宦官・鄭和 / 聖地巡航 =6=

永楽帝の宦官・三宝太監 =世祖クビライの経済官僚が末裔=

 ~聖地メッカへの巡礼者ハッジ~

《YouTubu動画;Zheng He 郑和下西洋 Episode 01》

http://www.youtube.com/watch?v=6ncVxLoH4iM&list=PL88B72D435D5E0C36

鄭和ー5-

◆◇鄭和の第4次遠征・「西洋下り」◇◆ 

鄭和は、1405年から33年の間に、七度の大航海の司令官を務めた。 「鄭和の西洋下り」は第1~3次(1405~07、1407~09、1409~11)がコジコーデ(カリカット)、 第4~7次(1413~15、1417~19、1421~22、1431~33)がホルムズを最終地としたが、別働隊はアフリカ東岸から紅海沿岸に進出したと前記した。 =7度目は孫の宣徳帝の代に行われた。=

彼の率いる船団は宝船、西洋取宝船などとよばれた大型の商船(長さ150メートル、幅62メートル)六十数隻からなり、乗員も二万数千人に上った。 このほか第6次と第7次の間の1424年彼はパレンバンに出使している。

「鄭和の西洋下り」は中国史上最大の航海事業であったばかりでなく、世界史上にも例のないものであった。 その主たる目的は政府直営の海外貿易の促進にあり、中国国内はもちろん、相手国の社会や経済にも大きな影響を及ぼしたのです。

また、随行者・馬歓の著作である『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』・『星槎(せいさ)勝覧』などにより、中国人の東南アジア方面に関する知識が深まり、華僑(かきょう)の進出の端緒となったことも見逃せない事実として歴史に印されている。

鄭和は朝貢を諸国に促すだけでなく、多くの発見物を中国に持ち帰った。 南方・西方の情報を持ち帰った。 しかし 鄭和の第三次遠征からの帰国以前に於いて、永楽帝の世界戦略に 鄭和がもたらした幾多の情報は活用されていない。 永楽帝を悩ましていたのは、北方のオイラト勢力であった。

モンゴル族のタタール部とオイラト部は、度々明との国境を越えて侵入していた。 これに対し永楽帝は断固たる態度で臨み、最初は武将の丘福に10万の兵を与えて征討に向かわせたが、この丘福が惨敗する。

永楽8年(1410年)に51歳と言う年齢でありながら永楽帝は 皇帝としては異例の北方親征を敢行、後に滅胡山(胡は古代中国における異民族の蔑称)と名づけるケルレン河畔での大勝を皮切りに5度に渡って行いモンゴル族を駆逐し、「五度沙漠に出で三たび慮庭をたがやす(五出三犂)」と称えられている。

北方騎馬遊牧民の制圧への永楽帝の行動は、鄭和・第三次遠征の時期なのです。 北方を制圧した永楽帝は 世界が明の権威を認めることを欲し、宦官鄭和に命じる大船団の第四次・南海派遣事業に情熱を傾注 その規模は拡大した。

この船団は明と交易することの利益を諸国に説いて回り、明に朝貢することを条件に中小諸国が交易にやって来るようになった。 しかし一方では ジンギスカーンの系列である中近東の雄“テームール”が元の旧領回復を目指すべく明王朝打倒を画策していた。

※  追記; 明朝とティムール朝はとも敵対したが、永楽3年(1405年のティムール死=明への親征途上の病死=後は和睦して友好関係を築き、永楽12年(1414年)または永楽13年(1415年)には鄭和がホルムズを訪れている。(※; 西域人物伝・ティムール ; https://thubokou.wordpress.com/2013/03/09/ 参照);

馬歓が書き留めた『瀛涯勝覧』をひも解き、鄭和の第4次遠征の様子を探ろう。 鄭和の事業記録として残る唯一の資料である。

鄭和ー28-占城国(チャンパ)

