騎馬遊牧民族の移動・匈奴 (6)

= 漢の劉邦が恐怖した匈奴の勃興と衰退 =

匈奴ー6-1-

建始2年(前31年)、呼韓邪単于は臨終の際、第1閼氏(皇后;顓渠閼氏)の子である且莫車を世継ぎと考えていた。

顓渠閼氏が「且莫車はまだ若く、民衆が附かないので、国を危ぶむ恐れがある」と言い、妹である第2閼氏(皇后;大閼氏)の子の雕陶莫皋を立てようと策動していた。

呼韓邪単于が死去すると、顓渠閼氏の意見が採用され、雕陶莫皋が立って復株累若鞮単于となった。 これ以降、単于位は弟に継がせることを規則として 内部抗争を回避する。

復株累若鞮単于(ブクシュルイニャクタイゼンウ 在位;紀元前31年ー前20年)は 子である右致盧児王の醯諧屠奴侯を漢に入侍させ、次弟の且麋胥を左賢王とし、三弟の且莫車を左谷蠡王とし、四弟の囊知牙斯を右賢王とした。

また、復株累若鞮単于は 父・呼韓邪単于の妃王昭君を娶り、須卜居次と当于居次の2女を得  漢に臣下するような外交策を採り続け、生涯をまっとうしている。

単于は即位10年の鴻嘉元年(前20年)に死去した。 規則により弟の左賢王且麋胥が立ち、捜諧若鞮単于となる。 王昭君の存在が 匈奴と漢の関係を友好にしていた。

捜諧若鞮単于(シュウガイニャクタイゼンウ 在位 紀元前20年-前12年)は、復株累若鞮単于の弟。 建始2年(前31年)、兄の復株累若鞮単于が即位すると、王位継承の規則により次の弟であった且麋胥は左賢王に任ぜられていた。

鴻嘉元年(前20年)、復株累若鞮単于が死去し、左賢王であった且麋胥が捜諧若鞮単于として即位した。 捜諧若鞮単于は子の左祝都韓王である留斯侯を漢に遣わして入侍させ、弟の且莫車を左賢王と 政権を固めた。

元延元年(前12年)、捜諧若鞮単于は明年の元延2年(前11年)に入朝するという手続きをしたが、その年に病死してしまう。 弟の左賢王且莫車が立ち、車牙若鞮単于となった。

車牙若鞮単于(シャゲニャクタイゼンウ  在位;紀元前11年-前8年)は、子の右於涂仇撣王である烏夷当を漢に遣わして入侍させ、弟の囊知牙斯を左賢王に任命し、漢帝国への人質提出は君主の長子であり、次男が父の事跡を継ぐ穏便な王位継承が繰り返されている。

綏和元年(前8年)、車牙若鞮単于は在位8年で死去し、左賢王の囊知牙斯が立って烏珠留若鞮単于となった。

他方 烏珠留若鞮単于の時代、漢では新都侯の王莽が政権を掌握し、事実上の支配者となっていた。

匈奴ー6-2-

烏珠留若鞮単于(ウシュルニャクタイゼンウ 在位:紀元前8年-13年)が 新・王莽政権に反旗を振り始めるのですが・・・・

元延元年(前12年)、兄の車牙若鞮単于が即位すると、嚢知牙斯は左賢王に任ぜられる。

綏和元年(前8年)、車牙若鞮単于が死去し、左賢王の嚢知牙斯が烏珠留若鞮単于として即位し、直ちに 烏珠留若鞮単于は弟の楽を左賢王に任命し、第5閼氏の子の輿を右賢王に命じ、また、子の右股奴王である烏鞮牙斯を漢に遣わして入侍させた。

漢は中郎将の夏侯藩、副校尉の韓容を匈奴に派遣して、烏珠留若鞮単于を追認している。

綏和2年(前7年)、侍子の烏鞮牙斯が死去したので、烏珠留若鞮単于はふたたび子の左於仇撣王である稽留昆を 入侍させ人質として送っている。

建平2年(前5年)、烏孫王の庶子である卑援疐が 諸侯などを率いて匈奴の西部に侵入し、牛などの家畜を盗んだ上 多くの人民を殺した。

烏珠留若鞮単于はこれを聞くと、左大当戸の烏夷泠に5千騎を率いさせて烏孫を撃たせ、数百人を殺し、千人あまりと、牛などの家畜を奪い去った。

卑援疐はこれに恐れをなし、子の趨逯を匈奴への人質とした。 烏珠留若鞮単于はその人質を受けとり、このことを漢に報告したのです。 しかし、漢は中郎将の丁野林、副校尉の公乗音を派遣して その人質を返すよう告げてきた。 烏珠留若鞮単于は 己の統治に 深く携わる漢に不信を抱き始める。

