ムガル帝国・建築文化(4)

ムガル建築4-1

ムガル帝国の第 3代皇帝アクバルは、1571年から1585年にかけて新首都ファテブル・シークリーを建設した。アーグラからその宮廷を移した。

言い伝えによれば、ファテブル・シークリーの都の建設は、ス-フィー(イスラームの神秘主義者) の長老・サリーム・チシュティーの予言によって始まったとされている。

アクバル大帝は 幼児を亡くして世継ぎに恵まれずにいたところ、長老・チシュティは 1568年に、皇帝に シークリーの丘でなら子宝に恵まれるだろうと助言した。

翌年の 8月 30日に嫡子、サリーム(将来のジャーハーンギール帝) が健やかに生まれると、アクバル帝は早速この地に宮殿の建設を命じた と言います。

しかし 戦いにあけくれた皇帝は、突然、新都に背を向けると、ふたたび戻ることがなかった。 その後、宮廷地区が放棄されると、住民は広大な都市の市壁を取り崩してその石材を売って生計の資としたという。

けれども 大モスクは聖者廟とあわせてその後も参詣者が絶えることなく、アクバル大帝のつくった都の高台には、ドームやパビリオンやアーケードが 今も美しいシルエットを連ねている。

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アーグラから 40キロメートルほどのシークリーの地に遷都することを決めたムガル朝の第 3代皇帝アクバル(在位 1556年~1605年) は、できるだけ早く新都に移り住みたいと考え、遠い諸国に住む工匠や職人たちまで北インドに よび集めた。

すでに工事の過程は綿密に計画が立てられていて、1571年に始められた工事を、皇帝は期待感とともに見守っていた。

アクバル大帝はみずから建設資材の選定にあたり、職人に支払う賃金や、高価な赤砂岩にかかる費用にいたるまで計算したといわれています。

こうしてシークリーの丘の上には、短期間のうちに光彩陸離たる宮殿群や大モスク、そして高官の居住地など、さまざまな施設が完成したのです。

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当時はアクバラーバードとよばれた首都 アーグラの城塞 にあった宮廷を、新都に移してまもなく

1573年、アクバル大帝は西インドのグジャラート地方に遠征して勝利をおさめ、領土を拡大した。  凱旋した皇帝はこの勝利を記念して、新都をファテブル・シークリー(勝利の都のシークリー) と名づけたのです。

同時に大モスクの南側には、大きなイーワーン(回廊)をもつペルシャ風のブランド・ダルラーザ(壮麗門) という雄大な楼門を建設した。

これは皇帝の凱旋門であるとともに、ムガル帝国の覇権を象徴しているものでしょう。

アクバル大帝は 建設事業を盛んに行った。 治世の初期につくられた建造物ではデリーにある父フマーユーンの霊廟“フマーユーン廟”が名高い。

帝国の宮殿はデリーと並ぶ北インドの首府であるアーグラに置かれていたが、アクバル大帝は15世紀にロディー朝によって建設された旧城砦を1565年に赤砂岩で築かれたアーグラ城塞に改修した。

そして アーグラの夏場の蒸し暑さと 過密となったアーグラの町 また、1569年には帰依するチシュティー教団の神秘主義者(スーフィー・イスト)の影響を受けてアーグラの近郊に 周囲11kmに及ぶ市域をもった新都、ファテブル・シークリー(「勝利の都」)の建設を始めた。

インド西部域を征服し、ムガル帝国の領土が飛躍的に拡大した翌年の1574年から都を ラホール(パンキャブ)に移しているのです。

1574年から1584年までの間、10年間にわたってラホールを居城としているのです。 無論、1598年までアクバル大帝の都であったラホールの城砦も アクバルの造営になるものです。

ムガル朝の第三代皇帝アクバルは、父の流浪生活の最中に生まれ、中央アジア出身の武人に囲まれて育ったため、幼少時に文字を学んだ経験がなく無学であったが、

サファヴィー朝(イラン、父の亡命先)の宮廷で絵の手ほどきをうけたこともあり、幼年時にペルシャ文化や その芸術の感化を受けていたのでしょう。

ムガル建築4-4

「平安なるイーサーいわく、現世は 1本の橋のごときものなれば、渡り行くほかなし。  しかしそこに建物を建てることなかれ。  現世は汝が礼拝して過ごす束の間に過ぎざれば」

権力の絶頂にあったムガル帝国・第三代皇帝アクバルア帝は、ファテブル・シークリーのオスクに こう刻ませている。 が、この悲観的な言葉が この新首都の未来の姿を表すことになろうとは、誰も想像だにしなかったことでしょう。

