シルクロード夜咄・運命の綾(5) 

= 騎馬民族との融和に嫁いだ皇紀 =

  香妃と文成公主 (前編)

夜咄ー15-1

カシュガルの阿帕克和卓麻扎(アパク・ホージャー・マーザー) 複合体で 中心をなす、最大の建物であり、最も重要な建築作品であるアパク・ホージャー廟は 私には側壁が妙に落ち着きがなく感じられる。

この廟は、ムハンマド・ユースフが 1670年に、自身の廟として創建したもので、その時 息子のアーファークは まだ 45歳であったが、

父の死後に跡を継ぐと 正嗣子の方が有名になり、1694年に世を去ると この廟を拡幅して、彼も この同じ廟に葬られている。

以降、 この廟はアパク・ホージャー廟と呼ばれるようになった。 私の側壁への違和感はこの為かも知れぬ。

ムハンマド・ユースフの一族もここに葬られたので、その総人数は 5代にわたる 72人、堂内に 現在残る墓碑は 58を数えられる。

また、この地方では 香妃墓(シアンフェイ・ムー)とも呼ばれていますが、墓碑の一つが、清の第 6代皇帝、乾隆帝の妃であった 容妃(イバルハシ)と混同された為です。

この地方、特に 南方のヤルカンドの人々は 熱狂的な香妃ファンで史実は史実として認めながらも、香妃は乾隆帝の慈愛で

死後 124名の衛兵が三年半の日時を費やて 北京から 父の下に嘆送したと信じているのです。

72歳を過ぎた井上靖さんも 香妃ファンでしょう。 この地を訪れ、ヤルカンドまで足を伸ばし、案内してくれるウイグルの美形を“香妃”の再来と錯覚するさまの狂信ぶりを 見事な作品に仕上げています。

されはともかく、“香妃/容妃”(イバルハシ)は肌に棗(ナツメ)の花の香りがあった。

夜咄ー15-2

カシュガルは、古代には疏勒国の国都であった。 タリム盆地周辺には古くからトカラ語系の人々が住んでいた。

彼らはコーカソイドではない。 彼らが建国した政権は多く、疏勒国もそのひとつです。

匈奴が強盛の時代には その間接支配を受けたが、中国が統一され、漢が西方に進出して西域都護府を設置すると、その勢力下に入った。 (紀元前二世紀の頃)

その後、漢の勢力が後退すると、柔然や突厥など北方民族の間接支配下に落ちたり、唐が安西都護府を設置すると、安西四鎮のひとつである疏勒都督府が置かれ、その支配下で閉塞していた。

疏勒はタリム盆地南部を通るシルクロード南路の要所であり、この地を訪れた唐の玄奘は疏勒を仏教が盛んな国であると記述している。

12世紀、蒙古族のテムジンがれのジンギスハーンとして蒙古高原の支配者に推戴され、彼の帝国はユーラシア大陸の東部から小アジアまで及び、インド地方を除く大モンゴル帝国と成った。

モグリースターン・ハン国(東チャガタイ・ハン国)はジンギスハーンの正嗣次男のジャガタイの血脈であり、騎馬遊牧民族の征服王朝である。

チャガタイの系譜を引く、トルファンの支配者・アヘナの子サイードが 1514年に カシュガルでハン(君主)位に就いた。 建国の祖・チャガタイ以降 チャガタイ・ハン国は大モンゴル帝国の皇位継承に絡む内紛が続き、

その影響を受けたチャガタイ・ハン国も内部の権力闘争は絶えなかった。 内紛の結果が東西への分裂であった。

西チャガタイ・ハン国ではイスラーム教徒が台頭し、イスラーム文化がタリム盆地に押し寄せていた。

西チャガタイ・ハン国の蒙古王族・貴族たちは 草原の遊牧生活を忘れ去り、各地の封建領主の生活に満足している凋落ぶりであった。

サイードが立位したのは こうした時代であった。

サイードは カシュガルの南南西約300キロのヤルカンドに定都した。

国政の中心をヤルカンドに設けた事で、ヤルカンド・ハン国と呼ばれ、ジンギスハーン一党の王国です。

その勢力は次第に拡大し、タリム盆地一帯の主要なオアシス都市だけでなく、最盛期には天山以北のバルハシ湖南岸や パミール高原以西のフェルガナ盆地にまで 勢力は及んだ。