鄭和の艦隊は63隻27670人であった。 彼らは、大倉(江蘇・揚子江江口附近)の劉家港より出帆し、そして「福建の福州府長楽県五虎門から船を出して、西南に向かい風向がよければ10日ばかりで着くことができ」、広東、海南島の南にある、占城国(チャンパ、Champa)に入る。

「この国の東北100里に海港があり、新洲港という」。 =現在の越南平定省の帰仁(クニヨン)= 「ここでの売買交易には7分金かあるいは銀を使用する。 中国の青磁の皿や碗などの品、緞子、綾絹、焼珠(ビーズ)などは大事にされていて、7分金と交換する。 いつも犀角、象牙、伽藍香(伽羅木)などの物を中国に進貢してくる」。

チャンパを出て、順風20昼夜で、古くは闇婆国といった爪哇国(ジャワ、Java)に入る。 外国の船が来ると、杜板(トバン)と、新村(グリッセ)、蘇魯馬益(スラバヤ)に入港する。 さらに、満者伯夷(マジャパイト)というところには、マジャパイト王朝の国王が居住していた。

トバンには「約1000軒余あり、2人の頭目が治めている。 ここには沢山の中国の広東、章州の人が流れて来ている」という。 また、グリッセは砂洲であった土地に、「中国の人々がここにやって来て始めて住みついたことにより新村と名づけられ、今に至るまで村主は広東人である。 約1000軒余りあり、各地の人々がここに来て売買する。 金や宝石などいろいろの品物が売られ甚ださかんな所である」。

このように、ジャワの海港には華僑が定住しているが、そればかりか「この国には三種の人々がいる。 一種はイスラム教徒(回回人)でみな西方諸国の商人であり、この地に流れて来たもので、衣食その他は洗練されている。 一種は中国人(唐人)でみな広東、章州、泉州の人々のここに逃れて来たもので、日常生活は清潔で、多くはイスラム教を信じおつとめをしている。 一種は原住民で顔かたちはみにくく、もじゃもじゃ髪であかはだしで鬼教を信じている」。 =この文意は、華僑はディアスポラ(離散)したイスラーム教徒のようだ=。

「土地の人で物持ちは甚だ多く、売買交易には歴代の中国の銅銭が使われている」。 「この国の人たちは中国の青花磁器、麝香、金糸布、ビーズの類を喜び、銅銭でもって買いとる。 国王は常に頭目を差し遣わし、船に献上物をのせて中国に進貢している」とも記載している。

鄭和ー27-旧港国(パレンバン) 

ジャワ島からスマトラ島に向かって、順風8昼夜で、旧港国(パレンバン、Palembang)に着く。 そこは室利仏逝とか三仏斉とか呼ばれ、栄えていたところであった。 いまでは「爪哇国が管轄している……あちこちの船が来ると、まず淡港[河畔]に入り、船を岸につなぎ……小舟に乗りかえて港内に入り、この国に至るのである。この国には広東、章州、泉州の人々の逃げこんできているものが多い」。

ここにも華僑が住み着いていた。 彼らは紛争を起こしていたが、鄭和は1405(永楽3)年冬に出発した第1次遠征の際、それに介入している。 その経過を、馬歓は、次のような挿話として纏めている。

「昔、洪武年間(明の太祖、朱元璋の年号、1368-98年)に広東の人、陳祖義が家をあげてここに逃げこみ、ついに頭目となり、勢威を振るい、およそここを通る客船があれば、その貨財の物を奪い取っていた。 永楽5年(1407)に明の朝廷は太監鄭和たちを統領とし、西洋派遣船隊を率いて差し遣わして、ここに至らしめた。 ここには施進卿というものがおった。

彼は広東の人であったが、陳祖義の横暴の状況を報告したので、太監鄭和は陳祖義などを生けどりにし、〔明の〕朝廷に連れて帰り、処罰した。 そして、施進卿には冠帯を賜い、旧港に帰して大頭目としてそこの『たいしょう』=旧港宣慰司のこと=にした。 本人は死んだが位は子に伝わらず、その娘の施二姐が大頭目となったが、一切の賞罰や進退は前のとおりであった」。