ファテブル・シークリーの建設が始まってからおよそ 14年後の 1585年、アクバル大帝は アフガンの軍勢を討伐するために西北辺境に出陣すると、それ以後 ファテブル・シークリーを顧みなくなってしまった。

彼は戦略上、パンジャーブ地方のラホールに城塞を築き、そこを居城として使うようになるのです。 そのために ファテブル・シークリーはゴースト・タウンと化してしまった。

今でも その宮殿群のたたずまいは、ほんの数時間前にアクバル大帝が出かけたばかりであるかのような印象を受けるのは なぜでしょうか・・・・・・

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君主が居ない首都・ファテブル・シークリーはゴースト・タウンと化していった。 原因は西方のアフガニスタン勢力の動向だけでなく、ファテブル・シークリーは、慢性的な水不足と猛暑のために わずか14年間(1574年~1588年)しか使用されず廃墟となったのです。

しかし、1619年に 思いがけず ファテブル・シークリーの宮殿が使われたことがあった。

ふたたび首都となっていたアーグラで 伝染病・ペストが発生し、ムガル帝国・第四代皇帝・ジャハンギールアクバルア帝(在位 1605年~1627年) がアーグラから避難して、この赤砂岩の石壁の内で身を守ったのです。 しかし 彼もまた、わずか 3ヵ月でファテブル・シークリーを去っていった。

ファテブル・シークリー(勝利の都のシークリー)は 台地の上に建設されており、直行するグリッドに則した幾何学的な都市計画が実施されています。

、その中心部は、宮廷地区とモスク地区とに分けられている。 ほとんどの建築物が赤砂岩によって建設された、土着の建築文化とイスラーム建築の融合がなされた都市だったのです。

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ファテブル・シークリーの都はきわめて大きな構想の都市であった。 市壁の長さは 11.2キロメートルにおよび、諸方に門があったが、メインとなるのは東のアーグラ門であす。

当時の市街は残ってませんが、中心を占める丘の上にモスク地区と宮廷地区が、放棄されたおかげで戦乱にもあわず、そっくり残されているのです。

モスク地区は大部分をジャーミ・マスジド(金曜モスク) が占め、その西に離れて小宮殿群、南にハンマーム(公衆浴場) があった。 共に荒廃している。

ジャーミ・マスジドはのちにデリーに造営される、インド最大の金曜モスクに匹敵する規模をもち、集団礼拝の折には中庭を含めて 1万人をも収容できた。

回廊で囲まれた広大な中庭にはふたつの聖廟が建てられたが、とくに聖者サリーム・テシュティーのための白大理石の華麗な廟は、子供を授かりたいと願う女性たちが詣でる 巡礼の地となっています。

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宮廷地区には以下のような建築物が残されている。

パーンチ・マハルは五層の建築物です。 壁がない建築物のため、遊戯、納涼、展望のための施設であったと考えられている。

ディーワーネ・アーム(公謁殿)は皇帝と国民が接する開放的な建築物、広い中庭をアーケードが取り囲んでいる。

ディーワーネ・ハース(内謁殿)は皇帝の私的な謁見のための建物です。 2階の吹き抜けに対角上のブリッジを掛け渡した。 ブリッジの交差部分にアクバル皇帝が腰掛け、1階で諸派の賢人知者が議論するのを見ていた。

ジョーダー・バーイー殿は、アクバル大帝の妃であるマリアム・ッ・ザマーニーの名前がつけられたアクバルの宮殿です。 ペルシャ式の中庭建築であるが、イーワーン(回廊)を伴わないインド建築の要素が覗えます。

モスク地区には

ジャーミ・マスジド(金曜モスク)は、デリーに80年後に建設される金曜モスクとほぼ等しい面積を持つている。

ブランド・ダルワーザー(壮麗門)は、モスク地区の南側に建設された。 1573年に、グジラート地方の征服を完了させたことを記念した凱旋門的性格を持つ門です。 丘の上にある大階段の上に建築されており、建物の高さは、41メートルの威容ですね。

サリーム・テシュティー廟(en)は、聖者サリーム・テシュティーの廟建築です。 ファテブル・シークリー内のほかの建物と異なり、白大理石によって、建設されている。

イスラーム・ハーン廟はほかのファテブル・シークリーの建物と同様に、赤砂岩で建設されており、大勢のスーフィーの墓を納める廟建築です。

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_____ 続く _____

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