シルクロード夜咄・四駿四狗 (5)

= 成吉思汗の四駿四狗(シシンシク) =

大蒙古帝国の建築者チンギス・ハーンに仕え、 『元朝秘史』において 「4頭の駿馬・4匹の狗」

  と讃えられた大ハーンの優秀な側近達を称す

・-・-・-・-・-・ ジュペ将軍 ・-・-・-・-・-・

夜咄ー5ー1

 ナイマンのグチュルクはかろうじて逃れることができ、ビシュバリク(ウルムチ北郊)を経由してクチャ地区へと逃亡、そこからトルキスタン一体の大カン・チルク・カンの朝廷であるカラ・キタイ(西遼)の城都を彷徨う。

グル・カンは グチュルクの弁舌に惑わされ、居住を許し グチュルクを歓迎するとともに、その娘を与えて娶らせた。

チルク・カンはもっぱら狩猟と快楽に耽り、政治を衰退させたため、カラ・キタイの属国は離反を模索する政情が長く続いていた。

すでに一定の地位を築いていたグチュルクに王位簒奪の機会を与える迂闊さと愚慮がチルク・カンにはあり、王妃もグチュルクに誑かされていた。

グチュルクはまず、チルク・カンにイミル、カリヤク、ビシュバリクの地方に流浪しているナイマンの残党を糾合し、チルク王のお供をさせたいと願い出て、チルク・カンから「グチュルク・カン(強大なる君主)」の称号を拝受すりと
グチュルクはナイマン残党を集め、メルキトの首長もこれに加え、ホラズムとペルシャのスルターンであるアラーウッディーン・ムハンマド(在位:1200年-1220年)に協力を仰ぎ、カラ・キタイ攻撃の準備を整えた。

ホラズム軍はカラ・キタイに侵入し、カラ・キタイの将軍ターヤンクーを破った。

1211年/1212年、グチュルクは混乱に乗じてチルク・カンを急襲し、その身柄を確保し 牢獄に幽閉した。

皇妃はただ呆然と事態を眺め、幽閉された父王に食事を運ぶだけだったと言う。

こうして、グチュルクはカラ・キタイの王位を簒奪した。 チルク・ハンは翌年の1213年に 獄死する。 皇妃が運んだ果物にグチュルクが毒を含ませていたと言う。 しかし、グチュルクは「皇帝」の称号を名乗らなかった。

カラ・キタイの王位を獲得したグチュルクはアルマリク(天山西方、ウズペキスタン)の君主・オルザを服従させようとして、何度か兵を進め、遂に彼が出猟中に奇襲して殺害した。

時に、グチュルクの皇妃は仏教徒であった。 キリスト教徒であったグチュルクを説得して仏教に改宗させる。 仏教徒となったグチュルクは武力によって 支配地域の住民を仏教かキリスト教に改宗させて行った。

タクラマカン砂漠南域・西域街道のホータンを支配すると、ムスリム(イスラム教徒)住民を無理矢理 改宗させようとした。 また、イマーム(宗教的指導者)たちの首領であるアラー=ウッディーン・ムハンマドを拷問の末、磔の刑に処し、イスラームを棄てさせようとした。

グチュルクの侵略は このように 周辺諸国に警戒心を植え付けて行った。

天山山脈東方のトルファン盆地に その基盤を置く天山ウイグル王国のバルチュク・アルト・テギン国王は、1210年 勃興著しいチンギス・ハーンに使者を送り 支援を求めた。

チンギス・ハーンは義憤を覚え、直ちに 四狗と呼ばれるチンギス・ハーンの功臣・ジュペ将軍を覇権した。

グチュルクはジュペに追われ、天山山脈の山中に逃亡 しかし 猟師に殺害されてしまう。

その後、天山ウイグル王国はモンゴル帝国に帰順し ジュチなどチンギスの四人の世嗣に準ずる「第5位の世嗣」と称されるほど尊重され、

以後 モンゴル帝国ではウイグル王家は「ウイグル駙馬王家」としてコンギラト駙馬家と並ぶ、駙馬王家筆頭と賞されモンゴル王族に準じる地位を得る事となります。

更には、モンゴル帝国および大元朝では ウイグル出身官僚がモンゴル宮廷で多数活躍し、帝国の経済を担当するようになった。 ウイグル文化をモンゴル族に啓蒙・普及に努めたタタ・トンガの功績は大きいです。