しかし、統治集団内部の権力闘争や 何時しか浸透したイスラム教の黒山派と白山派の教派対立によって衰え、1680年に モスレム(イスラーム教徒)のムハンマド・ユースフが政権を確立していた。

サイード政権が また チンギスハーンのチャガタイ政権が この地を統治する以前、このタリム盆地はウイグル族が支配していた。 三世紀中頃 古代の疏勒国が、唐に解体させられた以降のことです。

夜咄ー15-3

751年7月から8月に掛けて、中央アジアのタラス地方(現在のキルギスタン領内)で 唐とアッパース朝の間で “タラス河畔”の戦闘が行なわれた。

西部へ西部へとその勢力を拡大する唐帝国、東部へとコーランと剣で領域を伸長させるアッパース朝。

唐は この“タラス河畔の戦い”で敗れ、パミール高原の東部域に後退した。

その後、蒙古高原に巨大な帝国を確立したウイグルに追われたモンゴル草原の勢力・カルルクが唐の勢力下で地番を築いて行く。

他方、“安史の乱”(755年)で唐を支援し 漢中に勢力を伸ばしたウイグル帝国は唐帝国を併呑しようとするが、天災と疫病の発生 また 内部闘争の虚をキルギスに突かれて崩壊した。

ウイグルの王族とウイグル人が大挙して、西に逃走した。 そして、9世紀の初頭には カルルクをパミール高原の西部域に追い落とし、また 土着のトカラ語系民族と混血し、天山ウイグル王国を建設した。

10世紀には、最初のテュルク系イスラーム王朝であるカラハン朝の勢力が パニール高原を越えてカシュガルに延び、カシュガルは、その王都となって 天山ウイグル王国と対峙していた。

唐はタリム盆地から撤退し、漢中は五胡十六国時代に変わっていた。

タリム盆地から漢中の勢力は消えるが、カシュガルの城市は 宋代には契丹族が建てた西遼に属し、元代にはチャガタイ・ハン国の陪都となり、明代には 上記・ヤルカンド・ハン国に属していた。

このような歴史のなかで カシュガールは、イスラーム化したウイグル人の中心的都市と変化していた。

清代に入ると、乾隆帝の新疆征服により、カシュガル直隷州が設置され、新疆南部を統治する参賛大臣が駐在した。

夜咄ー15-4

乾隆帝は戦いを好む皇帝であった。 清の第6代皇帝に即位したのは24歳。 1735年10月8日 に戴冠している。 皇帝として、領土を拡大して行った。

10回の外征を行なっている。 ジュンガル、雲南の金川、ヒマラヤ南麓のグルカに2回ずつ、回部、台湾、ビルマ、安南に1回ずつ計10回の遠征を“十全武功”と言って誇り、自分を十全老人と呼んでいた。

1736年の春、“香妃/容妃”はヤルカンド・ハン国の国祖・ムハンマド・ユースフの子であるアパク・ホージャーの孫そして生を受けた。 四代目の皇女として生まれた。

当時、ヤルカンド・ハン国は清朝に統治権を奪われ、毎年 清朝に貢賀し、燕京(北京)には強制使役に駆り出されたウイグルが多く滞在し、

また シルクロード交易に携わるウイグルが幾多生活の基盤を設け 回教寺院らしき館屋設け、圧政から逃避する拠り所にしていた。

花香る姫に成長した“香妃/容妃”は パミル高原から流れ来る莎車(ヤルカンド)川の川原が好きであった。 遠く天山山脈の雪嶺を望み、莎車(ヤルカンド)川の冷水は真夏でも砂漠を忘れさせた。

