マヤ・インカ文明 =Ⅰ- 48

メソアメリカの古代文明  =文明・文字と伝承=

~ 知ってるようで知らないマヤ・インカ文明 ~

インカー52-

“太陽の神話”が糧の民=アンデスに生きる=

南米に人類が住み始めた痕跡を示す遺跡で最古のものは、1万4000年前という年代測定値を示す遺跡もみられるものの、確実なのはクローヴィス文化に並行する1万1000年前の基部が魚の尾びれのような形状の魚尾型尖頭器を用いた狩人たちの遺跡である。

チリの首都サンティアゴの南120kmにあるマストドンの解体処理を行ったタグワタグワのようなキルサイトは、この時代の特色を示す遺跡である。  やがて紀元前7500年ころまでに洞窟の開口部や岩陰を利用して生活をする人々が現れ、ペルートケパラ洞窟アルゼンチンラス・マノス洞窟には、そのような人々の狩猟への願いを表現した洞窟壁画が描かれた。

紀元前5000年頃から農耕牧畜を行う社会となり、土器の製作、使用を行うようになる直前までを古期という。 ペルー北部高地のラウリコチャ遺跡のⅡ期(紀元前6000年~同3000年)に、I期に多かった鹿に替わって、リャマアルパカ等のラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られ、中央高地のウチュクマチャイ洞窟の5期(紀元前5500年~同4200年)でやはりラクダ科動物の骨の出土量の増加が見られることからラクダ科動物を飼育しようとする試みがなされ始めたと考えられている。

また紀元前6000年頃までにはトウガラシカボチャヒョウタンインゲンマメなどの栽培が開始されたことが北高地のギタレーロ洞窟出土の植物遺存体などから確認され、さらにまた、 紀元前3000~同2000年頃から綿カンナなどの栽培が始まったと考えられている。

インカー07-

諸王国の成立前夜

紀元前2500年頃になると、現在のペルーのリマ市北方のスーペ谷に、カラル(Caral)という石造建築を主体とするカラル遺跡ノルテ・チコ文明)が現れる。 遺跡の年代は、紀元前3000年から2500年ころと推定されている。 しかし、発掘され現在復元されている遺跡群は、すでに非常に精緻なつくりをしているため、さらに遡る可能性もある。 海岸遺跡は日干しレンガ製が多いが、この時期の遺跡には海岸遺跡の中でも石造建築がある。 カラル遺跡からは、かなりの量の魚介類が出土している。

また、ペルー北海岸にワカ・プリエッタの村落跡やアルト・サラベリー、中央海岸のカスマ谷にワイヌナ、中央海岸地帯にアスペロ、同じく中央海岸地帯でリマの北方にエル=パライソといった神殿跡が築かれる。

エル=パライソはU字型に建物が配置され、その一辺が400mに達するものである。一方山間部では、小型の神殿が建てられるようになる。

紀元前3000年頃に、北高地サンタ川上流にラ=ガルガーダの神殿、紀元前2500年頃には、コトシュ遺跡(ペルー、ワヌコ県)に、交差した手をモチーフにした9m四方の「交差した手の神殿」が築かれた。

しかし、いずれも、当時はまだ土器を持たない時代といわれており、土器の誕生以前にこのような神殿群を誕生させたところに、アンデス文明の特徴があるともいえる。 王の存在を強く認めるようなものは今のところ出ていない。

インカー54-

インカー51-

紀元前1800年頃になると、土器の利用が始まることが確かめられる。

そして、紀元前800年頃からチャビン文化が発達するようになる。 これ以降、チャビン様式がアンデス北部に影響するようになり、そのためこのチャビン様式が広まった時代をチャビン=ホライズン若しくは初期ホライズンと呼ぶこともある。 同じころ、北海岸には精緻な土器を伴ったクピスニケ文化が発達する。

しかし、紀元前後頃になると神殿を中心とした社会は消滅し、しばらくして王国が誕生し、南アメリカ大陸で確証された最古の文明と言わたチャビン文化は、紀元前200年頃まで栄えたようである。

日本のアンデス文明調査団は、神殿建築がアンデス高地において広範囲に広がる紀元前2500年から形成期とすることを提唱しているが、ペルーでは紀元前1800年ころの土器の使用開始をもって形成期の始まりとしている。

尚、アメリカ合衆国の編年体系では、社会進化論的名称体系を避けるため、土器の存在しない紀元前1800年以前を先土器時代、土器が出現してチャビン文化が広まる前の紀元前800年ころまでを草創期、チャビン文化がアンデスに広まるといわれている紀元前800年から紀元前250年ころを前期ホライズンとする。

インカー08-

チャビン文化の詳細は未だに解き明かされていないが、ナスカ文化に触れておこう。

ナスカ文化は、紀元前後から800年頃まで現在のペルー共和国海岸地帯のナスカ市周辺に栄えた文化。 ナスカの地上絵=後章にて詳細記載=で知られる。

アンデス文明のうち、灌漑設備が整備され開拓の進んだ前期中間期ないし地方発展期にあたり、同時代のモチェカハマルカティアワナコと並ぶ城郭都市を形成した。宗教的中心(巡礼地であるとされる)は、ナスカ川流域のカワチ遺跡とされている。

狩猟農業を主な生業とし、わずかに漁業も行う。 はじめは宗教的性格が強く、のちに軍事的性格が強まり、勢力を拡張した。 奴隷制は見られないが社会階層は厳格であったという。 庶民はフジの骨組みにを塗ったキンチャと呼ばれる住居に住み、宗教的なピラミッドなどの公共建築物を築き、灌漑用水路を整備した。

初期の土器織物は前代のパラカス文化を継承しているため同一の文化とみなす意見も強い。 しかし、基本的にパラカスとナスカを分けるのは、主要伝達メディアが織物から土器に代わったことによるものである。

パラカス期から製作されていた、彩文土器や象形壺、双注口土器などの南海岸特有の器形はナスカ期をも特徴付けるものである。 ナスカの土器は図像の特徴、器形、発掘コンテクスト等をもとに第1期から9期に分けられる。 ただし、現在の研究では8-9期は山岳部から侵入したワリの影響が強く、ナスカ期独自とするかどうかは研究者の意見の分かれるところである。 ナスカ初期の土器では顔料彩色による焼成前着色の技法が使われ始める。

同じ初期の図像の特徴は動物や植物等の自然的表現、神話的表現の一つである神人同型図像(Mythical Creature)である。 ナスカの特徴である「多彩色」土器はアンデス文明のなかでも屈指とされており、特に第3期から6期の土器には目を見張るものがある。

第5期以降になるとメイン図像を描いた後の余白部分に、より細かい図像要素を使って埋めるような傾向が強まり、増殖的な表現が多くなる。 また、戦いに関わる図像が増え、首級(Trophy Head)がしばしば描かれる。

第7期になると前段階の文様をより省略したような図像となり、図像モチーフ自体の同定が難しくなる。 さらに山岳部の影響を受けて土器の地色は白地から赤地となる。

インカー27-

インカー55-

※;下線色違いの文字をクリックにて詳細説明が表示されます=ウィキペディア=に移行。

・・・・・・続く・・・・・・

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】  http://ameblo.jp/thunokou/

※ 前節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2014/02/17

※ 後節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2014/02/19

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います