Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ
【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】
〇● “空中都市”マチュピチュに象徴されるインカ帝国 – 南米ペルーを中心に栄えた ●〇
ケチュア族の大帝国の誕生と発展の謎を、最新の研究から探る
◎ インカ/ケチュア族の気高き野望 =2/6= ◎
1980年代初頭、ペルーではテロリズムの嵐が各地で吹き荒れ、考古学者たちは10年以上もインカ帝国の中心地だったクスコ盆地で調査ができなかったのだ。
考古学者たちは現在、失われた時間を取り戻そうとしている。米国イリノイ大学シカゴ校の考古学者ブライアン・バウアーは、強い日差しが降り注ぐ7月のある日、クスコの南に位置する祭祀(さいし)遺跡マウカリャクタにいた。儀礼用の広場に立ったバウアーは水をゴクリと飲み込むと、東側にそびえる灰色の岩を指さした。その頂上には、大きな階段が刻まれている。岩全体がインカの重要な神殿だったのだ。バウアーによれば、500年ほど前、ここはインカ発祥の地として崇められていて、多くの巡礼者が訪れていたという。
バウアーがマウカリャクタを最初に訪れたのは1980年代前半。インカ帝国の誕生の謎を明らかにするためだ。当時、歴史学者や考古学者のほとんどが、ある説を信じていた。それは、1400年代初頭にパチャクテックという若者がインカの王となり、わずか一代で泥壁の小屋が並ぶ集落から大帝国を築いたというものだ。バウアーはこの説を信じなかった。インカ王朝の始まりはさらにさかのぼれるはずだと考え、有望と思われたマウカリャクタにやって来たのだ。しかし、2年にわたって発掘調査を進めたものの、インカの王につながる証拠を発見することはできなかった。バウアーは途方に暮れた。
そこで、マウカリャクタをあきらめ、北のクスコ盆地に狙いを変更した。研究仲間であるR・アラン・コーヴィーとともに、険しい山の斜面を上ったり下ったりしながら、4年にわたって調査を行い、見つかった土器片や石壁を綿密に記録していった。こうして新たに発見されたインカ時代の遺跡は数千カ所に上り、インカの国家はそれまで考えられていたよりも古く、1200~1300年の間に誕生したことが明らかになった。
躍進を始めたインカ
現在のアヤクチョ近くに都を置いたワリをはじめ、それ以前にもアンデス一帯を支配した王国はいくつかあった。しかし、100年以上にわたる深刻な干ばつの影響もあり、そうした国は1100年には滅びていた。その後は高地の乏しい水源を巡って民族集団間での争いが繰り返され、近隣の村々も襲われて食料が奪われた。村を捨てた人々は寒風吹きすさぶ標高4000メートルを超える地帯に身を隠した。
しかし、その混乱の中、クスコ周辺の肥沃(ひよく)で水も豊かな盆地では、インカの人々が農耕を続けていた。そして、組織的な防御を強化するため、村々が集まって小さな国家を形成し始める。1150~1300年には、アンデス山脈の気候が温暖になると、インカの民はその恩恵を受けることになった。
//////参考資料///////
Ӂ 12世紀・クスコ王国の勃興 Ӂ
クスコ王国(12世紀頃–1438年) : ケチュア族は、12世紀頃にクスコへ移住し、インカ族として成立した。最初のインカ族の統治者(サパ・インカ)であるマンコ・カパックの指揮の下、彼らはクスコに小規模の都市国家を築いた。彼と続く7人のサパ・インカの在位期間は明確でないが、1250年から1438年頃までと想定されている。
インカ帝国が成立する前の当地の文明は文字による記録を全く残していないため、インカは、どこからともなく出現したように見えるが、あくまで当地の過去を踏まえて成立したものである。彼らは先行する文化(ワリ帝国、中期ホライズン)から、建築様式、陶器、統治機関などを借用していた。
タワンティンスウユ(1438年–1527年) : インカは中央高原地帯のクスコで発生し、海岸部に広がっていった。考古学者は、標高5,300mに及ぶ高原の温帯で永久的な居住地の跡を発見した[いつ?]。彼らの高地における資産は、リャマ、アルパカ、ビクーニャに限定されていた。
インカによる征服の基盤は、彼らの組織であると信じられている。彼らの神の象徴は太陽神であり、官僚制度は11あった王のアイリュに所属する官僚による団体から成り立っており、家系は正皇后であるコヤとなった自らの姉妹との近親婚によって継続した。インカは平等の考えに基づいた社会であった。
全ての人民が、生きるために働かねばならず、貴族ですら見本を示した。しかし数人の考古学者は、これが2つの階級からなる制度を支えるための建前にすぎなかったと信じている。その理由として官僚エリートが法を犯したときの刑罰は大して厳しくなく、このことは体制の維持のために上層階級が重要視されたことを意味した。
インカ帝国の拡張が始まった原因は、おそらくその気候条件の結果であろうと推定されている。パチャクテクは彼自身が選び抜いた家庭出身の指揮官を訓練した。兵卒は、木製の柄と石製又は青銅製の斧頭を備えた青銅製の戦斧、投石器、ランス、投げ槍、弓矢、皮革で覆った木製の盾、綿或いは竹製の兜、刺し子の鎧により武装した。攻略された属州においては、インカの官僚が従前の地方官僚の上に置かれた。
これら官僚の子弟はクスコに人質に取られ、攻略された属州の忠誠の保証とされた。インカ帝国はケチュア語を公用語に、太陽崇拝を国教とした。また、急速な灌漑と台地栽培方式の開発により生産力を増強するために労働力を搾取し、肥料としては沿岸の島々で発見された堆積グアノを使用した。インカの社会制度は、儀式と神の名による強制により裏打ちされた厳格な権威主義政体を要したのだ。伝統的にインカの軍は皇子に統率されていた。
・・・・・つづく
下記の愚生が拙文にアクセス賜れば幸いです
メソアメリカの古代文明 “その繁栄と崩壊”
マヤ文明の揺籃 https://thubokou.wordpress.com/2014/01/02/ 15節
アステカ帝国の興亡 https://thubokou.wordpress.com/2014/01/17/ 29節
アンデス文明とインカ帝国 https://thubokou.wordpress.com/2014/02/17/ 14節
“太陽の神話”の民のく闘争 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/02/ 12節
文字と伝承、そして 謎 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/14/ 7節
・・・・・ 失われた文明 インカ アンディスの興亡 ・・・・・
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