夜咄-5-2

  ナイマンを共に攻めたケレイト王国は、1203年春にオン・カン(トオリル)の息子イルカ・エングンが内紛を起し オン・カンを追放 テムジンを急襲した。

油断を突かれたテムジンはイルカ・エングン率いるケレイト王国軍と戦い、善戦するものの大敗を喫し 麾下の諸軍も潰走してしまった。

この時バルジュナと呼ばれる湖まで落ち延び、弟・ジュチ・カサルなど一部の供回りとともにこの湖水をすすって再起を誓ったという。

程なく、コンギラト、コツラス部族などの臣従をとりつけたテムジンは イルカ・エングンらが戦勝で油断していた隙を突いて ケレイト本軍の幕営に夜襲をかけて逆にケレイト王国を制圧してしまった。

この時 オン・カンの弟・ジャガ・ガンボが降服した。

テムジンはオン・カン(父イェスゲー・バートルのアンダ)を復位させ、ジャガ・ガンボを自軍の将に取り込んでいる。 ジャガ・ガンボ その娘たちがジュチやトルイと婚姻を結んでいるのです。

この“バジュナ湖の誓い”には。敗戦以前からチンギスに付き従っていた近親や譜代家臣以外に、ゴビ砂漠以南の陰山山脈に拠点をもつオングト部族長アラクシ・テギト・クリ=後年にナイマンの包囲網計画を内通してテムジンの窮地を救う=

また、中央アジアのマーワラーアンナフル方面出身のムスリム商人・アサン・サルタクタイが使者としてチンギスのもとに赴き援助を行っている=テムジンの経済的支援を以降も続け、交易の重要性を教えていく=。

後に モンゴル帝国の筆頭書記となって帝国の財政分野などを総覧した大ビチクチ・チンカイもこの““バジュナ湖の誓い”に加わっていた。 勿論 「四駿四狗」と呼ばれる若き面々も苦惨を経験し成長して行く。

オイラートー3-3-

ジュペ(? – 1225年)は、元はジュゴダイと名乗っていた武将であった。

1206年のチンギス・ハーン即位時の功臣表では、第47位に数えられる。 弟にトルイに幕僚(ノコル)として仕えたモンケドゥ・セウルという人物がいた。 共に、テムジンに敵する陣営の部族に生まれた。

ネスト部の出身で、タイチウトト部に属する隷属民だったといわれる。

1201年、タイチウト部がナイマン王トクトアと同盟してテムジンとモンゴル高原の覇権をかける戦い “ハンガイ山麓の戦い”にジュペも剛弓を携え テムジンに敵対していた。

決戦が開始される前に ジュペ(ジュゴダイ)とモンケドゥ・セウルは 小隊を率いて巡察に出た折、遥か彼方に テムジンが進軍して来るのが覗えた。

ジュペ(ジュゴダイ)は躊躇うことなく 見晴らしの利く高台で テムジンの進軍を見守り、馬上より 大音声で名乗りを上げた。 動揺が覗える敵の中に 白馬に騎乗するテムジンは悠然としていた。

おもむろに、剛弓を引き絞ったジュペ(ジュゴダイ)は 一矢でテムジンの乗馬を矢で射殺した。

≪ 射殺できる状況で それを実行しなかったジュペはタイチウトト部の中で優遇されていなかったのでしょう。 正々堂々と名乗り、単騎で全身晒しての行動です ≫

“ハンガイ山麓の戦い”では奮闘するが、ナイマン王トクトアは少数の側近を連れて戦場から逃走した。 ナイマン同盟軍は敗走 敗北したジュペは捕われ、投降した。

テムジンは彼の武勇を賞賛して家臣に迎えいれた。

その時 テムジンは 彼が自分の乗馬を射殺した腕を賞賛し、「矢/戦馬」を意味する「ジュペ」の名を授けたといわれる。

その後は万人長に昇進し、チンギス・ハーンの先鋒を常に務めたとされ、金王朝やナイマン部、西遼攻略などで常に戦功を挙げた。

チンギス・ハーンの大西征においても従軍し、ホラズム・シャー朝討滅戦では ジュペ・スブタイ率いる枝隊がスルターン・アラーウッディーン・ムハンマドを追撃し 憤死させている。

ムハンマドがカスピ海の孤島で他界したこと知らぬジュペとスブタイは、カフカス山脈を越え 侵攻した。

東欧の一部にまで進撃し“カルカ河畔の戦い”においてルーシ連合軍を破るという戦功を挙げている。

しかし、1225年 ジンギス・ハーンが モンゴル高原への帰還で本隊を東方に移動させ 全軍に帰還命令を出した。

ジュペとスブタイはカスピ海の東岸を帰路に選びキプチャク草原を南下したが、ジュペは帰還する途中で病を発し、死去してしまう。 チンギス・ハーンはその死を深く惜しんだと言う。