しばしば、襲い来る凶悪な竜巻すら、彼女には自分を守ってくれる守護神の使いだと思っていた。

いつしか “香妃/容妃”が発する棗(ナツメ)の花の香りが、彼女の美しさに輪をかけて 疆南部を統治する 清朝の代理人・参賛大臣の耳に入った。

1756年、乾隆帝は第二回目のジュンガル征圧の親征を行なった。

ジュンガル地方は完膚なきまでも破壊され、ジュンガルのオイラト・モンゴルやウイグル人で生き残った者はロシアや南方の莎車(ヤルカンド)・ホータンに逃散した。

≪ このジュンガルのジェノサイトは 紀行記“草原の道”・“最後の騎馬遊牧民国家・ジュンガリア”に     記載済み、閲覧下さい ≫

閉塞するヤルカンド・ハン国第四代君主は、莎車(ヤルカンド)城市に逃げ来る逃亡者を匿い、参賛大臣の目をごまかし 支援の手を差し向けたが、参賛大臣はこれを咎めた。

翌年になり、婚期の遅れていた“香妃/容妃”の婚儀が進められている中、

参賛大臣が新春の貢賀の折に“香妃/容妃”を伴ない、燕京(北京)宮廷に参内する旨 厳命した。

1760年、“香妃/容妃”は22歳、乾隆帝は49歳であつた。 乾隆帝は“香妃/容妃”に魅せられ、直ちに イタリア生まれのイエズス会の宣教師である絵師・ジュゼッペ・カスティリオーネに彼女の容姿を描かせた。

“香妃/容妃”は第15位の皇后として、以降28年間 乾隆帝の寵愛を受けている。

“香妃/容妃”は、燕京(北京)に住むウイグル族・イスラーム教徒の安住が確証されるまで 乾隆帝を拒み続けたと言う。

北京市内にあるモスク(回教寺院)の清真女寺・ 牛街礼拝寺などは宋・明時代の建立ですが、朽ち果てた寺院を修復し、名刹としたのは彼女の力でしょう。

1788年 “香妃/容妃”(イバルハシ)は54歳の時、病に倒れた。

彼女の遺体は 124名の衛兵が三年半の日時を費やて 北京からカシュガル 父の元に帰国したと “香妃ファン”は信じて、疑わない。 シルクロードのロマンです。

オイラートー3-2-

乾隆帝は 1796年2月9日に崩御した。 彼は“十全老人”と自称する武将であり、“文字の獄”と呼ばれる思想弾圧で多くの人々を処罰し、

禁書も厳しく実施した独裁者であったが、欧州列強を見据えた清帝国の確立者でもあった。 順治帝・雍正帝・乾隆帝と清帝国の全盛期は幕を閉じ、

愛新覚羅・溥儀(アイシンカクラ・フギ)がラスト・エンペラーとして最後の幕を切り落とした。 清朝皇帝の終焉は 1912年2月12日の事です。

尚、乾隆帝の陵墓は清東陵内の裕陵。 だが、中華民国期の1928年に国民党の軍閥孫殿英によって東陵が略奪される事件が起き“東陵事件”、

乾隆帝の裕陵及び西太后の定東陵は、墓室を暴かれ徹底的な略奪を受けた。 “香妃/容妃”(イバルハシ)も この陵墓近くに眠っていたと言う。

この事件は溥儀にとっては1924年に紫禁城を退去させられた時以上に衝撃的な出来事であり、彼の対日接近への布石にもなったと言われる。

夜咄ー15-6

ソンシェン・ガンボ(581年頃 – 649年)は、古代チベットの王。 伝説上では33代目とされるが、事実上の吐蕃の建国者です。

ラサを都として、領域を拡大。 チベット文字を制定し、インドや中国の文化を積極的に取り入れた。

十六清浄人法という道徳律や大小の宝石で十二位階に分けた位階を制定したりと、聖徳太子にも似たところがあります。

また、ネパールから王女ブリクティー・デーヴィー(タクリ王国の王女、赤尊公主)を妃に迎え、更に唐の太宗に頼んで、皇女の文成公主を息子・グンソン・グンシェン王(在位641-643)の妃に迎えている。