パレンバンの「市中の売り買いには中国の銅銭を使うが、布きれなども使われている。 国王はいつも貢納物を明の朝廷に献じていたが、今に至るまで途絶えたことはなかった」。 この国の「物産は黄熟香、速[連]香[健胃剤]、降[真]香[焚香類]、沈香、黄蝋(蜜蝋)、ならびに鶴頂鳥[犀鳥の一種]の類である。 交易には五色のビーズや青白磁器、銅鼎、五色の色絹、色段子(どんす)、大小の磁器、銅銭などを使う」

鄭和ー34-シャム、それから自立した、マラッカ

『瀛涯勝覧』には ここで、1407(永楽5)年冬に出立した第2次遠征の記録が挿入されているが・・・・。

「占城より西南に向かって船で行くこと、7昼夜(あるいは10昼夜)ばかりで順風なら新門台(シンメンタイ)に至る。 江口に入港してわずかばかり行くと、この国に行き着く」 この国とは暹羅国(シャム、Siam)である。 さらに、「この国の西北に去ること200余里ばかりの所に交易都市があり、上水(シャンスイ)といわれている。 雲南の後門に通ずることができる……中国の宝船(西洋派遣船隊)が暹羅にくると、小舟に乗り換えて〔上水に〕行って売買してくる」。

文面では、鄭和はマラッカ海峡に入っている。 再び「占城から真南に向かって風がよければ船で8日ばかりかかって竜牙門[シンガポール海峡の南、ビンタン島とバタム島の間にある、リオウ海峡]に着く。  さらに、《竜牙門より西に向かって2日ばかりで》 満刺加国(マラッカ、Malaka)に着くことができた。」

この満刺加国は、元来 国になっておらず、国王もおらず、「暹羅の所轄しているところで、毎年金40両を差し出している。 そうしないと征伐されるのである。 永楽7年(己丑・1409)に、[第3次遠征]正使の太監鄭和等が明の皇帝の命を奉じて、西洋派遣船隊を率いて来たり、詔勅をもたらし、ひとそろいの銀印と冠帯、袍服を頭目に賜い、碑を建て城を封じて、満刺加国と名づけた」ところであった。

「その後、暹羅は敢て侵入することはなかった。 その頭目は恩を蒙って王となり、妻子を伴って明の都に来たり感謝して貢物を献じたので、明の朝廷は船舶を与えて国に帰らせそこを守らせたのである。 また ここの人々は王をはじめ、すべてイスラーム教徒である」

鄭和の第3次遠征艦隊は、「ここに来航して、城垣のような柵を作り、4つの門、物見櫓(更鼓楼)などを設け、夜は鈴を鳴らして巡羅し、中には二重に柵に立てて、小城のようである。 そして、倉庫を作って一切の銭や食糧を入れておき、各地に行く船舶がここに来ると交易物を取り出し、そろえてから船に積み込み、南の風の具合を窺って、5月中旬に航海を開始し中国に向かったのである。 そして、ここの国王も自ら進物をととのえ妻子を伴い、頭目たちを引き連れ、鄭和の船隊につき従って明の都にやって来て貢献をした」と記している。

このように、マラッカはパラメスワラの建国以来、明の勢威を借りることによって前代の三仏斉の貿易港の位置に代わり、パラメスワラもイスラム教徒であったことから、イスラム商人のインド洋商業活動の東の交易中心点になり、西の交易中心地、アフリカの東岸のキルワとインド洋をはさんで似通った発展を遂げたのである。

そして、やがてヨーロッパ勢力の登場とともに変貌を遂げてゆくが・・・・・・・。

鄭和ー35-

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・・・・・・続く・・・・・・

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