アステカ / 解明される王国の謎 =6/6=

Ӂ 長期連載:探検的・冒険的行動で世界を視座するフィルドワーク Ӂ

【この企画はナショジオ記載文趣“古代文明・歴史・冒険・探検”にその背景を追記・補講した】

〇●  解明される“アステカ”王国の謎/テンプロ・マヨール遺跡  ●〇

 メキシコシティに残るアステカのピラミッド「テンプロ・マヨール」

数多くの生け贄が捧げられた憲法広場の近く大神殿で、“血の儀式”の跡を見た

◎ アステカ 解明される王国の謎 =6/6= ◎

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   2007年5月にトランクほどの大きさの奉納物を入れた箱が発掘された。「奉納物の配置は一見すると乱雑のようですが、実はすべてが独自の世界観に従っています。それに基づいた配置パターンを探るのに苦労しました。考古学者レオポルド・バトレスが20世紀初めにここで発掘を行ったとき、彼の関心はもっぱら出土品でした。それが彼の戦利品だったのです。しかし、32年間の調査を通じて私が得た結論は、重要なのは品物ではなく、それらの位置関係だということです」

それでも出土した品々は、メキシコにとってまたとない文化財だった。それ以前の貴重な品々は、征服者がスペインに持ち去り、そこからヨーロッパ各地に散逸してしまったからだ。新しく発見された奉納物は芸術的価値もさることながら、細部にこだわるアステカ人の特徴を伝えるものだった。それは先の見えない国の状況を反映していたのかもしれない。神々を慰撫(いぶ)して世界を存続させられるかどうかは、王国が拡大を続け、負担の増大に耐えうるかにかかっていた。

だが、王国は持ちこたえられなかった。カラスコはこう説明する。「アステカ王国は領土を外へ押し広げるあまり、自分たちが辺境になるという皮肉な事態に陥ったのです。補給線が伸びすぎて兵士たちを輸送するのも、食料を届けるのも難しくなり、交易商人たちも保護できない。国の維持に費用がかさみ、アステカ人はそれを支えきれなくなりました」

スペイン人到来の10年ほど前から、アウィツォトルの後継者として第9代の王を務めるモクテスマ2世は幻影や不吉な予兆に悩まされていた。黄金とトルコ石の輝く王冠をいただき、19人の子どもに恵まれ、珍奇な動物や奇形の人間を集めた動物園を建設するなど権力は強大だったが、ほかならぬアステカ人独自の世界観が不安を呼んだ。ある絵文書によると、1509年に「空に不吉な予兆があった。それは真っ赤なトウモロコシにも似ており……傷口から一滴、また一滴と血がしたたるように、切りさかれた空から炎がにじみ出してきた」

モクテスマ2世の不安は的中する。カラスコの言葉を借りれば、「過重な貢物とアステカ軍の攻撃に不満をもった被支配地で、5万人を超える規模の反乱が発生した」のだった。そして1519年、ベラクルスの港にコルテス率いる500人のスペイン人部隊が到着する。もし、アステカに対する反乱の機運がなかったなら、銃や大砲で武装して馬を連れていたとはいえ、無勢のスペイン人が強大なアステカ人の対抗勢力になることはなかったはずだ。

遺構-2

 ところが11月8日、コルテスの部隊は数千名のトラスカラ同盟軍の先導でテノチティトランに入城する。湖に浮かぶ壮麗な大都市に、スペイン人は驚愕(きょうがく)した。「これは夢ではないかと尋ねる兵士もいた」という証言が残っている。しかし、彼らは強大な権力を持つ王に対してはさほどひるんだ様子を見せなかった。行く末を心配していたのはむしろモクテスマだったかもしれない。

メソアメリカでは、髭(ひげ)を蓄えた偉大な神ケツァルコアトルが船に乗って帰還し、支配者として返り咲くと信じられていた。そのことが頭から離れなかったモクテスマは、コルテスに「ケツァルコアトルの財宝」を与える。それは全身をおおう衣装で、「トルコ石をちりばめた大蛇の仮面」がついていた。ケツァルコアトルは羽根の生えた大蛇の姿だとされていたからだ。

だが、モクテスマは本当にコルテスをケツァルコアトルの再来と信じていたのだろうか? それとも神の装いをさせて、すぐに生け贄にするつもりだったのか? モクテスマのこの行動は、アステカ王国最後の謎の一つだ。それからテノチティトランは血の海となり、1521年にアステカ王国は滅びた。

