アステカ / 解明される王国の謎 =2/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇● 解明される“アステカ”王国の謎/テンプロ・マヨール遺跡  ●〇

 メキシコシティに残るアステカのピラミッド「テンプロ・マヨール」

数多くの生け贄が捧げられた憲法広場の近く大神殿で、“血の儀式”の跡を見た

◎ アステカ 解明される王国の謎 =2/6= ◎

アステカ-3

  奉納物の底には、念入りに飾られたあの「高貴な犬」が収められていた。飾りに使われたのは、二枚貝や巻貝の殻、カニなどで、メキシコ湾や大西洋、太平洋からここに運ばれたものであることが判明した。これはアステカの宇宙論で言うところの、黄泉(よみ)の国の最上層であり、イヌ科の動物は主人の魂が危険な川を渡るときの先導役を務めるのだ。

この「高貴な犬」が先導するのは誰の魂なのか? 1521年にスペイン人エルナン・コルテスがメキシコを征服して以来、アステカの王たちの遺骨は一つも見つかっていない。しかし、記録によると、3人の王が火葬され、その遺灰はテンプロ・マヨールのすぐそばに埋められたという。

トラルテクトリの石彫が出土した時、ロペス・ルハンはこの神がウサギを手にしていることに注目した。しかも、鉤爪(かぎつめ)が生えた女神の右脚には10個の点が打ってある。アステカの表記法では、「10のウサギ」は1502を意味する。それは、現存する当時の写本によると、最も恐れられた王アウィツォトルが盛大な葬儀の後に埋葬された年なのだ。石彫があった近くにアウィツォトルの墓があるに違いない。ロペス・ルハンはそう確信した。となると、「高貴な犬」は謎に満ちた民族の歴史の案内役になるだろう。アステカ人は自らを「メシーカ」と呼んだ。その伝統が現在のメキシコ人のアイデンティティーを形成している。もし、王の墓が見つかれば、ロペス・ルハンが32年にわたって続けてきた研究の集大成となるのだ。

「メキシコには至る所に過去が息づいています」と、ロペス・ルハンは言う。その言葉どおり、アステカ王国の遺産は近代的な国のすぐ足下に眠っている。

マヤ文明は現在の中米数カ国にわたって繁栄したが、アステカ王国の勢力範囲は現在のメキシコとほぼ重なっている。メキシコもその歴史を祭り上げることに熱心で、国旗の中心に描かれているのはアステカ時代のワシだ。メキシコの二大航空会社のロゴにも、同様のワシが使われているし、アステカ銀行やテレビ・アステカもあれば、サッカーのメキシコ代表チームはワシをあしらったユニフォームを着て、アステカ・スタジアムをホームとする。国の中枢であるメキシコ市は、アステカの都市国家テノチティトランの上に建設されていて、王国の不屈の魂を有形無形に受け継いでいる。

だが、アステカ人を狭義の象徴的な存在としてとらえるのは誤解を生む。そもそもアステカ王国とは、テノチティトラン、テスココ、トラコパンという3つの都市国家の同盟であり、ヨーロッパ人に征服されて滅ぼされるまで1世紀弱しか存続しなかった。歴代の王は支配地を恐怖に陥れ、強い反感を呼んだが、その統治は短命に終わったのだ。古代ローマやインカ帝国と異なり、アステカの王たちは支配地の隅々にまで神殿を建立したり、文化的伝統を植えつけようとはしなかった。被征服者たちが貢物さえ進呈すれば自治を許し、ときおり力を誇示することで、支配体制を維持していた。

発掘-2

 アステカ人が力を注いだのは、首都テノチティトランの整備だ。ただこの都にしても、習俗や図像表現、宗教的慣習はそれ以前の文明からの借用が多かった。一部の研究者から「安上がりな帝国」と評される所以(ゆえん)である。ロペス・ルハンの父で、メソアメリカ研究者のアルフレド・ロペス・アウスティンは「アステカの文化が完全な独創だったというのは大きな誤解です。そんなことはなかった」と語る。

