ムガル帝国・建築文化(2)

ムガル建築2-1

中央アジアからインドにやって来て、大帝国・ムガル朝を創始したのは、文人皇帝バーブル(在位 1526年~1530年)ムガル帝国・初代皇帝 であった。 その息子である第2代皇帝フマーユーン(在位 1530年~1540年、復位1555年~1556年) は 1530年に帝位を継いだ。

だが、あまり有能な統治者ではなかった。  詩歌や葡萄酒を愛したものの、政治や軍事に十分な腕をふるったとはいえない。 即位して 10年もたつとフマーユーンのムガル帝国・第二代皇帝としての権威はすっかり失われていた。

1540年には、東インドのビハール地方を支配していた総督が、その領地の独立を唱えて反乱を起こし、ムガル朝との 2度の戦いで 勝利をおさめて、シェール・シャーの名のもとにスール朝を始めた。

いったんペルシャに落ち延び・亡命したフマーユーンは、15年後にペルシャの大軍の援助のもとに帰還してスール朝を打ち破ると、1555年にムガル朝を再建した。

その際、亡命先のペルシャ・イラン から大勢の法官や職人、芸術家などを伴ってきていた。

しかし、この非運の皇帝が勝利の美酒に酔っていられる時間は短かった。 ムガル帝国・第二代皇帝フマーユーンは 1556年 1月、宮廷の図書館の階段から落ち、あっけなく死んでしまったのです。

フマーユーン帝の寵愛を受けた妃ハージ・ベグム(ベグム・ベガ)が、王の死後悲嘆に暮れて、それ以後の生涯をただひとつの目的のために捧げた。

彼女が 亡き皇帝の思い出のために、帝国で最も壮麗な廟をヤムナー河の近くに建設させたのです。

約100年後 苦労を共にした寵愛の妃ムムターズ・マハルのために“タージ・マハル”を建立するシャー・ジャーハン、ムガル帝国・第五代皇帝と同じ鎮魂が遺構です。

ムガル建築2-2

ムガル様式の初頭を飾る建物であるフマーユーン廟は また、帝国の最も不運な時代を象徴してもいる。

1857年、イギリス植民地軍の傭兵隊シバービー(セポイ) の反乱に際して、反乱軍側についたムガル朝最後の皇帝バハードゥル・シャー2世(在位 1837年~1858年) ムガル帝国・第17代皇帝は、 3人の王子とともにこの廟に避難した。

英国人ウィリアム・ハドソン将軍によって反乱が流血の内に鎮圧された後、フマーユーン帝の石棺のそばで捕らえられた皇帝は、帝位を剥奪され終身の年金をあてがわれて、ミャンマーへ追放されてしまう。

白髪痛ましい姿で デリーを追われ 異国で死にます。 ヴィクトリア女王(在位 1837年~1901年) が 「インド皇帝」 の称号を宣言したのは、この 20年後の 1877年の事です。

現在、すっかり修復されたフマーユーン廟は、850万の人口を数える首都デリーでも、とりわけ多数の人々が見物に訪れる場所であす。

旧デリー市に在り、牛と人々で活況・騒然な市街路を進んで行くと 超然とした空間 それが
フマーユーン廟でした。 友人の本社建屋は この近くに在りました。

ムガル建築2-3

ムガル帝国・第二代皇帝フマーユーンは五人の妃がいました。 ハニーダ(マリヤム・マカーニ)、マハチュカク、ハージ・ベグム(ベグム・ベガ)、グンワル・ビービー、ビガー・ベーグム です。

ペルシャ出身の王妃で信仰厚いムスリムであったハミーダ・バームー・ベーガム(ハージ・ベグム、ベグム・ベガ)は、

フマーユーン帝が逃亡・困窮の時代に 妃ハミ-ダ・マリヤム・マカーニ(フマーユーンのペルシャ亡命期に死別)が生んだ、ムガル帝国の第3代君主(在位1556年-1605年)・アクバル大帝の治世が始まり、政権を完全に確立したアクバル大帝に 悲願を訴えた。