ジュペは テムジンに仕えた当初、敵対したことがあったために警戒されていたことがあった。

ジュペと常に行動を共にした四狗の一人であるアウブタイ将軍はチンギス・ハーンの命令で彼の監視役も含んでいたと言われていますが、

ジュペは西遼征服後、かつて射殺したチンギスの乗馬の特徴を備えた馬を大量に献じたり、

チンクギスの帰還命令に対してスブタイが さらなる開戦を強硬に主張したとき、スブタイを説得してチンギスの命令にあくまでも従ったという逸話もあるのです。

また、軍律に厳しい一面があり、部下が戦利品を私物化したのを知るとそれを没収して処罰したと言われています。 潔白温情の武将です。

歴史資料は多くありません。 テムジンに会う前は 報われることのない立場に置かれていたのでしょう。

1206年のチンギス・ハーン即位時の功臣表では、第47位に数えられているのです。

以来、19年間 常に チンギス・ハーンの切り込み将軍として戦場を駆け巡り、「大ジュベ」と敬愛される将軍として その足跡を残している。

天山ウイヅル王国に支援には 単騎で軍を率いて 西遼のグチュルクを追放 善政を敷いています。

夜咄ー5ー4

「大ハーン」に即位したチンギス・ハーンは南の西夏に親征し、これを服属させた。

さらに、1211年には西遼に服属していた天山ウイグル王国が帰順し、モンゴル高原西部のオイラト、トウメン、カルルク、西遼などの周辺諸国に次々に遠征軍を送って帰順と征服を達成し、南シベリア、中央アジアまで勢力を広げた。

同じ1211年からは金朝に遠征して中国の東北地区と華北を席捲し、金朝皇帝宣宗は先代衛紹王の公主をチンギス・ハーンに嫁がせて和睦を結んだ。

≪この時、チンギス・ハーンをして『神が我が家に降された人』と言わしめた耶律素材を幕僚に迎えている ≫

しかし、金朝は1214年には首都の中都(後の大都・北京)を放棄して河南の開封へ遷都し、金朝は河南のみを支配する小国に転落し、約定を違えた事にチンギス・ハーンの激怒を買っている。

チンギス・ハーンは、1218年からは中央アジアのオアシス農業地帯に対する大規模な遠征軍を発し、シルダリア川流域からイランまでを支配する大国ホラゥム・シャー朝に侵攻。 モンゴル軍はサマルカンド、ブハラ、ウルゲンチ、ニーシャーブール、ヘラートなど中央アジアの名だたる大都市に甚大な被害を与え、ホラズム・シャー朝は壊滅した。

 チンギス・ハーンの本隊はガズニーを領有していたホラズム・シャー朝の王子・ジュラールッディーンを討伐するためにアフガニスタン方面へ進軍し、 ホラーサーンのバルフやバーミヤーンなどの大都市をことごとく殲滅しながら南下して行った。

しかし、バーミヤーンではチャガタイの長男・モエトゥゲン皇子が戦死し、アフガニスタン中南部のバルワーンでは駐留していたボルテ将軍の養子シギ・クトクの軍がジュラールッディーンの軍に壊滅させられるなど手痛い反撃を受けた“バルワーンの戦い”など蒙古軍団の侵攻は阻まれている。

孫の戦没を知ったチンギス・ハーンはトルイを殿軍としてホラーサーンに駐留させて自らの本軍とジュチ、チャガタイ、オゴデイ率いる諸軍を引き連れて進軍した。

マーワラーアンナフルから南下して ジュラールッディーンをインダス川のほとりまで追い落として捕縛は出来なかったものの撃退することには成功した“インダス河畔の戦い”。

≪ 取り囲まれ、絶体絶命の窮地に立ったジュラールッディーンは激流渦巻くインダス河へ馬共々  飛翔する。
仕留めようと矢を放つ自軍の諸将を、 『矢は放つな、彼こそ勇者ぞ 行かせてやれ』とチンギス・ハーンが制した   逸話があります ≫

 一方、カスピ海まで逃げた君主スルターン・アラーウッディーン・ムハンマドを追ったジュペ、スブタイ率いる別働隊はアラーウッディーン・ムハンマドを取り逃がしたものの、 そのまま捜索を続けてアゼルバイジャンからカフカスを抜けてロシアに至り、ルーシ諸公を破って勇名を轟かせた“カルカ河畔の戦い”は上記のことです。

モンゴリア本土への帰還後、チンギス・ハーンは中央アジア遠征への参加の命令に従わなかった西夏への懲罰遠征に赴いたが、1227年 西夏を完全に滅ぼす直前に陣中で病没した。

草原の道・6-2

_____ 続く _____

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