メソアメリカの古代文明 =文明・文字と伝承=
~ 知ってるようで知らないマヤ・インカ文明 ~
クスコ王国に於いて、第2王朝時代にはウィラコチャまでは祭政一致の王としてカヤオの王がサパ・インカとなっていたが、パチャクテク以降はコリャナの王が俗権を掌握しサパ・インカとなり、カヤオの王は宗教儀礼を担い、コリャナの王の下に立つこととなった。この王朝を「上王朝」(hanan)ともいう。
近年、このような体制の変革から、パチャクテクによるクーデターを推察する見解が出されているが、ウルコはウィラコチャの共同統治者であったとする文献もあり、一般的には歴代に数えない。
クスコ第2王朝のサパ・インカは・・・・・・
・ インカ・ロカ(Inka Ruq’a、英: Inca Roca)
・ ヤワル・ワカ(Yawar Waqaq、英: Yahuar Huacac)
・ ウィラコチャ(Wiraqucha、英: Viracocha)
・ ウルコ(Urco、英: Urco)
・ パチャクテク(Pacha Kutiq、英: Pachacuti、在位1438年-1471年)
と継承される。
インカ・ロカ(ケチュア語: Inka Ruq’a=寛大王、生没年不詳、在位1350年頃~1380年頃)は、クスコ王国の6代サパ・インカ(皇帝)(上王朝初代)である。 父は5代サパ・インカであるカパック・ユパンキ、王妃にママ・ミチェイ、子に7代ヤワル・ワカがいる。
父王カパック・ユパンキの後継者は正妻クシ・ヒルペイの所生であるキスペ・ユパンキであったが、父王死後、上(ハナン、hanan)クスコは、それまで王位を伝えていた下(ウリン、hurin)クスコに反逆。 キスペ・ユパンキを殺し、王座をカパック・ユパンキの側室クシ・チンボの息子、インカ・ロカに与えた。 即位後、彼は宮殿をクスコのウリン地区に移転し、統治する。
伝説によると、彼はチャンカ族を征服し、ヤチェイワシと呼ばれる貴族教育のための学校を設立したと言われている。 この征服行為によって、彼は腰をすえてクスコ周辺地域の灌漑改良をしたようにも思えるが、チャンカ族は依然彼の後継者を煩わし続けたと伝えている。
ヤワル・ワカ(ケチュア語: Yawar Waqaq=血の涙を流す者、生没年不詳、在位1380年頃~1410年頃)は、クスコ王国の7代サパ・インカ(皇帝)(上王朝2代目)である。 父は6代サパ・インカであるインカ・ロカ、王妃にトカイ・カパクの娘ママ・チクャ、子に8代ウィラコチャがいる。
彼の名前が示すとおり、8歳のときにクスコ近郊の有力者であったアヤルマカに誘拐され、苦境に血の涙を流したという。 最終的にアヤルマカの愛人のひとりの助けで逃亡した。
この時期、ケチュア族(=インカ族)はチャンカ族(中心都市はアバンケイ、現アプリマク州周辺)との最終戦の最中であった。
『インカ皇統記』などによると、彼は怒り狂ったチャンカ族から攻撃されたときに首都クスコを放棄したが、息子のウィラコチャが敵を打ち負かし都市を救ったという。 しかしこのような記述は少数派であり、『ペルー年代記』の作者ペドロ・シエサ・デ・レオンやホアン・デ・ベタンソスなど多数の年代記作者は、ウィラコチャがクスコを放棄し、彼の息子パチャクテクが救国の英雄だとしている。
彼は、他の歴代皇帝と異なり、彼は自らの宮殿の建設すらしておらず、クスコにおいて皇帝に期待されていた建設工事をわずかしかしていないようである。
ウィラコチャ(ケチュア語: Wiraqucha、生没年不詳、在位1410年頃~1438年)またはビラコチャ(西: Viracocha)は、クスコ王国の8代サパ・インカ(皇帝)(上王朝3代目)である。 父は7代サパ・インカであるヤワル・ワカ、王妃はルントゥ・カヤ、子に9代パチャクテクがいる。
初名はハトゥン・トゥパックかリパックと見られ、祭政一致の皇帝として神インティの別名ビラコチャにちなんで改名したと言う。
彼は自らの民とチャンカ族(クスコの西にある現アプリマク州に居住していた)との最終戦に関係したらしいが、年代記作者の記述は、彼が英雄であったとするものと臆病であったとするものに分かれている。
『インカ皇統記』の著者インカ・ガルシラソ・デ・ラ・ベーガなどによると、ウィラコチャの父ヤワル・ワカはチャンカ族から攻撃されたときに首都を放棄したが、ウィラコチャは敵を打ち負かしクスコを救ったという。 また、年代記作者サルミエント・デ・ガンボアの記述によると、それまでのサパ・インカは周辺部族を襲撃し略奪するだけで満足していたが、ウィラコチャは征服した領土を統治した最初のインカ人だという。
ウルコ(Urco、生没年不詳)はクスコ王国の8代皇帝、ウィラコチャの庶子であり皇太子。 母は父の寵姫であったコリ・チュルパ。
彼の父、ウィラコチャは長期の遠征によって疲労し、国防をアポ・マイタとビカキラオという有能な将軍たちに任せ、后や側室のための宮殿があるピサクに隠遁した。 その際、ピサク郊外にあるカキア・ハキアワナという名の砦を息子のウルコとともに統治した。
しかし、彼自身は政治・軍事には興味を示さず、国中から集められる女性のほうに興味を示したため、クスコでの生活には満足しなかった。 従って、一年の大半をピサクでの淫蕩の日々に費やしていた。
だが、インカ族のライバル、チャンカ族が上記のような状況につけこみクスコに進軍した。チャンカ族は戦略的な要所を通過したことで勝利を確信し、「クスコの割譲」、「チャンカ族の絶対的支配権」を要求した。それには彼もウィラコチャも驚き、側近や后を引き連れピサクなどに逃げ込んだ。