王の死後悲嘆に暮れて、それ以後の生涯をただひとつの目的のために 亡き皇帝の思い出のために、帝国で最も壮麗な廟を 建設させくれと 1565年の事です。

父と共に 逃亡・亡命・叔父たちとの戦いの苦惨を過ごしてきたアクバル大帝は直ちに デリーのヤムナー川のほとりに壮麗な墓廟を建立する命令を発しています。

ペルシャ出身の建築家サイイド・ムハンマド・イブン・ミラーク・ギャートゥッディーンとその父ミラーク・ギャートゥッディーンの2人の建築家によって 9年の歳月を経て完成された。

贅を尽くしたその工事は フマーユーン・ムガル帝国・第二代皇帝の死後 9年目に完成した。

インドに初めて大規模に建てられたこのイスラームのモニュメンタルな廟建築は、ムガル帝国の廟建築の原型を示すといわれています。

1世紀後の “タージ・マハル廟” において絶頂に達することになるムガル建築の、初期の代表作といえるでしょう。

ムガル朝以前にデリーに継起したイスラーム王朝を一括して 「デリー・スルタン朝」 と言いますが、その最後の王朝ローディー朝によって建てられた 被征服者のインド伝承文化と征服者のイスラーム文化が融合する墓廟群と比べると、

フマーユーン廟は柱や梁、腕木 といったインドの伝統的な建設技法を一掃して、イスラーム建築の尖頭形のアーチを繰り返し用いて全体構成する その新しい創造は デリー・スルタン朝時代の廟建築に見られる無骨な印象は消え、きわめて洗練された造形となっています。

ムガル建築2-4

それまでは簡素なつくりだったファーサード(出入口)も、ここでは赤砂岩に白大理石を組み合わせた華やかな意匠となり、その上部には輝くような総白大理石の大ドーム屋根が架け渡されている。

職人たちは、ペルシャ風の象嵌細工もとりいれている。 ペルシャ、中央アジアではよい石材に恵まれないことから、基本的な建設材料にはレンガを使用して、その仕上げにタイルや石を用いている。

富裕なムガル帝国では自然石をふんだんに用いて、美しい象嵌細工をほどこしている。

クッワト・アルイスラーム・モスク”以来、 350年にわたる「デリー・スルタン朝」時代の技術的発展が、ムガル朝の“フマーユーン廟”において、ほとんど完成の域に達したのではないでしょうか。

フマーユーン廟は、広大な正方形の庭園の中央に位置しています。  庭園は水路によって田の字形に仕切られ、その各々がさらに小さな正方形に分割されている。

純粋に幾何学的な構成になっている。 これをペルシャに発する 「チャハルバーグ(四分庭園)」 と呼ぶのですが、 そのインドへの最初の大規模な適用が、このフマーユーン廟です。

もともと四分庭園には 「楽園の思想」 がこめられていて、中東の砂漠地帯で生まれたイスラム教にとって、塀で囲まれ、日陰と水が豊富にある庭園は天上の楽園の写しだったのです。

その後のムガル朝の廟建築ではこれを範として、数々のすばらしいムガル庭園を実現することになって行き 庭園文化として伝承されます。 建築と庭園とは、思索空間として 常に不可分の関係であることは現代とて 同じでしょう。

ムガル建築2-5

ムガル帝国・第二代皇帝フマーユーン帝の石棺は、四分庭園の中央に建つペルシャ的な造形の廟建築の中央墓室に安置されていました。

建物自体は一辺 90メートルの基壇の上に、中央墓室を 4つの正方形の墓室が対角上に取り巻く形で建っています。

それぞれが隅切りをされているので、全部で 5つの八角形ピランの組み合わせとみることもできます。  すべては幾何学的につくられ、完全な点対称となっている。 幾何学(数学)・天文学はティムールの時代に発展し、ギリシャに伝わったがくもんですね

ムガル建築2-6
建物の 4面は同一の形をしていて、それぞれに 3つの大アーチが並んでいる。  中央のアーチが最も大きく、その内側は半ドームで覆われた半外部空間となり、これをペルシャでは 「イーワーン」 とよんでいます。