建平4年(前3年)、烏珠留若鞮単于は上書して明年の建平5年(前2年)に入朝すると報告した。 しかし 翌年の建平5年、烏珠留若鞮単于は病のため、入朝を次の年に延ばしている。

 

元寿2年(前1年)に、烏珠留若鞮単于は ようやく漢に入朝し、衣370襲、錦帛3万匹、絮3万斤を賜って帰庁しているのですが、 元始2年(2年)、車師後王の句姑・去胡来王の唐兜が 西域都護と戊己校尉(漢の執政官吏)の仕打ちを怨み、妻子人民を率いて匈奴に亡命してきた。

烏珠留若鞮単于は彼らを受け入れ、左谷蠡王の地に住まわした。 単于は漢へ この事を報告した。  漢の宮廷は 書中郎将の韓隆・王昌、副校尉の甄阜、侍中謁者の帛敞、長水校尉の王歙を 匈奴に派遣して「西域は漢に内属しているから受け入れてはならない」と伝えさせた。

しかし 烏珠留若鞮単于は「外国だからいいのではないか?」と意見したが、漢の使者たちが「漢の恩義を忘れたのか」と詰め寄る。 烏珠留若鞮単于は自分の頭を叩いて謝罪し 漢の指示に従っている。

烏珠留若鞮単于は2人の王を護送した際、2人の赦免を請うたが、時の権力者である新都侯の王莽は車師後王と去胡来王を見せしめとして誅殺させている。 さらに 王莽は、以下の4条を烏珠留若鞮単于に承認させ 取り決めた。

・中国人の亡命者を受け入れてはならない。
・烏孫人の亡命者・投降者を受け入れてはならない。
・西域諸国で中国の印綬を受けた者の投降者を受け入れてはならない。
・烏桓人の投降者を受け入れてはならない。

後日、王莽が 中国では2文字の名を1文字に改めるよう奏上したのが、烏珠留若鞮単于にもそのことが伝えられ、烏珠留若鞮単于は本名である“嚢知牙斯”を改めて“知”と称すようになった。

さらに、王莽によって 今まで烏桓から貢納されてきた皮布税を停止させられた。 これが原因で、匈奴と烏桓の間で争いが起きた。 烏珠留若鞮単于は左賢王に命じて烏桓に侵攻させ、多くの烏桓人を殺させている。