それだけでなく、“血に飢えたアステカ人”というイメージも誤解である。征服したスペイン人たちが、大げさに話を伝えたのだ。神殿をひとつ建立するのに8万400人を生け贄にしたため、メキシコ中部から人間がいなくなったという逸話があるが、一部の研究者はヨーロッパ人の作り話と断定してはばからない。ただ完全に否定するのも行きすぎというものだ。メキシコ市の地下には多孔質で水を通しやすい岩盤があるが、ロペス・ルハンはそこを15年前から分析している。「血液反応がそこここで出ます。生け贄を捧げる際に使った石やナイフ、127体の遺体も発見されました。人身供犠を行っていたことは確かです」と、彼は説明する。

「けれども」と、ロペス・ルハンは急いで付け加えた。古代世界で人身供犠は当たり前のように行われていたのだ。アステカ以前にも、マヤをはじめとする多くの文明に同様の慣習があった。「それは、民族というより、あの時代の慣習だったのです。一触即発の事態には、神々の怒りを鎮めるために人命を捧げるというのが、当時の宗教的常識でした」と、ロペス・アウスティンは説明する。

//////参考資料///////

Ӂ アステカ(Azteca)王国慨史 2/6 Ӂ

アステカの第三代国王に就任したチマルポポカは、アスカポツァルコとの同盟を堅持してテスココと敵対する方針を取った。1418年、アスカポツァルコとテスココはついに開戦し、アスカポツァルコが勝利。イシュトリルショチトルは殺害され、息子のネサワルコヨトルは逃亡してテスココはアスカポツァルコの支配下に入った。この戦いでアステカは大きな役割を果たし、アスカポツァルコの最有力の同盟都市のひとつとなった。

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1426年にテソソモクが死亡すると、アスカポツァルコ王にはテソソモクの息子であるマシュトラが即位したが、権力闘争が激化し、その過程でチマルポポカも暗殺された。かわって1427年に王位についたイツコアトルはアスカポツァルコへの敵対を強め、一触即発の雰囲気となった。

この時テスココの旧主であるネサワルコヨトルが同盟案を携えてテノチティトランを訪れ、アステカに援助を要請した。この案は受け入れられ、まずアステカ軍はテスココへ侵攻してネサワルコヨトルを支配者とし、その後両都市と、さらに湖の西岸にあるテパネカ人の都市トラコパンの三都市が同盟を結んでアスカポツァルコへ侵攻し、1428年に滅亡させた。こうしてアステカはテスココと共闘してアスカポツァルコを倒し、湖の西岸にあるトラコパンを加えてアステカ三国同盟を結成した。これがいわゆる「アステカ帝国」である。

こののちアステカの勢力がほかの二都市を圧して伸びていくものの、国制上はアステカは最後までアステカ(テノチティトラン)・テスココ・トラコパンの三都市同盟だった。アスカポツァルコ崩壊後、三都市はその領土を分割し、テスココは湖の東部を、トラコパンはアスカポツァルコを含む湖の西部を、そしてテノチティトランは湖の北部と南部の支配権を得た。この勢力図はその後も継承され、各都市はそれぞれその方向に勢力を拡大していった。

アスカポツァルコを滅ぼし覇権を握ると、イツコアトルは勢力拡大に乗り出した。まず最初に手を付けたのが、ネサワルコヨトルへの軍事援助とテスココ湖南部への出兵である。テスココを奪回したばかりのネサワルコヨトルはいまだ安定した勢力基盤を築き上げておらず、このためイツコアトルはネサワルコヨトルへの援軍としてテスココ湖東部のアコルワ人地域への出兵を行い、この地域をテスココの勢力範囲として確定させた。アコルワ人地域の制圧をもって、1431年にネサワルコヨトルはテスココ王に正式に即位した。一方テノチティトラン独自の動きとしては、テスココ湖南部のソチミルコ地域へ出兵し、この地域を完全にアステカの支配下においた。

歴史俯瞰

・・・・・つづく

下記の愚生が拙文にアクセス賜れば幸いです

メソアメリカの古代文明 “その繁栄と崩壊”

マヤ文明の揺籃  https://thubokou.wordpress.com/2014/01/02/ 15節

アステカ帝国の興亡 https://thubokou.wordpress.com/2014/01/17/ 29節

アンデス文明とインカ帝国 https://thubokou.wordpress.com/2014/02/17/ 14節

太陽の神話”の民のく闘争 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/02/ 12節

文字と伝承、そして 謎 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/14/  7節

 

・・・・ ついに明かされる!アステカ帝国滅亡の秘密! ・・・・・

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