったん断られたと伝えられている。 だが、これしきのことで引き下がるギョームではなかった。 8歳の時に父ロベールを亡くした後、暗殺の危機にさらされる中で成人し、ノルマンディ公の領地をねらう、いとこのバーガンディ公など近隣諸侯とわたりあうという厳しい環境に置かれ、精神的にも肉体的にも鍛えられていたからだ。 後に、マチルダとは結婚にこぎつけ、少なくとも4人の息子と5人の娘に恵まれた。

1051年、ギョームはイングランドを訪問。 ここで、男子の嫡子を持たなかったエドワード懺悔王から、次期イングランド王の地位を約束されたと言われている。 1063年には、懺悔王の義理の弟であるハロルドがノルマンディを訪れる。 ハロルドは、ギョームを次期イングランド王として認めるという誓いを神の名にかけて行うとともに、ギョームの幼い娘と婚約するなど、ギョームに従う姿勢を全面に押し出した。

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    ところが、このハロルドがくせものだった。 1066年1月、懺悔王が逝去するや 彼はハロルド2世として即座に戴冠し、イングランド王の座についてしまう。 激怒したギョームは強く抗議するが、ハロルド2世は聞く耳をもたなかった。 憤懣やるかたなく、ギョームはイングランドへの出兵を決意した。 船の建造を急ピッチで進めさせるかたわら、ハロルド2世は神聖なる誓いを破ったとして、教皇に訴え、ハロルド征伐は「聖戦」であるというお墨付きを得ることに成功する。 これにより、教皇の旗を掲げることが許されたギョームは、戦略家として、すでにハロルドより何枚も上手であることを証明して見せていたのである。

史書には、ウィリアム1世William I, 1027年-1087年9月9日)は、イングランド(在位:1066年- 1087年)。 通称は征服王(William the Conqueror)或いは、庶子王(William the Bastard)と呼ばれる。 ノルマンディー(ギヨーム2世、在位:1035年- 1087年)でもあった。 イングランドを征服し(ノルマン・コンクエスト)、ノルマン朝を開いて現在のイギリス王室の開祖となった人物と記す。 さて、そのイングランドへの遠征である。

   ノルマン・コンクエストThe Norman Conquest of England)は、 ノルマンディーギヨーム2世によるイングランドの征服を指し、コンクエストを日本語にし、ノルマン征服ともいう。  1066年ヘイスティングズの戦い=天下分け目の戦い=に勝利したギヨーム2世はウィリアム1世としてノルマン朝を開いた(ウェストミンスター寺院での戴冠式は同年12月25日)。 これによりイングランドはノルマン人により支配されることとなった。

ノルマン・コンクエストはイングランドの歴史の分水嶺となり、デンマーク付近の強い政治的・文化的影響から離れ、ラテン系のフランスと政治的にも文化的にも強く関係することになる。 なお、ノルマン人はイングランド人アングロ・サクソン人デーン人)と同様にゲルマン人の一種なので、異民族というほどでもない。 ノルマン・コンクエストが比較的容易に進んだ一因に、どちらの民族もゲルマン人であったという点が挙げられる。 イングランド以外のウェールズスコットランドアイルランドには、ノルマン・コンクエストの支配・影響はあまり及ばなかった。 これらの領域はもともとケルト人の勢力下にあり、ゲルマン人の勢力下にはなかったので、そういうことも一因となったようである。 ただし後になって、これらの地域でイングランドとの抗争や関係なども発生する。

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11世紀イングランドは、デーン人の王朝(スヴェン1クヌート1など)の後、ノルマンディーの支援を受けたアングロ・サクソン王朝のエドワード懺悔王が即位したが、その支配はデーン人とノルマンディー人の影響力の脆いバランスの上に立ったものだった。  この不安定な状況が、後に外部の介入を招く伏線となった。 前記のエドワード懺悔王には息子がいなかったので、甥で異母兄エドマンド2の息子エドワード・アシリングをあらかじめ後継者に迎えていたが、エドワード・アシリングが亡くなると、その幼い息子エドガー・アシリングを後継者とした。 しかし、1066年に懺悔王が亡くなると、年少(15歳前後)のエドガーは無視された。 代わりに、王妃エディスの兄で最大のサクソン貴族であったハロルド・ゴドウィンソンが、サクソン諸侯会議によって王(ハロルド2世)として選ばれた。

その後、紛糾が起こり、ハロルド2世の弟トスティは、ノルウェーハーラル3と組んで王位を主張した。一方、ノルマンディーギヨーム2世(エドワード懺悔王の従甥)は、エドワード懺悔王から後継者に指名されていたと主張した。 さらにギヨーム2世は、以前ハロルドがギヨーム2世の後継を承認する誓い(聖骨の誓い)をしており、即位は破誓であり無効だとし、ローマ教皇アレクサンデル2の承認を得た。 かくして状況は紛糾、これを解決するのは武力しかないというありさまになった。

1066年、ハロルドの戴冠後に、まずトスティが反旗を起こした。 トスティはイングランド南部を荒らした後、北のスコットランドに移り、ハーラル3世と組んで再び攻勢をしかけた。 一方、ギヨーム2世は配下のノルマンディー諸侯のみならず、フランス中から領地を求める小貴族の次男以下を募って南方から攻勢をしかけた。ハロルド2世は北方と南方から挟まれる形になった。 この状況で、まず北方のトスティが攻勢をしかけた。 ハロルド2世の軍は激戦の末にこれを撃破した(スタンフォード・ブリッジの戦い)が、疲弊した。  そこへ南方からギヨーム2世が攻勢をしかけた。 イングランドに上陸し、優秀な騎馬や相手の戦術ミスなどでハロルド2世の軍を撃破、ハロルド2世を討ち取った(ヘイスティングズの戦い)。 

