マヤ・インカ文明 =Ⅰ- 39

メソアメリカの古代文明 “その繁栄と崩壊”

~ 知ってるようで知らないマヤ・インカ文明 ~

マヤ文明ー179知らざるマヤ文明

 =ピエドラス・ネグラス (Piedras Negras)とノームル(Nohmul)、サン・バルトロ(San Bartolo)=

ピエドラス・ネグラス (Piedras Negras) は、グアテマラペテン地方西部のウスマシンタ川北岸に位置する古典期マヤ遺跡のひとつ。 現在はシエラ・デル・ラカンドン国立公園の一部となっている。 ピエドラス・ネグラスという名はスペイン語黒い石を意味する。

古代マヤ語でYo’k’ibヨキブ)と呼ばれており、「大きな門」もしくは「入り口」を意味し、これは遺跡のすぐ近くにある現在は干上がっている巨大なセノーテに由来すると推測される。

この遺跡は、西グループ、東グループ、南グループに分けられる。西と南のグループはそれぞれ球戯場や広場を備える。 アーチ状の屋根を持つ宮殿や神殿ピラミッドが立ち並び、それらの一つは遺跡内に数ある洞窟のうちの一つとつながっている。 また、ウスマシンタ川の川岸には、ヨキブ (Yo’ki’b) の紋章文字が彫られた巨石がある。

ピエドラス・ネグラスは、ウスマシンタ川流域で一時は最大の勢力を誇った王国の首都である。 ウスマシンタ川の40キロメートル上流にはライバルであったヤシュチランがあり、サン・ペドロ・マルティル川とウスマシンタ川に挟まれた地域にはラ・オンラデス、パハラルやサポテ・ボバルなど中小規模都市で構成されたHix Witz(ジャガーの丘)同盟が存在した。

出土した土器から推測されるに、紀元前7世紀中頃から定住が始まり、紀元850年頃にはその他の古典期マヤ都市センターと同様に放棄された。 王国が創始された時代は判明していないが、当初は小規模の都市であったと見られる。

紀元450年頃からヤシュチランの碑文においてピエドラス・ネグラスの王が敗者として刻まれるなど、この時代には既に重要な都市センターになっていた。 古典期前期の碑文はわずかしか残されていないが、後の時代の碑文には紀元500年頃にテオティワカンの影響があったことを物語る記述がある。

彫刻と建築が最も活発に行われたのは、紀元608年から紀元810年にかけてである。紀元608年は石碑25が作られた年であり、その彫刻にはキニチ・ヨナル・アーク1世の即位の様子が描かれている。

この時代以降、ウスマシンタ川流域のライバルであるヤシュチランとの抗争の他に、ペテン地方西部に勢力を伸ばしてきたペテン地方中部やペテシュバトゥン地方の勢力とも争うことになる。 他の古典期マヤ王国が衰退していくなかで、紀元8世紀後半においてピエドラス・ネグラスの芸術活動は最高峰に達し、石板3や石碑14、石碑15、玉座1などを作成した。

ピエドラス・ネグラスのモニュメントのユニークな特徴は、いわゆる「芸術家の署名」が多々見られることである。 多い例では、石碑12に8人の署名が見られる。

だが、紀元808年にヤシュチランとの戦争に敗れた後、紀元810年の祭壇3を最後に長期暦を刻んだ彫刻は作成されなくなり、まもなくこの都市は終焉をむかえることになる。 都市が放棄される前に、玉座1などいくつかのモニュメントが故意に破壊されており、支配者を描いた肖像や文字に対しては損傷を加えられたが、神々を描いた肖像と文字は無傷のままであった。

このことはマヤ文字を読み書きできる人々によって、反乱若しくは征服が行われたことを示している。 ただし、ウスマシンタ川は重要な交易路であり、王国が滅んだ後も人が住んでいた形跡がある。

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マヤ文明ー189

ノームル(Nohmul)は、ユカタン半島東岸、ベリーズ北部、オレンジウォーク郡に所在するマヤ遺跡である。 名前の由来は、ユカテコ語で、「偉大なる塚」を意味する。オンド川沿岸のアベンチュラ(Aventura)の南西20km、オレンジ・ウォーク町の北方11kmに位置する。 2013年5月に多数のピラミッドの表面の石や礫を道路の舗装材にするために重機で削られて、内部が露出する事態となり、世界中に報道された。

ノームルは、祭祀センターとしてはやや変わった構造をしており、メキシコとベリーズの自然の国境であるオンド川を見下ろす「とさか」のように切り立った尾根の上に立地する。

遺跡の広がりは31k㎡に及び、長さ400mの「サクベ」 と呼ばれる提道に結ばれた東グループと西グループからなっており、双方合わせて10の「プラザ」と呼ばれる中庭を囲んだ建築グループがある。 さらにこれらの建造物群は、80以上の建物が組み合わさってできている。 東グループのほうがやや規模が大きく発掘調査も進んでいる。西グループには、高さ20mのピラミッドと小規模ながら「アクロポリス」と呼ばれる重層的な建築複合、この遺跡で二番目に大きな「プラザ」がある。

ノームルに人が住み始めたのは、先古典期中期前葉(900B.C.~650B.C.)頃である。先古典期後期(400B.C.頃)から建築活動が活発化し、祭祀センターの中核をなす主な建造物がこの時期に建てられた。

先古典期終末もしくは原古典期(A.D.100~250頃)に祭祀センターとしての構造が確立し、2つの最大規模の「プラザ」がこの時期に築かれ、 この時期のノームルの土器は非常に多くの種類がみられ、原古典期の指標とされるホルムル(Holmul)Ⅰ式でも古相のものも含まれている。