グンソン・グンシェン王が落馬事故死した後、63歳で重祚し、息子の未亡人・文成公主を自分の妃にした。 また、王はチベット人の妃も3人娶っていた。

ソンシェン・ガンボ王は吐蕃を発展させたが、晩年は功臣の処刑が続き、蘇族平定に大功のあった将軍や、蔵蕃を帰順へ導いた謀臣を粛清している。

・・・・・・・ さて 明日は 唐帝国が覇権を確立した太宗の時代にラサに下った皇女“文成公主”の話をしましょう。

彼女はラサに赴く折、頭髪に門外不出の“繭”を隠し持ち、ヒマラヤ近隣に絹を伝えたと言われています。

_____ 続く _____

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シルクロード夜咄・運命の綾(4) 

= 国政に翻弄された皇紀 =

江都公主と楚王公主 (後編)

チャガタイー3-2-4

翁帰靡(オゥキビ)・肥王が死ぬと、烏孫の貴人たちは共に先代の遺言に従い、岑陬の子の泥靡を立て 昆弥(コンビ:烏孫の君主号)に即位させ、狂王(キョウオウ)と号した。

狂王は楚王公主・解憂を娶り、その間に鴟靡を生んだ。

≪楚王公主・解憂は 岑陬・軍須靡と一女少夫を生み、翁帰靡・肥王と三男二女を授かった後 三番目の夫・狂王と一男を産んでいる ≫

この頃、漢の李広利将軍が匈奴に降り、霍光将軍が匈奴を追い詰めていた。 また、漢帝国は楼蘭王を謀殺し ハミ・鄯善を併呑して、鄯善に西部地域所管の西域護府を設けていた。

因みに、李陵の匈奴への投稿を弁護した司馬遷が宮刑から回復し、『史記』の執筆を開始したのは この前後です。

漢の宣帝は、本始三年(紀元前71年) 西域護府から衛司馬(外交部;官職名)の魏和意と副侯の任昌に 楚王公主・解憂の要望で侍子を送らせるべく2人を派遣した。

到着した漢の官吏に解憂公主は 狂王に患わしく、苦しめられていると告白した。

魏和意と任昌は 公主の憂いを取り除くべく 狂王を暗殺することを共に謀った。

狂王が催した歓迎の宴・宴会の席で 魏和意と任昌は狂王に斬りかかるが、失敗し、狂王は負傷しただけで馬に乗って逃げ去った。

狂王の子の細沈瘦(胡婦との正嗣)は魏和意と任昌及び公主を赤穀城にて包囲した。

数ヵ月後、西域都護の鄭吉が諸国の兵を発してこれを救った。 漢は中郎将の張遵を遣わして狂王を治療させ、金20斤を賜っている。

魏和意と任昌は長安に連行され斬首された。 車騎将軍・長史の張翁(張騫の子)は公主らに狂王暗殺の尋問をした際、公主・解憂の頭をつかんで罵った。

解憂公主はこのことを 宣帝皇帝に上書したので、張翁は逆に死刑となった。

肥王・翁帰靡(オゥキビ)と胡婦との子である烏就屠は、狂王が負傷した時に、諸翕侯(諸豪族)とともに アルタイ山脈に避難していた。

烏就屠はアルタイの北山中にて、母家である匈奴に帰順し、狂王を襲撃して殺し、自ら立って昆弥(君主)となった。 紀元前68年の頃です。

この狂王殺害事件を知った漢王府は 破羌将軍の辛武賢を派遣してこれを討たせたが、西域都護の鄭吉が馮夫人(肥王・翁帰靡の皇后、烏就屠の生母)に烏就屠を説得させたので、烏就屠は帰順した。

以降 烏就屠の血脈が小昆弥(コンビ)政権として烏孫領内東部を支配していく。

漢は新たに元貴靡(肥王・翁帰靡の正嗣長子)を大昆弥、烏就屠を小昆弥とし、烏孫の君主を二つに分け、さらにその人民も二つに分け、長羅侯(官職名)の常恵に赤穀城にて監督させた。

夜咄ー14-1

イシク湖湖畔に閉塞した大昆弥政権下で過ごす楚王公主・解憂は、甘露3年(紀元前51年) 靡や鴟靡がみな病死したので、遺骸を漢の地に埋めたいと 宣帝に上書している。

漢の皇帝・宣帝は公主・解憂の上告を受け入れ 解憂の孫三人とともに漢への帰国を許し、解憂は田宅と奴婢を賜っている。 楚王公主・解憂 公主はその2年後に亡くなった。

その後 漢帝国は内紛の時代を向かえ、王莽が哀帝を殺害し帝位を奪うのは50年後の事です。 王莽は西域経営には勢力を注がず 東西に分裂した匈奴は再び その勢力を盛り返していく。