儒教信奉者である王莽は 執政の最高権力として 夷狄蔑視に基づく政策を推し進める。

呼韓邪単于以来、漢の保護下に入っていた匈奴は 王莽の諸政策を認めるしかなかった。

始建国元年(9年)、王莽が帝位を簒奪、漢を滅ぼし を建国した。

新の皇帝と成った王莽は 直ちに 五威将の王駿と甄阜・王颯・陳饒・帛敞・丁業の6人を匈奴へ派遣し、単于が持っている古い印綬と新しい印綬を取り換えさせた。

後日、烏珠留若鞮単于が もとの印綬がほしいと言った折、すでに砕かれており、戻すことはでりぬ の返答だったと言う。

匈奴ー6-3-

一連の王莽による政策に不満を感じていた烏珠留若鞮単于は 翌年(紀元10年)、

西域都護に殺された車師後王須置離の兄である狐蘭支が民衆2千余人を率い、国を挙げて匈奴に亡命してきたとき、取り決めの条項を無視してこれを受け入れた。

亡命して来た狐蘭支は 匈奴の兵と共に新領内へ入寇し、車師を撃って西域都護と司馬に怪我を負わせた。

この新への侵略の折時に 戊己校尉史の陳良・終帯、司馬丞の韓玄、右曲候の任商らは西域の反乱見て、戊己校尉の刀護を殺し、匈奴に投降している。

韓玄と任商は南将軍所に留まり、陳良と終帯は単于庭に至り、烏珠留若鞮単于より烏桓都将軍に任ぜられた。

烏珠留若鞮単于は 2人を単于庭(首都)に留め、何度か飲食を共にし 勇者を歓迎した。

始建国3年(紀元11年)、西域都護の但欽は上書して「匈奴南将軍の右伊秩訾が人衆を率い、諸国を寇撃しようと企んでいる」と報告した。 度重なる不穏な動向に

夷狄蔑視の新皇帝・王莽は 15人の単于を分立させ 分断隔離で匈奴領内を統治しようと考え その政策を実行に移した。

中郎将の藺苞、副校尉の戴級に兵1万騎を率いさせ、多くの珍宝・財貨を持たせ 雲中塞下(山西省北部の長城附近)に至り、呼韓邪単于の諸子・諸王を招き寄せた。

やって来たのは右犁汗王の咸(単于の異母弟)と、その子の登と助の3人で、使者はとりあえず咸を拝して孝単于とし、助を拝して順単于とし、 使者たちは 助と登を長安に連れ帰った。

この事を聞いた烏珠留若鞮単于は ついに激怒し、左骨都侯で右伊秩訾王の呼盧訾、左賢王の楽らに兵を率いさせ、雲中(山西省・黄河中流域)に侵入して大いに吏民を殺させたのです。

この始建国4年の事件にて、呼韓邪単于以来続いた中国との和平は決裂する。 この後、匈奴はしばしば新の辺境に侵入し、殺略を行うようになった。

また 王莽の蛮族視政策は西域にも及んだため、西域諸国は中国との関係を絶って、匈奴に従属する道を選んだ。

武帝が確立した河西回廊・西域諸国の経営は崩壊し シルクロードがもたらす富は匈奴の社会を潤ませるのです。 が、匈奴社会を分裂させる遠因に成って行きます。

始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于は即位21年で死去し、王莽によって立てられた孝単于の咸が後を継いで烏累若鞮単于となる。

匈奴ー6-4-

始建国5年(13年)、烏珠留若鞮単于は即位21年で死去し、王莽によって立てられた孝単于の咸が後を継いで烏累若鞮単于(ウルニャクタイゼンウ 在位:13年-18年)となった。

烏累若鞮単于は初め、新朝と和親を結ぼうとしたが、長安にいるはずの子の登が王莽によって殺されていたこと(始建国4年・紀元12年)を知り、激怒し 清朝への不信で 侵入略奪を絶えず行うようになった。

王莽は 王歙に命じて登および諸貴人従者の喪を奉じて塞下(長城附近の王庭)に至らせると、匈奴の国号を“恭奴”と改名し、単于を“善于”と改名させ 懐柔するが、 しかし 烏累若鞮単于は王莽の金幣を貪る一方、寇盗も従来通り行い 王莽を翻弄させる。

天鳳5年(18年)、烏累若鞮単于は即位5年で死去し、弟である左賢王の輿が立ち、呼都而尸道皋若鞮単于(コツニシドウコウニャクタイゼンウ:在位 18年-46年)が戴冠した。

王莽は周代の治世を理想としたが、現実性に欠如した各種政策は短期間で破綻、貨幣の流通や経済活動も停止したため民衆の生活は漢末以上に困窮した。

また匈奴や高句麗などの周辺民族の王号を取り上げ、中華思想に基づく侮蔑的な名称(「高句麗」を「下句麗」 「匈奴」を「恭奴」など)に改名しようとしたことから周辺民族の叛乱を招き、それを討伐しようとしたが失敗する。

さらには専売制の強化なども失敗、新は財政も困窮した。 生活の立ち行かなくなった農民の反乱【赤眉の乱】が続発。

王莽が南陽郡で擁立された劉玄(更始帝)を倒そうと送った100万の軍勢も昆陽の戦いで劉玄旗下の劉秀(光武帝)に破られ、これで各地に群雄が割拠して大混乱に陥る。

遂には頼む臣下にも背かれて、長安城には更始帝の軍勢が入城、王莽はその混乱の中で杜呉という者に殺された。 享年68歳。

これにより新は一代限りで滅亡した。 王莽の首級は更始帝の居城宛にて晒され、身体は功を得ようとする多くの者によってばらばらに分断されたという。

地皇4年(23年)9月のことです。 新朝が滅亡した。 更始将軍の劉玄は皇帝に即位し、漢を復興する(更始朝・後漢)。 匈奴の社会も 大変革期を迎えた。

一部の匈奴部族は草原の道を西に走り、カスピ海から東欧に侵攻して行く。

匈奴の王室と漢の王室の血を引く 皇子が覇権を確立して行くのです。

匈奴ー5-3-

_______ 続く _______

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