その後、腹違いの兄、クシ・ユパンキ(ウィラコチャの嫡子)がチャンカ族に大勝利し、父や弟が放棄したクスコを守った。 そしてクシ・ユパンキは王位継承権を奪った庶子の弟であり皇太子でもあるウルコに復讐する。
インカ王を選出するための選挙が開かれ、クスコに集まった貴族たちはクシを次のインカの王に選出した。 しかしインカの共同統治者であったウルコにとっては認められないものであり、ピサクからクスコに向けて軍をすすめたが、途中で待ち伏せに遭い簡単に敗れ去った。
パチャクテク(英: Pachacuti、ケチュア語: Pachakutiq=世界を震撼させる者、世界を造り変える者、?-1471年、在位1438年–1471年)の父は8代インカ皇帝ウィラコチャ、妻はママ・アナワルキ(又はコヤ・アナワルク)、子にアマル・ユパンキと10代トゥパック・インカ・ユパンキがいる。
アマル・ユパンキはトゥパック・インカ・ユパンキの兄であり、初めは共同摂政にして万一の際の後継者に選ばれていたが、戦士としての資質に欠けていたため、後にトゥパック・インカ・ユパンキが後継者に選ばれる。
パチャクテクの初名はクシ・ユパンキであり、彼の兄ウルコを後継者に指名していた父帝ウィラコチャの後継者とは想定されていなかった。 しかし、インカの伝統的な大敵であったチャンカ族によるクスコ侵入のとき、彼は自分の才能を示す本当の機会を得た。
父と兄は共にクスコを放棄したが、クシ・ユパンキは軍を結集し、防衛するとともに敵を打ち負かした。 この勝利により、彼は皇太子としての父の承認と臣民の助けを勝ち得る。
= 近年の研究では、ウィラコチャまでは祭祀を司る王族が祭政一致の皇帝であったが、パチャクテク以降は俗権を掌握する王族が皇帝となったとし、この体制変革をパチャクテクによるクーデターではないかと推察する見解が出されている。=
父の死後インカ帝国の唯一の統治者となった彼は、間もなくクスコ周辺の小国を恐るべき強国に再編する一連の軍事行動に着手した。 息子にして後継者たるトゥパック・インカ・ユパンキと共同しての征服が非常な成功を収め、貴族達に絶対的な力を示す。 また、彼は“「アンデス山脈のナポレオン”と呼ばれるごとく、侵略の遠征を繰り広げた。
パチャクテクが1471年に死亡した時点で、帝国は南は現チリから北は現エクアドルまで、更に現在の国で言えばペルー、ボリビア及び北アルゼンチンの大部分をも含む支配地を確保していた。
遠征に継ぐ遠征の中、パチャクテクは、これまでのクスコ王国を新帝国「四つの邦(スウユ)」(タワンティンスウユ、インカ帝国の正式名称)に再編した。 彼が創設した制度のもとで、アポと呼ばれる地方官がスウユ毎に配置され、スウユを支配した。
これらの地方官の配下にトクリコクと呼ばれる地域の指導者がおり、各都市、谷、鉱山を運営した。 スペインによる征服以前には、各アポの配下に約15人のトクリコクがいたが、パチャクテクが最初に組織した時点では、より少なかったと想定されている。また、権力相互間の監視均衡を図るため、軍隊と聖職者を系列毎に別々の首飾り(官職の標章)を創設した。
また、真に帝国を代表し大都市としての需要を満たすよう、クスコの大部分を設計し直し再建した。 各スウユに対応し、各スウユに通じる道路を中心とした地区が設定され、貴族と移民は彼らの出身地に対応する地区で生活せしめている。 各地区は2つの二項対立(双分制)の組み合わせによって成立する三分制(セケ・システム)という構造になっていた。
これは、全ての権限、空間等を上(ハナン、hanan)と下(ウリン、urin)に分けて考える、いわゆる双分原理によるものであり、下部も更に2分されることにより成立した構造である。 皇帝、皇族はこのいずれにも属さない中心部に住んでおり、貴族もまた中心部に近い場所に居住した。
コリカンチャ(太陽の神殿=上記参照=)やサクサイワマン城砦=前節参照=などのクスコ周辺の最も著名な記念物の多くは彼の在世中に建設されたものである。 また、マチュ・ピチュは彼の時代までに建設されたものであると信じられている。
パチャクテクは政治と軍事の才能に溢れていたが、帝位継承法を改良しなかった。彼の息子はパチャクテクが1471年に病状の悪化により死んだ後にも特に争いもなく帝位を継承したが、後の世代では、次代皇帝は内戦に勝つか他者を威圧するかして、地方官、聖職者、軍からの十分な支援を得ることで帝国の支配権を獲得しなければならなかった。
パチャクテクはまた、帝国の最遠部の占領のために大規模な移民計画により数十万人を移動させたと見なされている。 これらの強制的な植民者は、インカ社会の最低階層におかれ、ミティマエと呼ばれた。 ある意味では、インカ帝政は、非常に専制的かつ抑圧的であった。
彼はまた、都市を浄化する儀式であるシテュアにおける神に捧げる歌や詩の作者であった。 『ペルー年代記』のペドロ・サルミエント・デ・ガンボアは1つの詩を臨終の床におけるパチャクテクの作であると比定している。
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・・・・・・続く・・・・・・
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