烏孫はその狭間で 強大な帝国となった西匈奴に併呑され 何時しか 都・赤穀城はイシク湖の湖底に沈んでしまった。

日本人には馴染みの王昭君は、東匈奴の呼韓邪単于に嫁ぎ 夫・呼韓邪(オカンヤ)から生涯に渡る献身的な愛で身を包まれた皇后(カトゥン)です。

楊貴妃・西施・貂蝉と並ぶ古代中国四大美人の一人に数えられ、“昭君”と呼ばれている。 彼女が嫁いだのは楚王公主・解憂が他界の15年後の事です。

勿論、王昭君も呼韓邪単于が亡くなり、匈奴の習慣に習い息子の復株累若鞮単于の妻になっている。

そのとき、王昭君は、反発したが漢王朝から命令されしぶしぶ妻になったと記述があり、この話が日本に伝わり 『今昔物語集』に、戯曲や小説の世界で創作意欲を掻き立てている。

・・・・・・・ この 北方遊牧民が 歴史上だ活躍した時代背景としての蛇足を 下記に・・・

夜咄ー14-2

李陵の禍

前漢にとって異民族との争いは重要な問題だった。

司馬遷が『史記』に取り組み始めた太初元年は西域征伐に取り掛かり始めた年でもあり、将軍李広利による遠征によって太初四年(前101年)に区切りがつくと、今度は匈奴に眼が向けられた。

匈奴の且鞮侯単于は当初こそ従順な態度を見せた。 しかし翌年、漢の使者を迎えた匈奴の態度は高慢で、しかも悪いことに単于の母への脅迫的工作が露見してしまい、漢と匈奴の関係は悪化した。

天漢二年(前99年)に武帝は派兵を決断したが、ここで李陵が単独行動を願い出た。

武帝は 李陵に出陣を許し 騎都尉に任命して 漠北で苦戦を続けている貮師将軍・李広利の軍を助けるために 五千の歩兵を率いて出陣させた。

李陵は敵地深くに入って情報収集などに成果を挙げた。

しかし、李広利将軍を合流する前に 単于が率いる匈奴の本隊三万を超える匈奴の敵軍と遭遇し包囲されてしまった。 李陵は激しい戦いを繰りながら 進路・退路を求め続けた。