ギヨーム2世はさらに南部から北東部の各地に進撃した。南部のサクソン諸侯は、ハロルド2世の戦死後に若年のエドガーを擁立して抵抗したが、ギヨーム2世の攻勢を受けて王位を認めざるをえなくなった。 1225日にギヨーム2世はウェストミンスター寺院で戴冠、ウィリアム1として即位した。 以前のイングランドはサクソン人やデーン人の大諸侯(earl)が各地に割拠している状態だったが、ウィリアム1世はイングランドの統一を推進した。 ノルマンディー式の封建制を取り入れて、ヘイスティングズの戦いなどで戦死・追放した諸侯の領土を没収し、配下の騎士たちに分け与えた。さらに、各州(シャイア、shire)に州長官(シェリフ)を置いて、王の支配を全土に及ぼした。

緩やかな支配に慣れていたサクソン諸侯は、当初、ハロルド2世の一族やエドガー・アシリングをかついで各地で反乱を起こしたが、各個撃破された(前述)。 その後も1070年にデーン人、スコットランドなどの支援を受けてヨークシャーなど北部で反乱が起きた。 所領を奪われたサクソン人やデーン人達はロビン・フッドのモデルの1人といわれるヘリワード・ザ・ウェイクを首領として、ウォッシュ湾近くのイーリ島に集結して抵抗したが、むなしく鎮圧された(1074年)。 これ以降、イングランドは安定する。

他方、エドガーはスコットランドに逃亡し、その姉マーガレットは後にスコットランド王マルカム3と結婚する。2人の間の娘イーディス(マティルダ)は後にサクソン人とノルマン人の融和の証としてヘンリー1と結婚することになる。 ウィリアム1世は反乱諸侯から領土を取り上げると共に、サクソン人の貴族が後継ぎ無く死亡したり、司教修道院長が亡くなると代わりにノルマン人を指名したため、1086年頃にはサクソン人貴族はわずか2人になっていた。 また、カンタベリー大司教もサクソン人のスティガンドが解任され、イタリア人のランフランクスが就任しているが、これはローマ教皇の意向が働いており、以降イングランドにおけるローマ教会の影響力は強くなり、ウィリアム2の時代のイングランドにおける叙任権闘争につながっていく。

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  上記のごとく、ノルマン・コンクエストとは、ノルマン人の農民が大挙襲来して、サクソン人の農民が大挙追放されたことではない。 サクソン人の領主が追放されて、ノルマン人の領主が取って代わっただけにすぎない。その意味で、ノルマン・コンクエストとは、国民全体から見ればごく少数の領主・貴族に限った征服だとも言える。 当然ながら、民衆の中から古英語やイングランド文化が消滅したわけでもない。 ウィリアム1世の支配の下で、サクソン人は土地を奪われた。 サクソン人の一部はスコットランドや各地に逃亡し、はるか東ローマ帝国に傭兵として雇われるものもいた。

ウィリアム1世は所領を与える際、まとまった一地域を与える代わりに各地の荘園(マナーmanor)を分散して与えた。 征服が少しずつ進んだことによる必然でもあるが、このため一地域を半独立的に支配する諸侯は生まれなかった(王族などに例外はある)。 諸侯は所領が分散しているため反乱を起こしにくく、また支配地域の安定のために王の力に頼る必要があったため、王権は最初から強かった。 一方、諸侯はお互いに頼りあうことになるため、王に対しても協力して対抗しやすく、後にマグナ・カルタイングランド議会の発展につながる要因となっている。

またウィリアム1世は、全国の検地を行い、課税の基礎となる詳細な検地台帳(ドゥームズデイ・ブック)を作り上げた。 当時のフランス、ドイツ、イタリアは大諸侯が割拠する封建制であり、イングランドの体制は西欧で最も中央集権化が進んでいたと言える。

しかしながら、フランスの封建臣下であるノルマンディー公が同時にイングランドを兼ね、フランス王より強大になったことによる両者の争いは、プランタジネット朝においてさらに激しくなり、百年戦争を引き起こすことになる。 また、それまでのイングランドではスカンディナビア、ゲルマン文化の影響が強かったが、フランス文化がこれに取って代わることになり、政治的にもフランスと深く関連することになる。

ウィリアム1世に従う北フランス各地の貴族たちは、ひとまずイングランドに定着したが、その後 しだいにウェールズアイルランド東南部、スコットランドにも広がってゆき、フランス北西部とブリテン諸島は北フランス文化圏に組み入れられることとなった。

ノルマン人の子孫であるノルマンディーの貴族たちは、移住してから100年程度たち、風習、言語ともにフランス化していたので、イングランドではそれまでのテュートン系古英語に代わり、ノルマンディー方言(ノルマン・フレンチ、アングロ・フレンチ)を中心とする北フランスの言語が貴族社会の言語となった。 また、英語もこれらの言語の影響を強く受け、中英語へと変化して行った。

動物を示す英語と、その肉を示す英語が異なる(例:豚 – pig, swine/豚肉 – pork; 牛 – cow, bull, ox/牛肉 – beef; 羊 – sheep/羊肉 – muttonなど)のは、イングランドの被支配層が育てた動物の肉を、ノルマンディーからの支配層が食用としたために、二重構造の言葉となったケースの典型といわれている。 その他 yard と garden、dove と pigeon などの例が挙げられる。 このほかにも、文化的な語彙を中心に、多くのフランス語が英語に流入した。 また、法廷や公文書などもフランス語で表記されたのです。

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