インカ/ケチュア族の気高き野望 =3/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  空中都市”マチュピチュに象徴されるインカ帝国 – 南米ペルーを中心に栄えた  ●〇

 ケチュア族の大帝国の誕生と発展の謎を、最新の研究から探る

◎ インカ/ケチュア族の気高き野望 =3/6= ◎

インカ-5

 1150~1300年には、アンデス山脈の気候が温暖になると、インカの民はその恩恵を受けることになった。気温の上昇にともない、インカの農民たちは250~300メートルほど高地へと移動した。彼らはそこに段々畑を築き、水を引いて、トウモロコシを育てた。実りは有り余るほどだった。リマにあるフランス国立アンデス研究所の古生態学者アレックス・シェプストウ=ルスティは、「こうした余剰産物のおかげで、労働力に余裕が生まれ、道路を建設したり、大規模な軍隊を維持することができるようになった」と考えている。やがてインカの支配者たちは徴兵で兵力を増強し、近隣のどの王よりも大規模な軍を擁することになった。

 兵力の後ろ盾を得たインカは、他集団の土地や資源に目を付け始める。周辺諸国の王とは姻族関係を通じて同盟を結び、新たに加わった同盟国には惜しみなく贈り物を与えた。逆に敵対国がこちらの譲歩をはねつけたり、脅威になりそうな場合は、容赦なく軍事力を行使した。こうして、周辺にあった国々は一つ、また一つとインカの支配下に入り、聖地クスコを都とする強大な国家が出来上がった。

 インカの王たちはその後、クスコの南に位置するティティカカ湖周辺の豊かな土地に狙いを定めた。15世紀になると、パチャクテック・インカ・ユパンキは南部への遠征を計画し、帝国への第一歩を記すこととなる。

インカ-4

 15世紀半ば、ティティカカ湖の北に広がる寒冷な高原地帯に、コリャと呼ばれる民族集団の軍隊が集結した。侵略者インカと戦うためだ。コリャは湖周辺に点在する小規模な王国をまとめ上げ、40万もの人々を統治していた。その支配地は肥沃で魅力的だった。山中には金銀の鉱脈が走り、アルパカとリャマの群れはみずみずしい草を食べ、まるまると肥えていた。南米大陸原産で唯一の役畜であるリャマは、1頭当たり30キロの重さの荷を運ぶことができる。

またアルパカとともに、リャマは肉が食用になり、皮や毛を衣服に加工することができるので、軍備にも不可欠だった。コリャを倒さなければ、パチャクテック王は彼らの存在におびえながら生きなければならなかっただろう。

 光り輝く輿に座したパチャクテック王は、ついに攻撃命令を発する。倒した敵の骨を削って作った笛を鳴らし、敵からはいだ皮を張った太鼓を打ちながら、インカの兵士はコリャの軍隊に向かって進軍する。やがて両軍は激突し、戦闘が終わってみると、地面に転がっていたのはコリャの兵士たちの死体だった。

//////参考資料///////

Ӂ インカ帝国の勃興  Ӂ

パチャクテクは彼の帝国に欲した地方に工作員を派遣し、政治組織、軍事力及び資源に関する報告を得た後、その地の指導者に宛て、彼らがインカに従属する指導者として富裕となることを約束すること、高品位の織物などの高級品を贈ること、そして彼の帝国に加わることの利を強調した手紙を送った。多くの場合彼らは、インカの統治を既成事実として受け入れ平和裡に従った。

各指導者の子弟はインカの統治制度について学ぶためクスコに集められ、その後故郷に戻って指導者となった。これによりサパ・インカは、それまでの指導者の子弟にインカの高貴性を吹き込むとともに、運がよければ、帝国内の様々な地方の家族出身の彼らの娘と結婚することとなった。

アイマラ

チチカカ湖地方の征服・アイマラ諸王国とコジャ王国 :  1438年、彼らはサパ・インカ(最上位の王)パチャクテク・クシ・ユパンキ(パチャクテクとは世界を震撼させる者、世界を造り変える者の意)の命令下、壮大な遠征による拡大を始めた。パチャクテクという名は、現代のアプリマク県にいたチャンカ族を征服した後に与えられたものである。パチャクテクの在位中、彼と彼の息子トゥパック・インカ・ユパンキは、アンデス山脈のほぼ全て(おおよそ現代のペルーとエクアドルに当たる)を制圧した。 1445年、第9代パチャクテクは、チチカカ湖地方の征服を始めた。

北征・チムー王国の征服 : パチャクテクの皇子であったトゥパック・インカ・ユパンキは1463年北征を始め、1471年パチャクテクが死亡してからはサパ・インカとして征服事業を継続した。彼の手になった征服中、最も重要であったのはペルー海岸を巡る唯一の真の敵であったチムー王国に対するそれであった。トゥパック・インカ・ユパンキの帝国は、現エクアドル、現コロンビアにまで及ぶほど北に伸長した。彼は既存の文化、特にチムー文化の様式を、発展させ取り入れた。

トゥパック・インカ・ユパンキの皇子であったワイナ・カパックは、現エクアドルとペルーの一部に当たる北部にわずかな領土を付け加えた

パチャクテク

・・・・・つづく

下記の愚生が拙文にアクセス賜れば幸いです

メソアメリカの古代文明 “その繁栄と崩壊”

マヤ文明の揺籃  https://thubokou.wordpress.com/2014/01/02/ 15節

アステカ帝国の興亡 https://thubokou.wordpress.com/2014/01/17/ 29節

アンデス文明とインカ帝国 https://thubokou.wordpress.com/2014/02/17/ 14節

太陽の神話”の民のく闘争 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/02/ 12節

文字と伝承、そして 謎 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/14/  7節

・・・・・ マチュピチュドキュメンタリー2016の謎 ・・・・・

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