マヤ・インカ文明 =Ⅰ- 33

メソアメリカの古代文明 “その繁栄と崩壊”

 ~ 知ってるようで知らないマヤ・インカ文明 ~

マヤ文明ー161

知らざるマヤ文明 =パレンケ(Palenque)とティカル(Tikal)遺跡=

紀元後250年ないし300年頃から古典期 (Classic period / stage) が始まる。   この時期、グアテマラのペテン低地及びその周辺にあるマヤ文明の著名なセンターが全盛を極めるが、それらのセンターのうち、ティカルと激しく争ったのがカンペチェ州にある「カーン王朝」の首都カラクムルであった。 一方、チャパス州にある「ラカムハ」という名で知られる都市パレンケは、ティカルの同盟者であったと考えられている。

メキシコ中央高原では、7世紀頃、テオティワカンが破壊され、トゥーラと呼ばれる群小都市国家群が割拠した。 そのうち有力なのは、中央高原の南側に位置するショチカルコと北側に位置するイダルゴ州トゥーラ=ヒココティトランであった。

トゥーラ=ヒココテイトランは、古文献のトゥーラにほぼ同定されることからトルテカ帝国説を生み出したほどの力をもっていた有力なトゥーラであった。 一方、テオティワカン崩壊後、マヤのセンターは一時的に繁栄するが、やがて戦争、乱伐による食糧不足、気候の変化、疫病、交易路の変化など複合的な要素によって疲弊し、9世紀頃に崩壊していく。

これ以後からスペイン人による征服までの時期を後古典期 (Postclassic period / stage) と呼ぶ。

マヤ文明ー61

=トゥーラ、ピラミッドBの基壇上にある戦士像=

パレンケ(Palenque)はメキシコにあるマヤ文明古代都市遺跡で、メキシコの世界遺産の一つである。

ユカタン半島の付根にあたるメキシコ南東部のチアパス州に位置し、7世紀に最盛期を迎えた[1]都市の遺構としての宮殿を中心とする、『マヤ遺跡の典型』といわれる[2]建物群を密林のなかに配置している。

18世紀の半ば頃にスペイン人の手により発見に至り[3]、その本格的な発掘調査が始まったのが1948年。

その調査の最終局面にあたる1952年6月15日、メキシコの考古学者アルベルト・ルスが『碑文の神殿』の地下室に辿り着き、室内の壁面にはめ込まれていた巨大な石板を取り外したところ、鍾乳石の垂れ下がる広い洞窟のような部屋がその向こう側に確認された。

そこには殉死者と目される数体の遺体に加え、肖像画やマヤ文字、また生命樹の図柄の浮彫が施された石の蓋、そしてその下に石棺が埋もれており、数多の装飾品を脇にした遺体が内部に発見された。 翡翠の仮面をまとったこの遺体は、7世紀に在位したパカル王(偉大な太陽楯、8アハウの偉大なパカル、パカル2世、パカル大王、在位615年~683年)として知られる王のそれであった。

この発見は、中央アメリカのピラミッドがエジプトのそれとは違うという定説、すなわち王の墓ではなく神殿の土台に過ぎないものとの定説を覆し、当時の考古学界に大きな旋風を巻き起こすこととなった。

1987年には『古代都市パレンケと国立公園』として世界遺産に登録された。

マヤ文明ー164

=パレンケ(Palenque)の『宮殿』遺構=

パレンケ(Palenque)の『宮殿』遺構は王族の住居であったものと目される建物で、パレンケの中心たる事物。天体観測用と考えられている、マヤ建築としては珍しい4階建の塔を中央に備える。

碑文の神殿

パレンケのピラミッドのうちで最も高いピラミッドで、パカル王の没年前後に建造されたものである。 パカル王の遺体がその基層の墓室に発見された。 パカル王の息子たるカン・バラム王に奉げられたもので、壁の一面にマヤ文字があることからこの名がある。

その他の神殿

『碑文の神殿』のほかに、『十字の神殿』、『葉十字の神殿』、『太陽の神殿』などと呼ばれる、数多の神殿群がある。 いずれも『碑文の神殿』に同じくカン・バラム王に奉げられたもので、カン・バラム王についてのことが描かれた石板が納められている。

石棺に関する誤解

パカル王の石棺の浮き彫りは、横から見るとロケットに乗り操縦桿を握った宇宙飛行士のように見えたため、古くからUFO研究家などからマヤ文明が宇宙人によって作られた文明であるとの根拠にされてきた。

マヤ文明ー162

ティカルは、グアテマラのペテン低地にあった古典期マヤの大都市である。マヤ文明の政治、経済中心都市として紀元4世紀から9世紀ごろにかけて繁栄を極めた。ティカルの遺跡は1979年に世界遺産の複合遺産に登録された。

17世紀末、ひとりのスペイン人神父が道を見失い、鬱蒼とした密林の中に迷い込んだ。何日も歩き続け、水も食料も尽きようとしたその時、神父はジャングルにそびえる巨大ピラミッドを発見した。 これが熱帯雨林地帯で栄えたマヤ最大の神殿都市ティカルである。 マヤ人たちは焼畑農業トウモロコシをつくって主食にしていた。 次々に森林を切り開いていくことで人口を養っていた。

ティカルのもともとの名は、「ムトゥプル」、「(ヤシュ)ムタル」といった。 378年、テオティワカンの将軍カック・シフ(kak siyaj/「火の誕生」シフ・カック)によって征服され、テオティワカンの王族の少年であるヤシュ・ヌーン・アイン(「最初のカイマンワニ」)が即位し、新王朝が始まった。 古典期マヤにおいては、カラクムル=前節参照=とともに二分する巨大な勢力でいくつもの都市を支配下においた。

王が政を行ったピラミッド群の周囲に6万人もの人々が暮していた。 ティカル周辺には大きな川もなく、鬱蒼としたジャングルだけが広がっている。 また、乾季になると雨は全く降らない。 ティカルの人々にとって雨季に降った雨水を確保することが生きる為に最も重要なことであった。

しかし、ティカルの大地は石灰岩で出来ているため、雨水はすぐに浸み込んでしまう。 そこで人々はピラミッドなどからの建造物から大地に至るまで町の全てを漆喰で塗り固めた。 漆喰は水を通さないので、水は貯水池に溜められ、大切に利用されていた。 徹底した水の確保により、大河無き密林にありながら、都市はどんどん発展していった。

だがしかし、その裏で文明崩壊のカウントダウンが始まっていた。 原因は漆喰であった。 漆喰を作る為には石灰岩を燃やさなくてはならない。 その燃料となるのが周囲の密林の木々。 水を確保するには森を破壊することを厭わなかった。

やがてティカルの森は消え、そのため土壌が流れ出し、作物が育たなくなっていった。 そして10世紀はじめに起こった干ばつを乗り越えることが出来ず、巨大都市ティカルは崩壊していった。

ティカルの中心的な遺跡が「大ジャガーの神殿」である。 高さが51メートルあるピラミッド状の建築物で、最上部の神殿入口でジャガーの彫刻が発見された。 神殿の前にはたくさんの石碑が立っており、支配者たちの姿が浮き彫りにされたレリーフがある。

マヤ文明ー163

マヤ文明ー165

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オルメカ(Olmeca)の遺構

マヤ文明ー159マヤ文明ー160

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・・・・・・続く・・・・・・

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