「私たちはさらに深く発掘を続けています。アウィツォトルの墓はいずれ見つかるでしょう」と、ロペス・ルハンは自信をのぞかせる。だが、考古学者がどんなに土を掘り返しても、アステカをめぐる謎の核心部分を見つけることはできないだろう。しかし、感じることはできる。それは沼地から一大王国を築き上げたアステカ人の精神だ。原始的ながら威厳に満ちた彼らの不屈の精神は、現在のメキシコ人の中に確かに息づいている。

//////参考資料///////

Ӂ アステカ(Azteca)王国慨史 6/6 Ӂ

コルテスの不在中に、トシュカトルの大祭が執り行われた際、アルバラードが丸腰のメシーカ人を急襲するという暴挙に出た。コルテスがテノチティトランに戻ると大規模な反乱が起こり、仲裁をかって出たモクテスマ2世はアステカ人の憎しみを受けて殺されてしまう。1520年6月30日、メシーカ人の怒りは頂点に達し、コルテス軍を激しく攻撃したので、コルテスは命からがらテノチティトランから脱出した。この出来事をスペイン人は「悲しき夜」と呼ぶ。王(トラトアニ)を失ったメシーカ人はクィトラワクを新王に擁立して、コルテス軍との対決姿勢を強めた。7月7日、オツンバの戦い

1521年4月28日、トラスカラで軍を立て直し、さらなる先住民同盟者を集結させたコルテスはテテスコ湖畔に13隻のベルガンティン船を用意し、数万の同盟軍とともにテノチティトランを包囲した。1521年8月13日、コルテスは病死したクィトラワク国王に代わって即位していたクアウテモク王を捕らえアステカを滅ぼした。

その後スペインはアステカ帝国住民から金銀財宝を略奪し徹底的に首都・テノチティトランを破壊しつくして、遺構の上に植民地ヌエバ・エスパーニャの首都(メキシコシティ)を建設した。多くの人々が旧大陸から伝わった疫病に感染して、そのため地域の人口が激減した。 その犠牲者は征服前の人口はおよそ1100万人であったと推測されるが、1600年の人口調査では、先住民の人口は100万程度になっていた。スペイン人は暴虐の限りを尽くしたうえに、疫病により免疫のない先住民は短期間のうちに激減した。

人身御供

※ 人身御供 : アステカ社会を語る上で特筆すべきことは人身御供神事である。人身御供は世界各地で普遍的に存在した儀式であるが、アステカのそれは他と比べて特異であった。メソアメリカでは太陽は消滅するという終末信仰が普及していて、人間の新鮮な心臓をに奉げることで太陽の消滅を先延ばしすることが可能になると信じられていた。

そのため人々は日常的に人身御供を行い生贄になった者の心臓を神に捧げた。また人々は神々に雨乞いや豊穣を祈願する際にも、人身御供の神事を行った。アステカは多くの生贄を必要としたので、生贄を確保するために戦争することもあった(花戦争)。

ウィツィロポチトリに捧げられた生贄は、祭壇に据えられた石のテーブルの上に仰向けにされ、神官達が四肢を抑えて黒曜石のナイフで生きたまま胸部を切り裂き、手づかみで動いている心臓を摘出した。シペ・トテックに捧げられた生贄は、神官達が生きたまま生贄から生皮を剥ぎ取り、数週間纏って踊り狂った。人身御供の神事は目的に応じて様々な形態があり、生贄を火中に放り込む事もあった。

現代人から見れば残酷極まりない儀式であったが、生贄にされることは本人にとって名誉なことでもあった。通常、戦争捕虜や買い取られた奴隷の中から、見た目が高潔で健康な者が生贄に選ばれ、人身御供の神事の日まで丁重に扱われた。神事によっては貴人や若者さらには幼い小児が生贄にされることもあった。

幻想神域

・・・・・つづく

下記の愚生が拙文にアクセス賜れば幸いです

メソアメリカの古代文明 “その繁栄と崩壊”

マヤ文明の揺籃  https://thubokou.wordpress.com/2014/01/02/ 15節

アステカ帝国の興亡 https://thubokou.wordpress.com/2014/01/17/ 29節

アンデス文明とインカ帝国 https://thubokou.wordpress.com/2014/02/17/ 14節

太陽の神話”の民のく闘争 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/02/ 12節

文字と伝承、そして 謎 https://thubokou.wordpress.com/2014/03/14/  7節

・・・・・【アステカ神話】アステカ神話の雨と稲妻の神、トラロックを解説! ・・・・・

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