このイーワーンがペルシャでは中庭を囲んで 4基が向かい合うのであるが、ここでは 4基のイーワーンーンが背中合わせとなり、全体をひとつの彫刻的な造形物としているのです。

これは、あらゆる造形美術のなかで最も彫刻を好むインド人に合わせた工夫の結果ではないかと 建築史家は考えています。

高さ 38メートルの中央ドームは中央アジア的な二重殻ドーム(採光用にと、私は考える)をなし、屋根をなす外側のドームは白大理石で覆われている。

そのまわりに、柱で支えられた傘のようなチャトリ(小塔) が建ち並んでいて、インド風の印象を受ける。 外殻ドームの 12メートル下で内部を覆うドームは、中央墓室にとってほどよい高さの 3分の天井となり、周囲の墓室や、四方のイーワーンとを結び付ける要の構造的空間を作っている。

ムガル建築2-7
この廟には、およそ 150人もの死者が埋葬されたとされている。 フマーユーン帝に加えてその王妃のハージ・ベグム、王子のダーラー・シコー、そして重要な宮廷人たちです。

玄室となる建物の中央にはフマーユーン皇帝の墓として白大理石の石棺が置かれていますが、これはいわば仮の墓、すなわちセノターフ(模棺)であり、実際のフマーユーン皇帝の遺体を納めた棺はこの直下に安置されています。

王妃のハージ・ベグム、王子のダーラー・シコー、も同じですが 重要な宮廷人たち それぞれの石棺がどのように配されたのかは 詳細は分かっていません。

彼らの支配した時代に、インドのイスラーム建築は まさにその栄光の頂点に達した。

この廟が竣工したムガル帝国・第三代皇帝・アクバル大帝の治世に、芸術の都としてのデリーの地位もまた確立した。

もっとも、厳しい経済政策によって知られるこのアクバル大帝は、フマーユーン廟の内部の装飾を簡素なものにした。

中央ドーム天井にはほとんど装飾がなく、むしろ前室の小ドーム天井のほうが豊かに飾られています。

18世紀の半ばに デリーを訪れた英国総督ウィリアム・フレンチは次のように記している。 「広い内部空間には高価な絨毯が敷かれていた。 石棺は白い布で包まれ、その上には天蓋がある。 手前には故人の書籍や剣、そしてターバンと靴があった」

ムガル建築2-8

建築史的には、同時代のペルシャ建築と共通する要素が多いといわれていますが、フマーユーン廟で採用された上層建築の形式は過去の廟建築にはみられず、むしろ宮殿パビリオンの系譜に連なる形式に属している。

この形式は、アーグラ近郊シカンドラに所在するアクバル廟や 第4代皇帝ジャーハーンギールの墓廟であるジャーハーンギール廟には採用されなかったものの、第5代皇帝シャー・ジャーハンが第一王ムムターズ・マハルのためにアーグラに建てた墓廟「タージ・マハル」では再び採用されることとなった。

と 建築史学書には 記載されています。

追記 ; フマーユーン廟の周辺には、上述のスール朝のシェール・シャーの宮廷に仕えた貴族イサ・カーンの墓廟であるイサ・カーン廟、13世紀後半から14世紀前半にかけてのイスラムのスーフィーの聖者の墓廟ニザームッディーン廟、また、サブジ・ブルズ廟など、墓建築をはじめとするイスラームの宗教遺跡が数多く分布しています。

_____ 続く _____

                         *当該地図・地形図を参照下さい

—— 姉妹ブログ 一度、訪ねてください——–

【疑心暗鬼;民族紀行】  http://bogoda.jugem.jp

【浪漫孤鴻;時事心象】  http://plaza.rakuten.co.jp/bogoda5445/

【閑仁耕筆;探検譜講】  http://blog.goo.ne.jp/bothukemon/

【壺公慷慨;世相深層】  http://ameblo.jp/thunokou/

※ 前節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/07/02/

※ 後節への移行 ≪https://thubokou.wordpress.com/2013/07/04/

ブログランキング・にほんブログ村へ クリック願います 

コメントを残す