李陵の祖父・李広は文帝・景帝・武帝に仕えた悲運の将軍として知られた人物であった。 父の李当戸は武帝の寵臣であった韓嫣を殴打した剛直の士であった。

李陵は父の李当戸が若くして逝去した後に生まれた子供である。

李陵は激しい戦い、退却を続け 戦闘に入り、獅子奮迅の働きを見せ、李陵軍は 六倍の相手に一歩も引かず八日間にわたって激戦を繰り広げ、匈奴の兵一万を討ち取った。

李陵は 時を見て、そのことを部下の陳歩楽を遣わして、武帝に報告させた。 また、貮師将軍・李広利への連絡を図った。

戦闘は 未だに継続していた。 さすがに李陵軍も矢尽き刀折れ、やむなく降伏しなければならなくなった。

匈奴に打撃を与えた彼であったが、矢も尽き裏切りもあって、ついに 李陵は投降の道を選んだ。

李陵が匈奴に降伏したとの報告を聞いた武帝は激怒し、郎中に任命されていた陳歩楽を問詰し、陳歩楽は自決した。

武帝の方針に反して申し出た戦いに敗れた限り自刃すべきところを、李陵が投降したという報に触れ、怒った武帝は臣下に処罰を下問した。

群臣も武帝に迎合して李陵は罰せられて当然だと言い立てた。

皆が李陵を非難する中、司馬遷はただ一人彼を弁護した。 司馬遷は強弁した。

李陵の勇戦と無実を訴えた。 が、

武帝は司馬遷を李広利を誹るものとして宮刑に処すことを厳命した。

匈奴ー2-1-

司馬遷は、李陵の人格や献身さを挙げて国士だと誉め、一度の敗北をあげつらう事を非難した。

5000に満たない兵力だけで匈奴の地で窮地に陥りながらも死力をふりしぼり敵に打撃を与えた彼には、過去の名将といえども及ばない。

自害の選択をしなかった事は、生きて帰り、ふたたび漢のために戦うためであると 友・李陵を弁護した。

しかしこれは逆効果だった。

意に反する李陵の擁護が投げかけられた上、司馬遷が言う「過去の名将」のくだりを、武帝は対匈奴戦で功績が少なく、

李陵を救援しなかった寵妃・李夫人の兄である李広利将軍を非難しているものと受け止めた。

武帝の命によって、即座に司馬遷は、獄吏に連行された。 高官であったが、司馬遷には賄賂を贈れる程の財力は無く、友人の中にも手を差し伸べる者はいなかった。

だが、天漢三年(前98年)になると武帝も考えを改め、逃げ延びた部下に恩賞を与え、李陵を救う手を打ったがこれは成功しなかった。

ところが、ある匈奴の捕虜から、李陵が匈奴兵に軍事訓練を施しているとの誤報がもたらされ、事態は一変した。

武帝は激怒し、李陵の一族は全て処刑された。 そしてこの累は司馬遷にも及び、彼には宮刑(腐刑)が 即刻 処された。

この処罰は、司馬遷にとって大変な屈辱だった。 彼は、人の身に降りかかる様々な恥辱の中でも腐刑は最低なものだと言った。

そして、宮刑に処された者はもはや人間として扱われない存在だと述べた。

ここまでの絶望に晒されながらも、司馬遷は自害には走れなかった。

彼には、父の遺言でもある『史記』の完成という使命を前に、耐えて生きる道を選んだ。

・・・・・・・ 司馬遷は 記述している・・・・・・・

「自分は死を恐れない。 あの事件の時、死を選ぶのは実に簡単だったが、もし死んでしまっては自分の命など九頭の牛の一本の毛の価値すらなかった。

死ぬことが難しいのではない、死に対処することが難しかったのだ。 死んでしまえば史記を完成させることが出来ず、仕事が途中のままで終わるのを自分はもっとも恥とした」

更に、「今の自分はただ、『史記』の完成のためだけに生き永らえている身であり、この本を完成させることが出来たなら、自分は八つ裂きにされようともかまわない。」

匈奴ー2-4-

匈奴に投降した李陵は、

李陵の才能と人柄を気に入った且鞮侯単于は李陵に部下になるように勧めるが李陵は断っていた。

だが ある夜、李陵は 武帝が“匈奴の捕虜から「李将軍」が匈奴に漢の軍略を教えている”と聞かされて激怒し、

李陵の妻子をはじめ、祖母・生母・兄と兄の家族、そして従弟の李禹一家らをまとめて皆殺しにした事実を 且鞮侯単于から聞かされた。

しかし 実際には「李将軍」とは、李陵より先に匈奴に帰順した漢人の李緒という将軍のことであると且鞮侯単于は言った。

一族の非業の死に嘆き悲しんだ李陵は憤慨し、その李緒を殺害した。

李陵は後に且鞮侯単于の娘を娶って、その間に子を儲けた。

彼はそのまま匈奴の右校王となり、紀元前74年に没した。

匈奴の王女との間に儲けた李陵の子は、呼韓邪単于の時代に別の単于を立てて呼韓邪単于に叛き、呼韓邪単于に斬られている。

李陵の生前の事、かつて匈奴へ使節として赴いた人物の中で、李陵とは対照的に漢に忠節を貫く頑な態度を取ったのが、かつて李陵とともに侍中として武帝の側仕えをした蘇武であった。

蘇武は呼韓邪単于の逆鱗に触れ、蒙古高原の北方に幽閉され 帰国を許されなかった。 李陵は節を全うしようとする蘇武を陰から助けているのです。

匈奴ー2-3-

匈奴ー4-1-

_____ 続く _____

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