古典期前期には、急速に衰退して建築活動が停止した。 この時期には、遺跡の周囲に散在的に居住がなされていたことがわかっている。  古典期前期からの数百年間の空白ののち、古典期の終わりごろから[3]再びノームルの建築活動が活発化する。

この大規模な建築活動は、後古典期前期にあたる紀元1100年頃まで続き、ノームルの編年ではテセプ(Tecep)相として位置づけられている。 この時期の新しい建物は、古典期の建物のひとつを覆いつつもその隣に建てられており、建造物20号は、チチェン・イッツアなどユカタン北部以外にはほとんど見られない「patio-quad」というタイプであり、チチェン・イッツアの天文台「カラコル」に酷似した円形の建物も見られる。  古典期終末期から後古典期初頭の土器は、低地マヤのものに、北部ユカタン由来のソトゥタ(Sotuta)相のものとケフペッチ(Cehpech)相のものが共伴している。

このような建造物や土器の著しい変化は、北方からの来た人々がノームルに住み着くことになったという仮説やノームルがオンド川流域の河川交通のみならずユカタン半島東岸の交易活動にまで影響を及ぼしていたことを想起させる。

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※; 2013年に起こった破壊行為

2013年5月13日、ノームルでも最大規模の神殿がほぼ完全に破壊された。 土木業者が、掘削機やブルドーザーを用いて、近隣のダグラス(Douglas)村の道路の舗装材にするために中央神殿の礫や石灰岩を削りとった。

破壊される前には、このピラミッドは高さ8m、基壇の幅は50~52mに及んでいた。  ピラミッドの70% 以上が削り取られ、わずかに中央部分の充填物がむき出しになって残された。 この重機には、 “D-Mar 建設”のラベルが見られ、これは、民主連合党UDP の政治家、デニー・グリハルバ(en:Denny Grijalva)の所有するものであることが判明している。

この建造物が私有地のなかにあっても、法的には先コロンブス期の遺跡はすべてベリーズ政府の保護下にあることになっている。  ベリーズ国立考古学研究所(en:Belizean Institute of Archaeology)のジョン・モリス(John Morris)は、このように高い構築物がマヤの廃墟であることは間違いようがなく、おそらく知っていて重機で破壊したのだろうと述べている 。

ベリーズ国立考古学研究所長であるハイメ・アウイ(Jaime Awe)は、遺跡自体がよく知られており、このピラミッドは平坦な自然の丘とは間違いようがないと糾弾し、 ベリーズ警察は捜査に基づいて罰金を課そうとしている。 同じような破壊行為は、ベリーズ中の多くの古代遺跡で行われており、2005年に近隣のサン・エステバンSan Estevan)でも起こっている 。

1980年代にベリーズの多くの遺跡を調査したボストン大学の教授であるノーマン・ハモンド(en:Norman Hammond)は、「アソシエイト紙」(Associated Press )のインタビューに答えて、「マヤの遺跡を重機で破壊して道路の舗装材に使うのは、ベリーズの宿痾のようなものだ。」と語っているのです。

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サン・バルトロ(San Bartolo)は、グアテマラ北部のペテン低地北部に立地する先古典期後期に属するマヤ文明祭祀センターである。 ティカルの北東およそ80kmほどの場所に位置する。  「ラス・ピントゥラス」(絵画の神殿)下層1号神殿の先古典期後期の素晴らしい壁画によって、その名を知られるようになった。

ピーボディ考古学・民族学博物館 のウィリアム・サターノの指揮する調査隊によって2001年にピラミッドの基礎部分の建物が調査されて紹介された。

2003年3月に発掘調査が再開され、壁画は放射性炭素年代測定によって紀元前100年のものでマヤ文明の壁画としては現時点で最古のものであることが判明している。  壁画の記録撮影は、壁面を直接スキャンする一方、はげ落ちた破片についても撮影し、パソコン上で画像をつなげていく手法が用いられた。

2003年に北壁の壁画の調査及び記録、2004年に西壁の壁画の調査及び記録が行われ、西壁は最初の生命樹の部分で42枚の画像、全体で350枚の画像がつなぎあわされて全貌が明らかとなった。 ヘイザー・ハースト(Heather Hurst)によって詳細にスケッチされ、見事な復元図が作成されている。

マヤ文明ー197

サン・バルトロは、2002年に行われた踏査で、中心部には、100基以上の建造物が「ベンタナス」(窓のある神殿)と「ピントゥラス」と呼ばれるおおきくふたつのグループを形成しながら1平方キロ以上にわたってひろがっていることが明らかになった。

「ラス・ベンタナス」の北東隣に500基の建物を伴う「ハバリ(Jabali、「野生の熊」)」複合がある。  一方で、サン・バルトロの居住区は、「ラス・ベンタナス」を中心にしつつも、雨期に湿地となる場所ぎりぎりまで散在的に分布していることも明らかになった。

2004年にヨシュア・クオーカの担当した調査によって、ラス・ベンタナス神殿の北方150mの位置にある構築物86号の近くで石器を加工した後に生じる剥片が集中的に廃棄されている場所があることが分かり、石器工房があったことが確認された。

ババリ・グループは、ラス・ベンタナス神殿の西方470mに位置し、2003年NASAの衛星写真によって、三つ組の建築グループとして存在していることが確認された。

ハバリ・グループのピラミッドは、東側に階段をもち、基壇の上方には、中庭を囲んだ三つの建物が築かれていた。 これら三つの建物のうち、最大なものは西側に位置する構築物Aであって、東西方向に主軸をもち、中央のみならず側面にも階段が設けられていた。 本来先古典期の建物であるが古典期にも何度か改造が行われている。 また、ハバリ・グループの建造物の中庭には、儀礼に用いられたと推察される中央をへこませた一対の漆喰壁によってつくられた埋納遺構が確認されている。

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・・・・・・続く・・・・・・

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